表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

新しい家

作者: 雨宮ヤスミ

 

 

 六月のどんよりとした曇り空の下、作業服を着た男たちがトラックの荷台から段ボールを抱えて降りてくる。彼らはトラックと、道路沿いに建つ真新しい四角い家をせわしなく往復していた。


「それは、キッチンの方ね。そっちは洗面所のだからその辺に置いてください」


 玄関入ってすぐのホールで、吉川(よしかわ)かずさは作業員たちに荷物の置き場所を指示する。


「それは、えーと、子ども部屋です。ああ、リビングの向こうの1階洋室……」


 ホールからリビングの方へ首を突っ込み、「あなた!」とかずさは呼ばわる。


「テレビは後にして、荷物手伝って!」


 リビングの一隅で、テレビに巻かれた段ボールを解いていた吉川圭一(けいいち)は「うーん、わかったよ」と生返事をする。


「いいえ、わかってない! さっさとこっち来る!」

「わかったって……」


 テレビを置いて立ち上がると、圭一は一つ伸びをする。そして、リビングの隣の洋室へ声をかけた。


結衣(ゆい)ちゃん、まだカーペットやベッドが来るから、部屋に入ってちゃ邪魔になるよ」


 扉の開け放たれた洋室にいた少女・吉川結衣は、父親の言葉に「はーい」と返事してリビングに出てきた。


「邪魔になってるのはあなたよ!」


 かずさが目をつり上げて夫に声をかける。


「まだまだ荷物あるのに、こんな段階でテレビ広げて!」

「ごめんって……」


 気弱そうな笑みを浮かべて、拝むような仕草をしながら圭一はリビングを出て行った。



 作業員たちは、めまぐるしくトラックと家の間を行き来し、2時間もしない内にすべての荷物を入れてしまった。手早く引っ越し用の保護材を剥し、かずさと圭一に挨拶して帰って行った。


「さあさあ、早くしましょう。結衣、自分のは自分でできるよね」

「できるよ」


 少しうざったそうに応じて、結衣は1階リビング横の洋室へ入っていく。


「重たいものとかあったら、母さんに声掛けるんだぞ!」

「あなたが行きなさいよ!」


 冗談だよ、笑う父親から顔を背けるように、結衣はぴしゃりと洋室の戸を閉めた。


「本当に大丈夫かしら? やっぱり小学生から自分用の部屋もたせるの贅沢じゃない?」

「そんなに心配することないと思うよ」


 眉をしかめるかずさに、どこかうんざりしたような口調で圭一は応じた。


 新しく家を買うとなった時、かずさは「2階の一部屋を中学からの結衣の部屋にしよう」と提案した。


 小学生の間は、今まで住んでいたテラスハウスと同じように、夫婦の布団の間に結衣を寝かせ親子3人川の字で寝る。2年後中学に上がったら、独立した部屋を持たせる。そういう考えであった。


 それに対して、圭一は「もう部屋をやってもいいんじゃないか」という意見だった。


「僕も夜遅いことが多いし、寝に来た時に結衣ちゃんを起こしちゃうじゃない。せっかく広い家にするんだからさ、そういうのもなしにしたいよ」


 当時暮らしていたテラスハウスでは、そういうことがよくあった。圭一が夜遅かった翌日は、結衣も眠りが浅くなるのか寝坊しがちだった。


 小学生からなんて贅沢よ、とその時もかずさは同じことを言った。


「それに一人の部屋なんて持たせたら、中で何やってるかわからなくなるじゃない。ただでさえ、最近反抗的なのに……」

「あの年頃の女の子ってそういうものだろ? 君だってそうだったんじゃないか?」


 それは、とかずさは口ごもる。小学校高学年から中学卒業、いや高校生ごろまでのことは、できたら触れられたくない過去である。


「反抗期が来なければいい、なんて親のエゴだよ。部屋を与えたら、逆に落ち着くかもしれないよ?」


 それにここなら、と圭一が指したのは1階リビングに隣接した洋室だった。住宅会社の出したプランでは、この洋室は「間仕切りの有無を選択できます」とあった。5.2(じょう)のこの部屋とリビングを繋げて広くしようか、という話も出ていた部分だ。


