新しい家
六月のどんよりとした曇り空の下、作業服を着た男たちがトラックの荷台から段ボールを抱えて降りてくる。彼らはトラックと、道路沿いに建つ真新しい四角い家をせわしなく往復していた。
「それは、キッチンの方ね。そっちは洗面所のだからその辺に置いてください」
玄関入ってすぐのホールで、吉川かずさは作業員たちに荷物の置き場所を指示する。
「それは、えーと、子ども部屋です。ああ、リビングの向こうの1階洋室……」
ホールからリビングの方へ首を突っ込み、「あなた!」とかずさは呼ばわる。
「テレビは後にして、荷物手伝って!」
リビングの一隅で、テレビに巻かれた段ボールを解いていた吉川圭一は「うーん、わかったよ」と生返事をする。
「いいえ、わかってない! さっさとこっち来る!」
「わかったって……」
テレビを置いて立ち上がると、圭一は一つ伸びをする。そして、リビングの隣の洋室へ声をかけた。
「結衣ちゃん、まだカーペットやベッドが来るから、部屋に入ってちゃ邪魔になるよ」
扉の開け放たれた洋室にいた少女・吉川結衣は、父親の言葉に「はーい」と返事してリビングに出てきた。
「邪魔になってるのはあなたよ!」
かずさが目をつり上げて夫に声をかける。
「まだまだ荷物あるのに、こんな段階でテレビ広げて!」
「ごめんって……」
気弱そうな笑みを浮かべて、拝むような仕草をしながら圭一はリビングを出て行った。
作業員たちは、めまぐるしくトラックと家の間を行き来し、2時間もしない内にすべての荷物を入れてしまった。手早く引っ越し用の保護材を剥し、かずさと圭一に挨拶して帰って行った。
「さあさあ、早くしましょう。結衣、自分のは自分でできるよね」
「できるよ」
少しうざったそうに応じて、結衣は1階リビング横の洋室へ入っていく。
「重たいものとかあったら、母さんに声掛けるんだぞ!」
「あなたが行きなさいよ!」
冗談だよ、笑う父親から顔を背けるように、結衣はぴしゃりと洋室の戸を閉めた。
「本当に大丈夫かしら? やっぱり小学生から自分用の部屋もたせるの贅沢じゃない?」
「そんなに心配することないと思うよ」
眉をしかめるかずさに、どこかうんざりしたような口調で圭一は応じた。
新しく家を買うとなった時、かずさは「2階の一部屋を中学からの結衣の部屋にしよう」と提案した。
小学生の間は、今まで住んでいたテラスハウスと同じように、夫婦の布団の間に結衣を寝かせ親子3人川の字で寝る。2年後中学に上がったら、独立した部屋を持たせる。そういう考えであった。
それに対して、圭一は「もう部屋をやってもいいんじゃないか」という意見だった。
「僕も夜遅いことが多いし、寝に来た時に結衣ちゃんを起こしちゃうじゃない。せっかく広い家にするんだからさ、そういうのもなしにしたいよ」
当時暮らしていたテラスハウスでは、そういうことがよくあった。圭一が夜遅かった翌日は、結衣も眠りが浅くなるのか寝坊しがちだった。
小学生からなんて贅沢よ、とその時もかずさは同じことを言った。
「それに一人の部屋なんて持たせたら、中で何やってるかわからなくなるじゃない。ただでさえ、最近反抗的なのに……」
「あの年頃の女の子ってそういうものだろ? 君だってそうだったんじゃないか?」
それは、とかずさは口ごもる。小学校高学年から中学卒業、いや高校生ごろまでのことは、できたら触れられたくない過去である。
「反抗期が来なければいい、なんて親のエゴだよ。部屋を与えたら、逆に落ち着くかもしれないよ?」
それにここなら、と圭一が指したのは1階リビングに隣接した洋室だった。住宅会社の出したプランでは、この洋室は「間仕切りの有無を選択できます」とあった。5.2帖のこの部屋とリビングを繋げて広くしようか、という話も出ていた部分だ。
「リビングやキッチンからも近いし、そんなに心配はないんじゃないかな」
そこまで言われては、とかずさも渋々納得したのである。
※ ※ ※
一方、両親の間でそんなやり取りがあったともつゆ知らず、結衣は自分の部屋がもらえるとあって大喜びだった。さっきも引っ越し屋さんが出入りする中、部屋に入っていたのも、そんな喜びの表れである。
両親の前ではクールに振舞った(つもりだ)が、部屋の扉を閉めるなり、新品のベッドに満面の笑みで飛び込んだ。
あの貧乏くさい長屋の布団じゃなく、これからはこんないいベッドで、しかも誰にも邪魔されない自分だけの部屋がもらえるなんて! 引っ越すと聞いた時は正直ダルいと思ったけど、最高じゃないか!
