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May my mother bless me!

作者: 蜂矢澪音


 それは、人々を惑わせる魅惑の歌声。

 それは、美の化身とも言われる艶やかな体躯。

 それは、月の光を反射して輝く無数の鱗。


 ――そこには、確かに人魚がいた。


* * *


 あ、待って、インクがない。

 原稿を書き終わって最後の作業、つまり、印刷をしようとしたところで、パソコンの画面に警告が映る。確か、ここら辺に……ない、だと。買いに行かなければならないのか。億劫だ。仕方ない。いくか。

 実に数日ぶり、いや、一週間ぶりになるのか。前に外に出たのは多分三日、だったはずだから。今日は八月の十日のはず……ん?

 カレンダーの日付を見るとなぜか七日を指している。捲っていなかったのか。日付を確認するために携帯の電源をつける。

 明るい画面に22:20 8月12日土曜日の文字が躍る。土曜、日? 十二日? いつの間にか九日も経っていたのか。そういえば太陽もあまり見ていない。ゲームと原稿に熱中していると食事を摂らないときもあるし、そうするとカーテンも開けない訳だし。まあ、当然かもね。

 でもそうか、夜か。

 それに一週間以上もお風呂に入ってないで外に出るのはどうなんだろう。仮にも私、女子だし。

 ……お風呂入ってから行くか。面倒くさいけど。

 それに今日が十二日なら明後日にも予定はあるし、なんか疲れてるっていうか、肩が凝ってるし、目がしぱしぱするし、で体がボロボロだから明日はもう、とにかく何も考えずに眠りたい。うん、そうしよう。

 シャワーを浴びて一息つくと、急に眠たくなってきた、……やばい、かも。体が思う通りに動かない。とにかくベッドまで……。

 すう……。


 * * *


 こ、ここは……?

 って、絨毯の上か。あのまま寝たのか、私。今の時刻は、と。パソコンの上にかかっている時計を見る。

 短針は四と五の間。長針は九と十の間。ああ、ってことは六時間か。カーテンの隙間から光が斜めに差し込んでいる。斜陽ってやつかな。

 ……え、あれ? いや、今何時だ。四時五十分のはずだけど、斜陽? 何で私は太陽を見て斜陽だと思ったんだ。この部屋は西向きの窓がついていて……。西向き。差し込むのは、西日。西日は夕方。つまり今は、夕方の五時くらい。十八時間も寝てたのかよ、私。

 まあいいか。

 とりあえず、コンビニ行くか。お腹もすいたし、夕食を買うのも兼ねて。食生活がアレなのは今更だ。気にすることもないだろう。

 最低限の身支度をしてサンダルをつっかけ玄関を出る。……せめてよれよれのTシャツは着替えるべきだったかな。まあ、そもそもこんな感じのしかないわけだけど、それでも一番ましな奴に。

 気にしてもしょうがないか。私に目を止める人なんていないし。

 ふああ、と口から欠伸が漏れる。まだ寝足りないのかと自分の睡眠欲にむしろ呆れを覚える。

 しかし仮にも今は夕方。当たり前だが人がいる。やはりもう少し身支度をしていくべきだったか。近隣に構えられた家のガラスに私の姿が映る。

 よれよれのTシャツに着古されたジャージ。化粧もしていないすっぴん顔は多分お世辞にも美人とは言えないと思う。よく言って普通、程度だと思われる。なんだか全体的に腫れてる気がするし。ついでにここ数年ほとんど外に出ていなかったせいか肌が病的に青白い。ぐっすり寝たからか隈はいつもの何倍も薄いけれど、正直不気味さが薄まっているとは思えない。

 幸いなのはここが片田舎で人がほとんどいないということだろう。徒歩十分の位置にコンビニがある持家を入手できたのは非常によかったと思う。まあ、戸建てではなくアパートだが評価の余地はある。

 つらつらと思考しながら歩いているとそのコンビニについた。自慢というほどでもないが、ここまでの道なら目をつぶってでも行ける気がする。

 金も余っていることだし、一週間分くらいは買っておくかな。インクを入手したところでなんとなくそう思った。……いや、面倒だ。正直一週間分も持てる気がしない。気が向いたらここに来る、それで十分だ。しかし仕方ない、当面の食料として菓子パンくらいは買っておくか。

 目についた菓子パンの類を一つ、二つ、と籠の中に放り入れる。めぼしいものを一通り取って菓子売り場をちらと見たとき、何かが目に入った。

 気のせいか、とおにぎり売り場のほうへ足を運ぶ。あいにくと鮭はないようで、不本意ながら二番手の梅おかかとツナマヨネーズのおにぎりを買うことにする。そしてふと思い至り――いつもは何があろうと見向きもしないのだが――パック詰めの野菜を手に取りレジへと向かう。

 そしてまた、菓子売り場の横を通るとき――視界の端で、何かが私をいざなった。

 そう、いざなったのだ。あの感じは、どういうものかと問われても答えられないが、どうあったって私をいざなったのだ。明確にこれだけは言える。あれはきっと何か明確な意思を持っている。

 何かがおかしい。

 行くだけで何かしら起こると困るのだが、それでも気にはなる。だって私は物書きだ。そういうものなのだ。興味をひかれたものがすぐそこにある。それで行かなくて何であるというのか。