「リビングやキッチンからも近いし、そんなに心配はないんじゃないかな」


 そこまで言われては、とかずさも渋々納得したのである。


 ※ ※ ※


 一方、両親の間でそんなやり取りがあったともつゆ知らず、結衣は自分の部屋がもらえるとあって大喜びだった。さっきも引っ越し屋さんが出入りする中、部屋に入っていたのも、そんな喜びの表れである。


 両親の前ではクールに振舞った(つもりだ)が、部屋の扉を閉めるなり、新品のベッドに満面の笑みで飛び込んだ。


 あの貧乏くさい長屋の布団じゃなく、これからはこんないいベッドで、しかも誰にも邪魔されない自分だけの部屋がもらえるなんて! 引っ越すと聞いた時は正直ダルいと思ったけど、最高じゃないか!


 新しいシーツの香りに包まれながら、結衣はベッドを転がる。むふふふふ、と思わず漏れる笑いを押さえられない。


 友達もたくさん呼ぼう。引っ越したけど、転校をしていないのも嬉しい。床のその辺にクッションを敷いて座ってもらって、と身を起こした時、すぐに現実に引き戻される。


 真新しいピンクのカーペットの上に置かれた、大量の段ボールが荷解きを待っている。


 自分でやれるって言ったけど、正直この数面倒くさいな。でも、自分でやらないと、あのガミガミババア怒るんだろうな……。最悪、部屋を取り上げると言い出しかねない。


「はぁ……しょうがないな」


 とりあえず何か文句を言わねば行動できない年頃である結衣は、最近よく使うそれを口に出して、取りかかることにした。


 通学鞄、ポシェット、見たくもない教科書とノート、参考書、ほとんど読んでない本、マンガ、かわいいメモ帳や便せんの束、文房具類、電気スタンド、雑多な小物などなど……。それらをまずカーペットの上に並べる。


 とりあえず、机とタンスの上から始めようか。結衣は今まではキッチンに置かれていた勉強机に目をやる。ネコのキャラクターの絵がついた、いかにも「小学生向けの学習机」らしい机だ。正面にでかでかと貼りついているキャラクターの絵は、中学に上がるまでに捨ててしまいたい。