新しいシーツの香りに包まれながら、結衣はベッドを転がる。むふふふふ、と思わず漏れる笑いを押さえられない。
友達もたくさん呼ぼう。引っ越したけど、転校をしていないのも嬉しい。床のその辺にクッションを敷いて座ってもらって、と身を起こした時、すぐに現実に引き戻される。
真新しいピンクのカーペットの上に置かれた、大量の段ボールが荷解きを待っている。
自分でやれるって言ったけど、正直この数面倒くさいな。でも、自分でやらないと、あのガミガミババア怒るんだろうな……。最悪、部屋を取り上げると言い出しかねない。
「はぁ……しょうがないな」
とりあえず何か文句を言わねば行動できない年頃である結衣は、最近よく使うそれを口に出して、取りかかることにした。
通学鞄、ポシェット、見たくもない教科書とノート、参考書、ほとんど読んでない本、マンガ、かわいいメモ帳や便せんの束、文房具類、電気スタンド、雑多な小物などなど……。それらをまずカーペットの上に並べる。
とりあえず、机とタンスの上から始めようか。結衣は今まではキッチンに置かれていた勉強机に目をやる。ネコのキャラクターの絵がついた、いかにも「小学生向けの学習机」らしい机だ。正面にでかでかと貼りついているキャラクターの絵は、中学に上がるまでに捨ててしまいたい。
いつしか、窓を叩く雨音が聞こえ始めていた。机周りの整理を終えて、結衣は本棚の方に取り掛かる。
こんな読まない本いらないのに。母方の祖母が買ってくれた名作児童文学の数々を、手荒に棚に詰めながら、うんざりと結衣はため息を吐く。
もうヤダなー。ふと目をやると、部屋の戸が少し開いていた。引き戸なのが、この部屋唯一の不満点なのだが、それが3センチばかり開いていた。
あのババア、のぞき見してるのか? クソ、と悪態をついて戸に近付き、一気に開け放つ。
「……あれ?」
引き戸を開けた先には、誰もいなかった。
静まり返ったリビングは、妙に暗くて寒々しく、よそよそしかった。
ラグが敷かれ、その上に載ったソファの背中越しに、テレビが鎮座しているのが見える。設置はもう終わったのだろう。
キッチンの方を見ても、誰もいない。まだ段ボールは残っているが、あらかた終わったということで、両親とも2階で荷解きをしているのかもしれない。
じゃあ、勝手に開いたってこと? やだ、ケッカンジュータクじゃん。上手く漢字に直せない言葉を呟いて、結衣はぴしゃりと戸を閉めた。
※ ※ ※
「今日から一人で寝るけど、寂しくない?」
「子供じゃないんだから、大丈夫だよ」
「子供でしょ」
チェッと結衣は舌打ちした。それ言っちゃ終わりでしょ。
午後8時、夕ご飯も済ませ、後はお風呂に入って寝るだけという時間帯だ。
「お父さんの後、お風呂入るの嫌なんだけど」
圭一は20分ほど前に、記念すべき新築一番風呂へうきうきと入って行ったところだ。そろそろ出てくる頃だろう。