 いつしか、窓を叩く雨音が聞こえ始めていた。机周りの整理を終えて、結衣は本棚の方に取り掛かる。


 こんな読まない本いらないのに。母方の祖母が買ってくれた名作児童文学の数々を、手荒に棚に詰めながら、うんざりと結衣はため息を吐く。


 もうヤダなー。ふと目をやると、部屋の戸が少し開いていた。引き戸なのが、この部屋唯一の不満点なのだが、それが3センチばかり開いていた。


 あのババア、のぞき見してるのか? クソ、と悪態をついて戸に近付き、一気に開け放つ。


「……あれ?」


 引き戸を開けた先には、誰もいなかった。


 静まり返ったリビングは、妙に暗くて寒々しく、よそよそしかった。


 ラグが敷かれ、その上に載ったソファの背中越しに、テレビが鎮座しているのが見える。設置はもう終わったのだろう。


 キッチンの方を見ても、誰もいない。まだ段ボールは残っているが、あらかた終わったということで、両親とも2階で荷解きをしているのかもしれない。


 じゃあ、勝手に開いたってこと? やだ、ケッカンジュータクじゃん。上手く漢字に直せない言葉を呟いて、結衣はぴしゃりと戸を閉めた。


 ※ ※ ※


「今日から一人で寝るけど、寂しくない?」

「子供じゃないんだから、大丈夫だよ」

「子供でしょ」


 チェッと結衣は舌打ちした。それ言っちゃ終わりでしょ。


 午後8時、夕ご飯も済ませ、後はお風呂に入って寝るだけという時間帯だ。


「お父さんの後、お風呂入るの嫌なんだけど」


 圭一は20分ほど前に、記念すべき新築一番風呂へうきうきと入って行ったところだ。そろそろ出てくる頃だろう。


「お母さんだって嫌よ」


 本人が聞いていたら、さめざめと泣き出しそうな会話を妻と娘はした。


「でも、今度のお風呂、広くていいわよ」

「これで狭かったら嫌だよ」


 あんたまたそんな言い方して、とかずさが顔をしかめた時、「あー、いいお湯だった」という声が洗面所から聞こえた。


「あんた着替え用意したの? パジャマも下着も持ってきてないじゃない」

「え? 用意しといてよ!」

「何言ってるの、自分の部屋にあるんだから、自分で用意しなさい」


 はーい、と返事に不満を乗せて、結衣は部屋に着替えを取りに戻った。



 ホント、あのババア口やかましいんだから。


 洗面所で服を脱ぎ、洗濯かごに放り込む。すべて脱いでふと顔を上げると、ぴかぴかの鏡に口を尖らせた自分の顔が映っている。


 あんなにやかましく言われちゃ、この顔が普通の顔になっちゃうよ。抵抗するように、結衣はわざと笑顔を作る。口角に力を入れ、更に指で押し上げた。暗い顔ばっかりしてちゃ美人になれないって、誰かも言ってたもんね。


 そこでふと、鏡に映った自分の肩の上に何かが見えた。


 いや、肩の上じゃない。肩越し、後ろだ――。


 振り向いたが、そこには誰もいなかった。ただ、洗濯かごだけが置かれている。


 当然だ、今この洗面所には、結衣以外は誰もいるはずがないのだから。


 ちょっと気持ちがざわついてるのかな? 新しいカンキョーだから。



 ピチャ……、ピチャ……。



 そう思い直した時、結衣の耳に水音が聞こえた。


 音の方に顔を向けると、鏡の下の蛇口から雫がこぼれている。


 さっきまでは、出てなかったのに……。緩いのかな? 水道のハンドルを押して、結衣はそう考えることにした。


 いつまでも素っ裸でいるもんじゃない、早くお風呂に入ってしまおう。


 ※ ※ ※


 どこかの池のほとりに、結衣は立っていた。


 柔らかい感触に足元を見ると、裸足で土の上に立っていた。


 どんよりとした雲が空から垂れ下がり、草生したにおいが肺いっぱいに入ってくる。


 ここはどこなんだろう?


 辺りを見回すと、周囲は田んぼだらけだ。ただ、人っ子一人いない。まだ短い緑の稲ばかりが広がっている。


 池は空の色を映すかのように、鈍色に濁っていた。一足近付くと、むわっとした臭気が立ち上ってきて、結衣は思わず鼻をつまんだ。


 汚いドブみたいだ。


 カエルとか、よくわからない変な虫がいそうで、一歩たりとも近付きたくない。


 近づきたくないのに、足は前へ前へ、池の方へと進むのを止めない。まるで結衣のものでなくなったように。


 ひたり、と素足が池の水面に波紋を描く。更にもう一足、ざぶりと腰までつかる。


 池の中に浸かっても、足は止まらない。真ん中へ、一足一足。深い方へ、深い方へ。


 結衣はもう肩まで濁った水に浸かっていた。水が跳ねて口元にかかり、池の底で煙るヘドロのにおいが、鼻腔から脳へと突き抜けた。


 おぼれる――!



 悲鳴を上げて、結衣は飛び起きた。


 見慣れぬ部屋に一人であることに一瞬混乱するが、すぐ引っ越したのだと思い出す。


 体はじっとりと汗でぬれている。水場の夢だったが、何とか下の方は漏らさずに済んだようだ。シーツに触れて、そこは安心する。


 時計を見上げると、夜光の針は3時を少し回ったところだった。


 何だったんだろう、今の夢。


 結衣は、ベッドの真上にある窓のカーテンを少し開ける。闇夜の中、窓ガラスを雨粒が叩いていた。


 ※ ※ ※


 どうも、この家はおかしい。


 部屋で一人勉強したり、遊んだりしていても、どこかから視線を感じる。


 何かがいる。


 最初は両親のどちらかが見に来ているのかと思っていた。現に、深夜に圭一が様子をそっと見に来ることは何度かあったから。初日に飛び起きた時などは、そのお陰で安心して眠ることができた。


 しかし、両親ともがいない時間帯にこそ、視線を感じるのである。そして、そういう時は決まって、引き戸が少し開いているのだ。


 結衣がそのことを母かずさに話したのは、引っ越しから4日目の夜であった。


「何か、って何よ?」


 かずさは怪訝な顔で結衣を見返す。


「何かよ。あたし達家族だけじゃなくて、他の何かがここにいると思うの」

「馬鹿なこと言ってないで、宿題はしたの?」


 聞いてよ、と立ち上がりかけたかずさを結衣は引き止める。


「とにかくおかしいの! トイレが水浸しになったの、お母さんも知ってるでしょ!?」

「あれはあんたがやったんでしょ」

「違うって言ってるじゃん!」



 昨日のことだ。


 夕方、仕事から帰ってきたかずさがトイレに入り、すぐに眉をつり上げて出てきた。そして無遠慮に、結衣の部屋の引き戸を開く。


「ちょっと、結衣! なんてトイレの使い方してるの!」


 来なさい、と腕を引っ張られる。何よもう、と引きずられるようにしてトイレにやってきて、結衣は驚いた。


 便器の周りの床がびしょびしょに濡れていたのだ。


「どうしてこんなことした!?」

「してないよ! するわけないじゃん!」


 学校から帰ってきたのが午後4時前、今が7時過ぎであるが、その3時間の間に結衣はトイレに入っていないのである。


 そう抗弁しても、かずさは聞く耳を持たない。


「あんた以外いないでしょ!」


 すぐ片付けなさい、と取り付く島もない態度で、かずさは肩を怒らせてトイレを出て行く。


 こうなったら何を言っても無駄だ、と結衣は仕方なく雑巾をとり水を拭くことにした。



「あの時の水、トイレの水じゃなかったの」

「何をまき散らしたの?」


 あたしじゃないってずっと言ってんじゃん! と叫んでから、結衣は少し冷静になって続ける。


「拭いた後の雑巾、緑色っぽくなったの、見たでしょ?」


 理科室のメダカが入った水槽からこぼれた水を拭いたら、ちょうどあんな感じだった。藻とか、そういうものを含んだ外の水なのだ。


「あれ、池の水よ! あたし、見たんだもん! 田んぼの中にある池でおぼれる夢! きっとそこでおぼれた誰かの幽霊がいるのよ!」


 大きな、大きなため息をかずさはついた。


「あんたさ、この家は新しく建てたってわかってるよね?」


 前のボロッちいとこならともかく、とかずさは呆れたように首を横に振る。


「この新しい家の、どこに幽霊との関わりがあるのよ? そもそも池? そんなのこの辺ないじゃない」


 結衣は言葉に詰まった。


 かずさの言う通り、この家の周辺は住宅地だ。吉川家と似たような、新しい家がたくさん建ち並んでいる。どこも明るく現代的な雰囲気で、おどろどおろしい「幽霊」や夢に見たような「汚い池」が存在する余地は見当たらない。