「お母さんだって嫌よ」
本人が聞いていたら、さめざめと泣き出しそうな会話を妻と娘はした。
「でも、今度のお風呂、広くていいわよ」
「これで狭かったら嫌だよ」
あんたまたそんな言い方して、とかずさが顔をしかめた時、「あー、いいお湯だった」という声が洗面所から聞こえた。
「あんた着替え用意したの? パジャマも下着も持ってきてないじゃない」
「え? 用意しといてよ!」
「何言ってるの、自分の部屋にあるんだから、自分で用意しなさい」
はーい、と返事に不満を乗せて、結衣は部屋に着替えを取りに戻った。
ホント、あのババア口やかましいんだから。
洗面所で服を脱ぎ、洗濯かごに放り込む。すべて脱いでふと顔を上げると、ぴかぴかの鏡に口を尖らせた自分の顔が映っている。
あんなにやかましく言われちゃ、この顔が普通の顔になっちゃうよ。抵抗するように、結衣はわざと笑顔を作る。口角に力を入れ、更に指で押し上げた。暗い顔ばっかりしてちゃ美人になれないって、誰かも言ってたもんね。
そこでふと、鏡に映った自分の肩の上に何かが見えた。
いや、肩の上じゃない。肩越し、後ろだ――。
振り向いたが、そこには誰もいなかった。ただ、洗濯かごだけが置かれている。
当然だ、今この洗面所には、結衣以外は誰もいるはずがないのだから。
ちょっと気持ちがざわついてるのかな? 新しいカンキョーだから。
ピチャ……、ピチャ……。
そう思い直した時、結衣の耳に水音が聞こえた。
音の方に顔を向けると、鏡の下の蛇口から雫がこぼれている。
さっきまでは、出てなかったのに……。緩いのかな? 水道のハンドルを押して、結衣はそう考えることにした。
いつまでも素っ裸でいるもんじゃない、早くお風呂に入ってしまおう。
※ ※ ※
どこかの池のほとりに、結衣は立っていた。
柔らかい感触に足元を見ると、裸足で土の上に立っていた。
どんよりとした雲が空から垂れ下がり、草生したにおいが肺いっぱいに入ってくる。
ここはどこなんだろう?
辺りを見回すと、周囲は田んぼだらけだ。ただ、人っ子一人いない。まだ短い緑の稲ばかりが広がっている。
池は空の色を映すかのように、鈍色に濁っていた。一足近付くと、むわっとした臭気が立ち上ってきて、結衣は思わず鼻をつまんだ。
汚いドブみたいだ。
カエルとか、よくわからない変な虫がいそうで、一歩たりとも近付きたくない。
近づきたくないのに、足は前へ前へ、池の方へと進むのを止めない。まるで結衣のものでなくなったように。
ひたり、と素足が池の水面に波紋を描く。更にもう一足、ざぶりと腰までつかる。
池の中に浸かっても、足は止まらない。真ん中へ、一足一足。深い方へ、深い方へ。
結衣はもう肩まで濁った水に浸かっていた。水が跳ねて口元にかかり、池の底で煙るヘドロのにおいが、鼻腔から脳へと突き抜けた。
おぼれる――!
悲鳴を上げて、結衣は飛び起きた。
見慣れぬ部屋に一人であることに一瞬混乱するが、すぐ引っ越したのだと思い出す。
体はじっとりと汗でぬれている。水場の夢だったが、何とか下の方は漏らさずに済んだようだ。シーツに触れて、そこは安心する。
時計を見上げると、夜光の針は3時を少し回ったところだった。
何だったんだろう、今の夢。
結衣は、ベッドの真上にある窓のカーテンを少し開ける。闇夜の中、窓ガラスを雨粒が叩いていた。
※ ※ ※
どうも、この家はおかしい。
部屋で一人勉強したり、遊んだりしていても、どこかから視線を感じる。
何かがいる。
最初は両親のどちらかが見に来ているのかと思っていた。現に、深夜に圭一が様子をそっと見に来ることは何度かあったから。初日に飛び起きた時などは、そのお陰で安心して眠ることができた。
しかし、両親ともがいない時間帯にこそ、視線を感じるのである。そして、そういう時は決まって、引き戸が少し開いているのだ。
結衣がそのことを母かずさに話したのは、引っ越しから4日目の夜であった。
「何か、って何よ?」
かずさは怪訝な顔で結衣を見返す。
「何かよ。あたし達家族だけじゃなくて、他の何かがここにいると思うの」
「馬鹿なこと言ってないで、宿題はしたの?」
聞いてよ、と立ち上がりかけたかずさを結衣は引き止める。
「とにかくおかしいの! トイレが水浸しになったの、お母さんも知ってるでしょ!?」
「あれはあんたがやったんでしょ」
「違うって言ってるじゃん!」
昨日のことだ。
夕方、仕事から帰ってきたかずさがトイレに入り、すぐに眉をつり上げて出てきた。そして無遠慮に、結衣の部屋の引き戸を開く。
「ちょっと、結衣! なんてトイレの使い方してるの!」
来なさい、と腕を引っ張られる。何よもう、と引きずられるようにしてトイレにやってきて、結衣は驚いた。
便器の周りの床がびしょびしょに濡れていたのだ。
「どうしてこんなことした!?」
「してないよ! するわけないじゃん!」
学校から帰ってきたのが午後4時前、今が7時過ぎであるが、その3時間の間に結衣はトイレに入っていないのである。
そう抗弁しても、かずさは聞く耳を持たない。
「あんた以外いないでしょ!」
すぐ片付けなさい、と取り付く島もない態度で、かずさは肩を怒らせてトイレを出て行く。
こうなったら何を言っても無駄だ、と結衣は仕方なく雑巾をとり水を拭くことにした。
「あの時の水、トイレの水じゃなかったの」
「何をまき散らしたの?」
あたしじゃないってずっと言ってんじゃん! と叫んでから、結衣は少し冷静になって続ける。
「拭いた後の雑巾、緑色っぽくなったの、見たでしょ?」
理科室のメダカが入った水槽からこぼれた水を拭いたら、ちょうどあんな感じだった。藻とか、そういうものを含んだ外の水なのだ。
「あれ、池の水よ! あたし、見たんだもん! 田んぼの中にある池でおぼれる夢! きっとそこでおぼれた誰かの幽霊がいるのよ!」
大きな、大きなため息をかずさはついた。
「あんたさ、この家は新しく建てたってわかってるよね?」
前のボロッちいとこならともかく、とかずさは呆れたように首を横に振る。
「この新しい家の、どこに幽霊との関わりがあるのよ? そもそも池? そんなのこの辺ないじゃない」
結衣は言葉に詰まった。
かずさの言う通り、この家の周辺は住宅地だ。吉川家と似たような、新しい家がたくさん建ち並んでいる。どこも明るく現代的な雰囲気で、おどろどおろしい「幽霊」や夢に見たような「汚い池」が存在する余地は見当たらない。
「馬鹿なこと言ってないで、お風呂入って寝ちゃいなさい」
後片付けもあるってのに、と立ち上がる母親を、結衣に引き止める術はもうなかった。
その日も圭一は0時を回った頃に帰ってきた。
遅くなる日は「先に寝ておいて」と言われており、普段はそうしているのだが、今日のかずさは圭一を玄関前のホールで出迎えた。
「どうしたの……?」
「ちょっと結衣のことで相談があるの」
驚いた様子の夫と共にリビングへ入り、かずさは結衣が訴えてきた「別の何かがいる」という話をした。
「どう思う? こういうこと言う子じゃなかったのに……」
結衣はどちらかというと活発な子で、子供らしく怪談話の類も好きではあったが、のめり込むという程ではない。
「そういうのに興味を持つ年頃だとは思うけど……」
そう言いながらも、圭一は別の考えを口にする。
「一番あり得そうなのは、環境の変化によるストレスじゃないかな? 急に一人で寝るようになったし、子供というのは敏感なものだからね」
「ストレスで、幻覚を見てるってこと?」
その線はあるだろう、と圭一はうなずいた。