「馬鹿なこと言ってないで、お風呂入って寝ちゃいなさい」


 後片付けもあるってのに、と立ち上がる母親を、結衣に引き止める術はもうなかった。



 その日も圭一は0時を回った頃に帰ってきた。


 遅くなる日は「先に寝ておいて」と言われており、普段はそうしているのだが、今日のかずさは圭一を玄関前のホールで出迎えた。


「どうしたの……?」

「ちょっと結衣のことで相談があるの」


 驚いた様子の夫と共にリビングへ入り、かずさは結衣が訴えてきた「別の何かがいる」という話をした。


「どう思う? こういうこと言う子じゃなかったのに……」


 結衣はどちらかというと活発な子で、子供らしく怪談話の類も好きではあったが、のめり込むという程ではない。


「そういうのに興味を持つ年頃だとは思うけど……」


 そう言いながらも、圭一は別の考えを口にする。


「一番あり得そうなのは、環境の変化によるストレスじゃないかな? 急に一人で寝るようになったし、子供というのは敏感なものだからね」


「ストレスで、幻覚を見てるってこと?」


 その線はあるだろう、と圭一はうなずいた。


「かずささんは気付かなかったかもしれないけど、結衣ちゃん引っ越し初日の深夜に、悲鳴を上げてたんだよ」


 こっそりと圭一は階下に降り、部屋の様子を見に行ったという。


「僕が部屋を覗いた時にはもう眠っていたけど、そのおぼれる夢っていうのは、あの時見てたんじゃないかな?」

「そんなことが……」


 かずさは気付かなかった自分を恥じるように目を伏せる。「仕方ないよ、疲れてたんだから」と圭一は慰める。


「気晴らしになるようなことを、考えてあげられたらいいんだけどね」


 かずさは、「そうね」とうなずいた。


 ※ ※ ※


 翌日、学校から帰ってくると、結衣は自室に通学鞄を置いてすぐに家を飛び出した。


 口に出してしまったことで、結衣の感じる「何か」の気配は色濃くなっているように思え、あまり家の中に一人でいようという気になれなかったのである。


 せっかく自分の部屋をもらったのに。


 口を尖らせ自転車にまたがると、結衣は近所のスーパーマーケットへ向かった。


 最近、友達のみんなは塾や習い事に忙しい。結衣も女子バスケットボールのクラブに入っているが、中には3つも4つも掛け持ちしている子もいる。高学年になるにつれて、その日に「遊ぼう」と誘っても、予定が合わないことが多くなってきた。


 そんな中、結衣の急な誘いに応じてくれたのは、同じクラスの冨田(とみた)陽菜(ひな)という子だった。


 結衣の新しい家からほど近いところには、古い民家が立ち並ぶ区画がある。


 そこは大きな家が多く、また同じ苗字がたくさん並んでいる。その苗字が「冨田」で、陽菜はその区画の中でも一際大きな屋敷の子だった。


 陽菜と待ち合わせ場所にしたスーパーは、家から自転車で5分程のところにある。場所は知っているが、結衣は入るのは初めてだった。ここでお菓子を買って、近所の公園でおしゃべりをする予定だ。


 自転車をスーパーの前に停め、結衣は陽菜の姿を探す。自転車は10台ほど停まっているが、陽菜のものは見当たらない。まだ来ていないようだ。


 親にどこ行くか言わないと出られない、って言ってたもんな。それで時間がかかっているのだろう、と結衣は推測した。


 入口の方にいよう、と一番大きな自動ドアの方へ歩いている途中、ガラス壁に貼られた古いポスターが目に入る。



平井(ひらい)龍斗(りゅうと)くん発見にご協力ください!」



 赤い字でそう書かれたポスターには、結衣と同じくらいの年かさの男の子の写真が載っていた。髪を短く切った、やんちゃそうな少年だった。


 平井龍斗、20××年当時11歳、行方不明時の服装:××の野球帽、白いTシャツ……


 あたしが生まれた年じゃん。


 そんな事件があったなんて、まったく知らなかった。両親も、結衣が2歳の時にこの辺りに移ってきた人たちなので、彼らの口の端にも上ることはなかったのだ。


 ポスターには地図も載っていた。この龍斗くんが行方不明になった辺りなのだろう。スーパーというのがここだとすると、この道は……。


「気になる? 行方不明の子」


 横から急に話しかけられて、結衣は「わっ!」と声を上げてしまった。


「陽菜、おどかさないでよ……」


 ごめんごめん、と冨田陽菜は手を合わせる真似をした。


「あんまり熱心に見てたからさ」

「そ、そう?」


 陽菜はポスターの地図を「それさ」と指差す。


「わたし達が生まれる前の地図だから、全然わかんないよね」

「うん、それ思ってた」


 このスーパーここだよね、と聞くと、「らしいよ」と陽菜はうなずく。


「昔は、うちの近くって田んぼばっかりだったんだって」


 田んぼ、と言われて結衣の脳裏に引っ越し初日に見た夢がよぎる。


「でも、お米作ったりとかしなくなっちゃって、政邦おじさんって人が潰したんだって」


 陽菜は、広大な田んぼが冨田家の持ち物であったことをさらりと述べた。


「田んぼって、どの辺りにあったの?」

「今、新しい家が建ってるとこら辺だって」


 それはつまり、結衣が住んでいる家の辺りも含まれている。


「田んぼだったの、うち?」

「結衣ちゃんの家どの辺だっけ? うちがね、この辺なんだよ」


 陽菜はポスターの地図の南東辺りを指す。スーパーとの位置関係や、大雑把に引かれた道の線から、「この辺かなあ」と結衣は指で丸をした。


「あー、ここの辺も田んぼだったっておばあちゃん言ってたな」


 かつてこのスーパーに陽菜が祖母と買い物に来た際、このポスターの話題になったことがあったそうだ。


「その時、この子はため池に落ちたんじゃないか、って言ってた」

「池……」


 田んぼに水を入れる池だって、という陽菜の言葉は半分くらいしか聞こえなかった。結衣の中で、物語が組み上がっていくような感覚があり、それに心を奪われていたから。


 昔、男の子が落ちて死んだ池があった。その上に建ったのが、結衣の家だったとしたら?


 池と田んぼが、あの新しい家と関わりを持つことになる。


「結衣ちゃん?」


 平井龍斗くん。その名前を、結衣は頭に焼き付ける。


 家にいる「何か」の正体は、この子なんだ――。


 ※ ※ ※


 門限の5時を前に、陽菜は帰って行った。自分から誘っておいて、ちょっと半端になってしまったことを後悔しながら、結衣は家へ急ぐ。


 自転車を走らせ、玄関の鍵を開ける。


 かずさはまだ帰ってきていない。普段ならば6時ごろ、ここ最近はもっと遅い。事務員をしているかずさは、六月は「ケッサン」とやらで忙しいらしく、帰りが遅くなることもしばしばであった。


 お母さんたちが帰ってくる前にやろう。どうせ、言っても信じてもらえないんだから。


 玄関からホールに上がって、結衣は意を決して口を開く。



「……ひらい、りゅうと、くん」



 にわかに、家の奥から何かの気配が立ち上った気がした。


 やっぱり、そうなんだ。ホールから結衣はリビングへ移動する。


「りゅうとくん」


 さっきよりもはっきりと、結衣は呼びかけた。


 無人のリビングを見回すと、自室の引き戸が3センチばかり開いている。


 しっかり閉めたはずなのに。中に入った? いや違う、中から出てきたんだ。


 結衣は自室の戸に近付いた。途端、あの臭気が鼻をつく。


 躊躇いながらも、結衣はにおいを追った。まっすぐに、キッチンの方へ続いている。


「りゅうとくん、りゅうとくん」


 対面式キッチンのカウンターの辺りに来た時、結衣は三度目の呼びかけをする。


 ツーッという音が聞こえ、結衣はそちらを向いた。


 カウンターの奥、シンクの蛇口から一筋の水が流れている。


 強い藻のにおいを感じながら、結衣は恐る恐るシンクに近付き水を止めた。


 そうか、水なんだ。


 池、田んぼ、雨、洗面所、トイレ、そしてシンク。水があるところに、りゅうとくんはいるのだ。


 そう思った時、トイレから水が流れる音がした。


 振り返ると、食卓の向こうの壁の奥で、ゆっくりとトイレの戸が開いていくのが見えた。


 そこから、何かが洗面所の方へ入って行った気がした。


 ここまで来たら。結衣は生唾を飲み込んだ。じっとりと、額に汗がにじむ。


 何としても、出て行ってもらおう。


 この場所はもう、平井龍斗のおぼれた池ではない。結衣の、結衣の家族の新しい家なのだから。


 足音を殺して、結衣は洗面所へ入った。


 鏡の下、蛇口の水が出ている。やっぱりここにいるのだ。


 水を止め、結衣は風呂場の方を振り返った。


 風呂場の戸は開いている。あの夢で嗅いだ池のにおいが、強く漂ってきていた。


 靴下のまま一歩、中に入る。ほとんど池のほとりにいるような臭気に包まれる。


 風呂釜の蓋はどかされていた。覗き込むと、夢で見たのと同じ色の水面が揺れていた。


「りゅ、りゅうとくん」


 水面の中に、結衣は呼びかける。


「ここは、あたしの家なの。もう池とかじゃなくて、人が住んでる場所なの。だから――」


 その時、突然水面から何かが飛び出してきた。


 腕だ、と思った瞬間、結衣は顔に強い痛みを感じた。ぶよぶよとした感触の手の平が結衣の顔を掴んだのだ。


 悲鳴を上げる間もなく、結衣は引っ張り込まれた。


 ぬるく、生臭い水の中で、結衣は必死に息を止めようとするが、空気は鼻から泡になって容赦なく漏れ出て行く。振りほどこうにも、腕はがっちりと結衣の顔を掴んでいて離さない。