「かずささんは気付かなかったかもしれないけど、結衣ちゃん引っ越し初日の深夜に、悲鳴を上げてたんだよ」
こっそりと圭一は階下に降り、部屋の様子を見に行ったという。
「僕が部屋を覗いた時にはもう眠っていたけど、そのおぼれる夢っていうのは、あの時見てたんじゃないかな?」
「そんなことが……」
かずさは気付かなかった自分を恥じるように目を伏せる。「仕方ないよ、疲れてたんだから」と圭一は慰める。
「気晴らしになるようなことを、考えてあげられたらいいんだけどね」
かずさは、「そうね」とうなずいた。
※ ※ ※
翌日、学校から帰ってくると、結衣は自室に通学鞄を置いてすぐに家を飛び出した。
口に出してしまったことで、結衣の感じる「何か」の気配は色濃くなっているように思え、あまり家の中に一人でいようという気になれなかったのである。
せっかく自分の部屋をもらったのに。
口を尖らせ自転車にまたがると、結衣は近所のスーパーマーケットへ向かった。
最近、友達のみんなは塾や習い事に忙しい。結衣も女子バスケットボールのクラブに入っているが、中には3つも4つも掛け持ちしている子もいる。高学年になるにつれて、その日に「遊ぼう」と誘っても、予定が合わないことが多くなってきた。
そんな中、結衣の急な誘いに応じてくれたのは、同じクラスの冨田陽菜という子だった。
結衣の新しい家からほど近いところには、古い民家が立ち並ぶ区画がある。
そこは大きな家が多く、また同じ苗字がたくさん並んでいる。その苗字が「冨田」で、陽菜はその区画の中でも一際大きな屋敷の子だった。
陽菜と待ち合わせ場所にしたスーパーは、家から自転車で5分程のところにある。場所は知っているが、結衣は入るのは初めてだった。ここでお菓子を買って、近所の公園でおしゃべりをする予定だ。
自転車をスーパーの前に停め、結衣は陽菜の姿を探す。自転車は10台ほど停まっているが、陽菜のものは見当たらない。まだ来ていないようだ。
親にどこ行くか言わないと出られない、って言ってたもんな。それで時間がかかっているのだろう、と結衣は推測した。
入口の方にいよう、と一番大きな自動ドアの方へ歩いている途中、ガラス壁に貼られた古いポスターが目に入る。
「平井龍斗くん発見にご協力ください!」
赤い字でそう書かれたポスターには、結衣と同じくらいの年かさの男の子の写真が載っていた。髪を短く切った、やんちゃそうな少年だった。
平井龍斗、20××年当時11歳、行方不明時の服装:××の野球帽、白いTシャツ……
あたしが生まれた年じゃん。
そんな事件があったなんて、まったく知らなかった。両親も、結衣が2歳の時にこの辺りに移ってきた人たちなので、彼らの口の端にも上ることはなかったのだ。
ポスターには地図も載っていた。この龍斗くんが行方不明になった辺りなのだろう。スーパーというのがここだとすると、この道は……。
「気になる? 行方不明の子」
横から急に話しかけられて、結衣は「わっ!」と声を上げてしまった。
「陽菜、おどかさないでよ……」
ごめんごめん、と冨田陽菜は手を合わせる真似をした。
「あんまり熱心に見てたからさ」
「そ、そう?」
陽菜はポスターの地図を「それさ」と指差す。
「わたし達が生まれる前の地図だから、全然わかんないよね」
「うん、それ思ってた」
このスーパーここだよね、と聞くと、「らしいよ」と陽菜はうなずく。
「昔は、うちの近くって田んぼばっかりだったんだって」
田んぼ、と言われて結衣の脳裏に引っ越し初日に見た夢がよぎる。
「でも、お米作ったりとかしなくなっちゃって、政邦おじさんって人が潰したんだって」
陽菜は、広大な田んぼが冨田家の持ち物であったことをさらりと述べた。
「田んぼって、どの辺りにあったの?」
「今、新しい家が建ってるとこら辺だって」
それはつまり、結衣が住んでいる家の辺りも含まれている。
「田んぼだったの、うち?」
「結衣ちゃんの家どの辺だっけ? うちがね、この辺なんだよ」
陽菜はポスターの地図の南東辺りを指す。スーパーとの位置関係や、大雑把に引かれた道の線から、「この辺かなあ」と結衣は指で丸をした。
「あー、ここの辺も田んぼだったっておばあちゃん言ってたな」
かつてこのスーパーに陽菜が祖母と買い物に来た際、このポスターの話題になったことがあったそうだ。
「その時、この子はため池に落ちたんじゃないか、って言ってた」
「池……」
田んぼに水を入れる池だって、という陽菜の言葉は半分くらいしか聞こえなかった。結衣の中で、物語が組み上がっていくような感覚があり、それに心を奪われていたから。
昔、男の子が落ちて死んだ池があった。その上に建ったのが、結衣の家だったとしたら?
池と田んぼが、あの新しい家と関わりを持つことになる。
「結衣ちゃん?」
平井龍斗くん。その名前を、結衣は頭に焼き付ける。
家にいる「何か」の正体は、この子なんだ――。
※ ※ ※
門限の5時を前に、陽菜は帰って行った。自分から誘っておいて、ちょっと半端になってしまったことを後悔しながら、結衣は家へ急ぐ。
自転車を走らせ、玄関の鍵を開ける。
かずさはまだ帰ってきていない。普段ならば6時ごろ、ここ最近はもっと遅い。事務員をしているかずさは、六月は「ケッサン」とやらで忙しいらしく、帰りが遅くなることもしばしばであった。
お母さんたちが帰ってくる前にやろう。どうせ、言っても信じてもらえないんだから。
玄関からホールに上がって、結衣は意を決して口を開く。
「……ひらい、りゅうと、くん」
にわかに、家の奥から何かの気配が立ち上った気がした。
やっぱり、そうなんだ。ホールから結衣はリビングへ移動する。
「りゅうとくん」
さっきよりもはっきりと、結衣は呼びかけた。
無人のリビングを見回すと、自室の引き戸が3センチばかり開いている。
しっかり閉めたはずなのに。中に入った? いや違う、中から出てきたんだ。
結衣は自室の戸に近付いた。途端、あの臭気が鼻をつく。
躊躇いながらも、結衣はにおいを追った。まっすぐに、キッチンの方へ続いている。
「りゅうとくん、りゅうとくん」
対面式キッチンのカウンターの辺りに来た時、結衣は三度目の呼びかけをする。
ツーッという音が聞こえ、結衣はそちらを向いた。
カウンターの奥、シンクの蛇口から一筋の水が流れている。
強い藻のにおいを感じながら、結衣は恐る恐るシンクに近付き水を止めた。
そうか、水なんだ。
池、田んぼ、雨、洗面所、トイレ、そしてシンク。水があるところに、りゅうとくんはいるのだ。
そう思った時、トイレから水が流れる音がした。
振り返ると、食卓の向こうの壁の奥で、ゆっくりとトイレの戸が開いていくのが見えた。
そこから、何かが洗面所の方へ入って行った気がした。
ここまで来たら。結衣は生唾を飲み込んだ。じっとりと、額に汗がにじむ。
何としても、出て行ってもらおう。
この場所はもう、平井龍斗のおぼれた池ではない。結衣の、結衣の家族の新しい家なのだから。
足音を殺して、結衣は洗面所へ入った。
鏡の下、蛇口の水が出ている。やっぱりここにいるのだ。
水を止め、結衣は風呂場の方を振り返った。
風呂場の戸は開いている。あの夢で嗅いだ池のにおいが、強く漂ってきていた。
靴下のまま一歩、中に入る。ほとんど池のほとりにいるような臭気に包まれる。
風呂釜の蓋はどかされていた。覗き込むと、夢で見たのと同じ色の水面が揺れていた。
「りゅ、りゅうとくん」
水面の中に、結衣は呼びかける。
「ここは、あたしの家なの。もう池とかじゃなくて、人が住んでる場所なの。だから――」
その時、突然水面から何かが飛び出してきた。
腕だ、と思った瞬間、結衣は顔に強い痛みを感じた。ぶよぶよとした感触の手の平が結衣の顔を掴んだのだ。
悲鳴を上げる間もなく、結衣は引っ張り込まれた。
ぬるく、生臭い水の中で、結衣は必死に息を止めようとするが、空気は鼻から泡になって容赦なく漏れ出て行く。振りほどこうにも、腕はがっちりと結衣の顔を掴んでいて離さない。
暗い水面の中、顔を掴む指の間から腕の主が見えた。
水底に潜むそれは、光る目で結衣のことをじっと見据えている。
閉ざしていた口が開き、結衣の口から大きな泡が立ち上る。