 暗い水面の中、顔を掴む指の間から腕の主が見えた。


 水底に潜むそれは、光る目で結衣のことをじっと見据えている。


 閉ざしていた口が開き、結衣の口から大きな泡が立ち上る。


 このまま、おぼれ――。



「何してるの!?」


 遠のいていく意識と落ちていく身体が、強い力で引き戻された。


 後ろに引っ張られて、結衣は風呂場のタイルで腰を軽く打った。


 荒い息を吐いて見上げると、かずさがこちらを見下していた。早めに帰ってきたらしい。


「空っぽのお風呂に頭突っ込んで、何の遊び?」


 そう言われて浴槽を見やると、さっきまで顔が浸かっていたはずの水が影も形もなかった。


 池の水どころか、中は全く乾ききっており、栓も抜けている。


 夢だったのか? 結衣は肩で息をしながら考える。あの名前を呼びながら、家の中を歩き回ったのが、何だか現実離れした景色のように思えてきた。


「顔にそんなあざまでつけて……」


 かずさに指摘されて、結衣は風呂場の鏡をのぞく。額のこめかみの辺りと、頬の下のフェイスラインに左右1つずつ、計4つのあざがついていた。その形は、指の痕のように見えた。


 夢なんかじゃない。


 そう思い直した時、結衣はこみ上げてくるものを感じた。口元を押さえるが間に合わず、風呂場の床にそれは広がっていく。


「ちょっと、この水何……?」


 どこで飲んだの、と慌てるかずさの声を聞きながら、結衣は排水溝に流れていく、青臭い緑がかった水を呆然と見送った。


 ※ ※ ※


 この一件からしばらくの間、結衣は元気を失い、翌日は学校を休むことになった。


 眠るのも、自分の部屋ではなく両親と同じ部屋にした。ちょうど以前の家と同じように、親子三人川の字になって。


 風呂場であったことを両親に話すと、さすがのかずさも信じた様子だった。むしろ結衣よりも怯え、「お祓いを受けに行こう」と言い出した。


 圭一は、そんなかずさの様子を見て「それで気が済むなら」と言い、遠くの偉い神主さんのいる神社まで車を出した。


 事情を話し、型通りの祈祷をしてもらって、ようやくかずさも安心したようだった。すると、早速小言が始まってしまう。


「いい? こんな危ないこと、二度と1人でしちゃダメよ? 絶対に、お父さんやお母さんに相談しなさい。いいわね?」


 こんなこと、二度とないって。同じことを何度も繰り返すので、結衣は辟易とした。



 二週間も経つ頃には結衣も元気を取り戻し、自分の部屋で寝るようになった。


 あれ以来、家の中にいた「何か」の気配はなくなった。


 結衣の部屋の引き戸が勝手に開いたり、蛇口からひとりでに水が出たり、トイレが水浸しになったりすることもなくなった。あのため池の夢も、もう見ることはない。


 新しい家が、結衣たちを受け入れてくれたような、そんな気がした。



 七月に入り、結衣はテレビのニュースで知った名前を見かける。



「××山山中で見つかった白骨死体について警察は、11年前に行方不明になったU県M市××町の当時11歳の少年、平井龍斗くんと断定し……」



 この近所の子じゃない、とかずさは言い、すぐに思い当ったのか結衣の顔を見た。


「あんたが幽霊じゃないかって疑ってた子でしょ? 池に落ちたって言ってたけど、えらく遠いところで死んでるじゃない……」


 ニュースによれば、別の容疑で逮捕された男の供述から山中を捜索したところ、白骨死体が発見されたという。


「じゃあ、あんたが見た幽霊って、この子じゃなくて……」


 ちょっと聞いてるの? と問われて、結衣は「聞いてる」と短く応じた。すっかり薄くなった、指の痕のようなあざが疼くような気がした。


 ※ ※ ※


 その翌日、結衣はまた前のスーパーマーケットで冨田陽菜と待ち合わせた。


 ガラス壁に貼られていた、平井龍斗の情報提供を呼びかけるポスターは、早くも剥されている。残ったテープの痕を見ていると、陽菜がやって来た。


「そこに貼ってあったポスターの人、別のとこで死んでたんだってね」


 陽菜とはあの後も、毎日学校で顔を合わせていたが、自分の身に起きた現象については話していなかった。それは他の友達に対しても同じである。圭一から「無闇に人に言っちゃいけないよ」と言い含められていたのもあるが、何となく口に出すとよくないような気がしたためでもある。


 けれど、「ため池に落ちた」という陽菜の祖母の話自体は気になっていた。あの時現れたのは平井龍斗ではなかったが、ため池が関係しているのは確かなはずだ。現れたものの正体を、少しでも知りたかった。


「うん、ため池関係なかったじゃん。陽菜のおばあちゃん、何であんなこと言ったの?」


 非難がましい言い方であったが、陽菜も「だよねー」と同意を見せる。


「わたしもそれ、おばあちゃんに聞いたんだ。ため池に落ちたんじゃないかって、前言ってたじゃない、って」


 そしたらね、と陽菜は少し辺りを見回してから小声で続ける。


「あの池の周りでは、よく子供が消えていたから、そうじゃないかと思ってたって言うの」

「子供が?」


 そうそう、と陽菜は少し怯えたように眉を下げる。


「そのため池はね、子供を欲しがるんだって」


 池のほとりに子供が一人で立つと、中に引きずり込まれる。


 名前を呼びかけると、底からあぶくが上がってくる。


 中にいる『何か』が、子供を取ってさらう。


 だから、あの池に近付く時は大人が一緒でなきゃいけない。


 陽菜の祖母が子供の頃は、そんな言い伝えがあったという。


「それって、子供が落ちたら危ないから池に近付かせないようにするための『メーシン』じゃないの、ってわたしは言ったんだけど」


 メーシン、つまりは迷信のことであろう。結衣にははっきりとその意味はわからなかったが、ニュアンスは感じ取れた。


「そんなんじゃない、っておばあちゃんは言うの」


 あのため池には、本当に「何か」がいたんだよ。でなきゃ――


「でなきゃ、わざわざ新しい池を別に造らない、って」


 陽菜の祖母がちょうど今の結衣たちの歳の頃、別の場所に新たなため池が掘られたという。


「池にいるよくない『何か』が、田んぼに入ってこないように、って」


 七月初めの蒸し暑い気温の中、結衣は背筋がゾクリとする。


「元あった池は囲いがされたけど、そのまま残してたっておばあちゃん言ってたな」


 下手に埋めたりすると、何か「障り」があるのではないか。


 そういう話になっていたから、政邦という親戚が池の辺りを埋め立てて、住宅にしようとした時、陽菜の祖母は先鋒に立って反対したという。


「でも、結局おじさんが勝って、あの辺に家を……」


 どうしたの? と陽菜は結衣の顔をのぞきこんで来た。


「顔色、悪いよ」

「何でもないよ……。中、入ろう」


 寒気を振り払うように幾度も首を振って、結衣はスーパーの入り口へ向かった。


 もう関係ないんだ。これ以上、知る必要はない。あの新しい家は、もうあたし達の家になったんだから。忘れてしまおう。


 そうやって振り払おうとしても、元気になったと思っても。結衣の頭の中には、あの日風呂の底で見た「モノ」が焼き付いて離れない。


 あれを見た瞬間、自分を引き込んだそれが平井龍斗の幽霊なんかではなく、もっと(おぞ)ましいものだと思い知らされた。


 あの時、水底の澱の中に見えた目、無数の虚ろな銀色の光は、決して人のものではなかったのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言]  拝読しました。  越したての新居。まったく新しい場所のはずのその家に、けれど漂う古くからの忌まわしい気配。全編に漂う不穏と不気味の気配が何とも言えぬ妙でした。  夢の暗示と行方不明事件の重…
[一言] 夏ホラをたどってきました。 このまま住み続ける、と考えるとお風呂に入るのが怖くなる〜! パパは呑気だけど結構細やかで現実的。 ママは感情的でどこかスピリチュアルなものも信じそうな感じがあっ…
[良い点] ・結衣ちゃんの女子っぽさ、顔の浮かんできそうな話しかた。  子供のころの気分を少し思いだしました。 ・同じ苗字の家ばかり、というリアリティ。 ・匂いを感じるところ。 ・ポスターの発見からの…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