このまま、おぼれ――。
「何してるの!?」
遠のいていく意識と落ちていく身体が、強い力で引き戻された。
後ろに引っ張られて、結衣は風呂場のタイルで腰を軽く打った。
荒い息を吐いて見上げると、かずさがこちらを見下していた。早めに帰ってきたらしい。
「空っぽのお風呂に頭突っ込んで、何の遊び?」
そう言われて浴槽を見やると、さっきまで顔が浸かっていたはずの水が影も形もなかった。
池の水どころか、中は全く乾ききっており、栓も抜けている。
夢だったのか? 結衣は肩で息をしながら考える。あの名前を呼びながら、家の中を歩き回ったのが、何だか現実離れした景色のように思えてきた。
「顔にそんなあざまでつけて……」
かずさに指摘されて、結衣は風呂場の鏡をのぞく。額のこめかみの辺りと、頬の下のフェイスラインに左右1つずつ、計4つのあざがついていた。その形は、指の痕のように見えた。
夢なんかじゃない。
そう思い直した時、結衣はこみ上げてくるものを感じた。口元を押さえるが間に合わず、風呂場の床にそれは広がっていく。
「ちょっと、この水何……?」
どこで飲んだの、と慌てるかずさの声を聞きながら、結衣は排水溝に流れていく、青臭い緑がかった水を呆然と見送った。
※ ※ ※
この一件からしばらくの間、結衣は元気を失い、翌日は学校を休むことになった。
眠るのも、自分の部屋ではなく両親と同じ部屋にした。ちょうど以前の家と同じように、親子三人川の字になって。
風呂場であったことを両親に話すと、さすがのかずさも信じた様子だった。むしろ結衣よりも怯え、「お祓いを受けに行こう」と言い出した。
圭一は、そんなかずさの様子を見て「それで気が済むなら」と言い、遠くの偉い神主さんのいる神社まで車を出した。
事情を話し、型通りの祈祷をしてもらって、ようやくかずさも安心したようだった。すると、早速小言が始まってしまう。
「いい? こんな危ないこと、二度と1人でしちゃダメよ? 絶対に、お父さんやお母さんに相談しなさい。いいわね?」
こんなこと、二度とないって。同じことを何度も繰り返すので、結衣は辟易とした。
二週間も経つ頃には結衣も元気を取り戻し、自分の部屋で寝るようになった。
あれ以来、家の中にいた「何か」の気配はなくなった。
結衣の部屋の引き戸が勝手に開いたり、蛇口からひとりでに水が出たり、トイレが水浸しになったりすることもなくなった。あのため池の夢も、もう見ることはない。
新しい家が、結衣たちを受け入れてくれたような、そんな気がした。
七月に入り、結衣はテレビのニュースで知った名前を見かける。
「××山山中で見つかった白骨死体について警察は、11年前に行方不明になったU県M市××町の当時11歳の少年、平井龍斗くんと断定し……」
この近所の子じゃない、とかずさは言い、すぐに思い当ったのか結衣の顔を見た。
「あんたが幽霊じゃないかって疑ってた子でしょ? 池に落ちたって言ってたけど、えらく遠いところで死んでるじゃない……」
ニュースによれば、別の容疑で逮捕された男の供述から山中を捜索したところ、白骨死体が発見されたという。
「じゃあ、あんたが見た幽霊って、この子じゃなくて……」
ちょっと聞いてるの? と問われて、結衣は「聞いてる」と短く応じた。すっかり薄くなった、指の痕のようなあざが疼くような気がした。
※ ※ ※
その翌日、結衣はまた前のスーパーマーケットで冨田陽菜と待ち合わせた。
ガラス壁に貼られていた、平井龍斗の情報提供を呼びかけるポスターは、早くも剥されている。残ったテープの痕を見ていると、陽菜がやって来た。
「そこに貼ってあったポスターの人、別のとこで死んでたんだってね」
陽菜とはあの後も、毎日学校で顔を合わせていたが、自分の身に起きた現象については話していなかった。それは他の友達に対しても同じである。圭一から「無闇に人に言っちゃいけないよ」と言い含められていたのもあるが、何となく口に出すとよくないような気がしたためでもある。
けれど、「ため池に落ちた」という陽菜の祖母の話自体は気になっていた。あの時現れたのは平井龍斗ではなかったが、ため池が関係しているのは確かなはずだ。現れたものの正体を、少しでも知りたかった。
「うん、ため池関係なかったじゃん。陽菜のおばあちゃん、何であんなこと言ったの?」
非難がましい言い方であったが、陽菜も「だよねー」と同意を見せる。
「わたしもそれ、おばあちゃんに聞いたんだ。ため池に落ちたんじゃないかって、前言ってたじゃない、って」
そしたらね、と陽菜は少し辺りを見回してから小声で続ける。
「あの池の周りでは、よく子供が消えていたから、そうじゃないかと思ってたって言うの」
「子供が?」
そうそう、と陽菜は少し怯えたように眉を下げる。
「そのため池はね、子供を欲しがるんだって」
池のほとりに子供が一人で立つと、中に引きずり込まれる。
名前を呼びかけると、底からあぶくが上がってくる。
中にいる『何か』が、子供を取ってさらう。
だから、あの池に近付く時は大人が一緒でなきゃいけない。
陽菜の祖母が子供の頃は、そんな言い伝えがあったという。
「それって、子供が落ちたら危ないから池に近付かせないようにするための『メーシン』じゃないの、ってわたしは言ったんだけど」
メーシン、つまりは迷信のことであろう。結衣にははっきりとその意味はわからなかったが、ニュアンスは感じ取れた。
「そんなんじゃない、っておばあちゃんは言うの」
あのため池には、本当に「何か」がいたんだよ。でなきゃ――
「でなきゃ、わざわざ新しい池を別に造らない、って」
陽菜の祖母がちょうど今の結衣たちの歳の頃、別の場所に新たなため池が掘られたという。
「池にいるよくない『何か』が、田んぼに入ってこないように、って」
七月初めの蒸し暑い気温の中、結衣は背筋がゾクリとする。
「元あった池は囲いがされたけど、そのまま残してたっておばあちゃん言ってたな」
下手に埋めたりすると、何か「障り」があるのではないか。
そういう話になっていたから、政邦という親戚が池の辺りを埋め立てて、住宅にしようとした時、陽菜の祖母は先鋒に立って反対したという。
「でも、結局おじさんが勝って、あの辺に家を……」
どうしたの? と陽菜は結衣の顔をのぞきこんで来た。
「顔色、悪いよ」
「何でもないよ……。中、入ろう」
寒気を振り払うように幾度も首を振って、結衣はスーパーの入り口へ向かった。
もう関係ないんだ。これ以上、知る必要はない。あの新しい家は、もうあたし達の家になったんだから。忘れてしまおう。
そうやって振り払おうとしても、元気になったと思っても。結衣の頭の中には、あの日風呂の底で見た「モノ」が焼き付いて離れない。
あれを見た瞬間、自分を引き込んだそれが平井龍斗の幽霊なんかではなく、もっと悍ましいものだと思い知らされた。
あの時、水底の澱の中に見えた目、無数の虚ろな銀色の光は、決して人のものではなかったのだから。