 決意を固めて向かったそこには、果たして、一つのグミがあった。なんということもない、一つ二百円の袋詰めのグミ。海を模したパッケージが特徴的だ。正直拍子抜けした。しかし、それが何の変哲もないただのグミだったとしても私の興味を引いたのだ。これは、買わない手はないだろう。ああ。

 ……別に、グミが食べたかったわけではないぞ。いくらそれがおいしそうなソーダ味のグミだったとしても、断じて違うさ。

 よし、研究用、も含めて二つ買っておこう。ここは直感を信じて、一番前に並んでいるのではなく、後ろのほうにしまわれているやつを。こっちのほうがおいしいかもしれないからな。量産品だから関係ない? こういうのは気分が大事なのだよ。

 はあ、脳内悪魔と脳内天使と戦っていたら少し疲れた。さっさと買って寝るに限る。

 レジに表示された金額をきっかり支払ってコンビニから出る。いつも通りに家への帰路を辿っていると不意に嗅ぎなれないにおいがした。私の住むここはどちらかというと山よりなのだが、なんとなく潮の香りのような……。一度、海水浴なるものに行ってみたときにさんざん嗅いだ匂いと同じだ。おぼれかけたり、日に焼けた肌がピリピリしてとても痛かったり、あの初めては正直すべてが最悪だった。まあ、だからか私はあまり海が好きではない。海の幸は遠慮なくいただくが。

 そんなことを思って曲がった角の先。

 広大な海が広がっていた。

「えっ…………、は?」

 それも、人っ子一人いない。

 広大な海とそれにふさわしいどこまでも続くように思える砂浜。海面に突き出た黒い岩とエメラルドブルーの透き通った水が幻想的なまでに美しく、それはこの場にふさわしくない格好をした私の存在を暴力的なまでに全力で否定していた。

 ここがどこなのか見当もつかない。というか、脳がこの光景の存在を拒否していた。私は海が嫌いなんだ。こんなところにはいたくないぞ。早く帰るのだ。そんな指令とともに踵を返した私が見たのは――これまた、広大でかつ超自然的な――緑豊かな、森だった。

「ありえない……」

 そしてその前に立った私は、ひたすらに現実逃避をしていた。一度ぎゅっと目をつむり頬をひっぱたく。……痛い。夢じゃ、ない。どうしよ、これ帰れんの?

「それはあなた次第ですよ、(ひと)(すき)()(おう)さん」

 どこからか聞こえてきた声に度肝を抜く。なんで名前知ってるのかとか何者だとか聞きたいことはたくさんあるけれど、うん、それよりも、なぜだろう。なんとなくだけど振り向いちゃいけない気がする。

「……振り向かなくては、戻れませんよ?」

 え、え。もしかしてこいつ私の頭の中見れるの? なんで?

「そう怯えないでもらいたいものです。わたくし、あなたの持っているものがほしいだけなのですから」

 声音が諭すようなものに変わる。むしろここらで振り向いておかないともっとひどい目に合うんじゃないのか?

「まあ、ひどい。わたくし、か弱い乙女なのですからそのようなことはしませんよ? それはそうと、早くしてくださいな」

 これ、やられるわ。十中八九。そう思ってしぶしぶ、振り向くことにした。

 驚愕に、目を瞠る。

 それは、その女性は、まぎれもなく女性だとわかる象徴を持つ、その、生物は。

 想像上にしか存在しないはずの、人魚と呼ばれるモノだった。

「あら、ずいぶんなこと言ってくれますわね。わたくし、ちゃんと存在していますよ? ほら」

 ぴと、と感じた手の温度は確かに人間のそれと相違なく。だからこそ、下半身に代わって伸びる、その存在が。端的にいうと、魚のしっぽの部分が。どうしようもなく、違和感たっぷりなのだった。

「わ、わたくし、温厚ですから……。このくらいでは怒ったりしませんから……。っていうか、早くわたくしに下さい! 持っているのでしょう? さ、はやく!」

 打って変わって何やら明るくわめき始めた人魚は私のほうに人間のそれとほとんど変わらない柔らかそうな右手を差し出して何かを催促する。心当たり? ないな。

「あるでしょう! 何のために二つも買わせたと思っているのですか。あなたも食べたがっていたようだからわざわざ干渉したのですよ? 早く出してくださいな!」

 何が何だかわからない、が。二つ、か。……二つ、ねえ。まさかとは思うが……インク? 二つ買ったものなんてそれくらいしか――。

「って、違いますよ! もう、どれだけ鈍いのですかあなた。あれよ、あ、れ!」

 だから、あれって何。私そんなヒントじゃわかんないんだけど。

「だから、その、……グミ、よ」

 顔が真っ赤だ。うむ、かわいい。てか、グミか。そうか、グミか。

「あんたのせいかよ!?」

「い、いきなり何です? うるさいです」

 謝罪の一つもなく逆に苦言を呈された。……から、思いっきり、全力で、聞こえよがしに、はあ、と大きくため息をついた。

「な、なんですか。もういいから早くください。わたくしはグミを所望しているのです」

「交換条件、いい?」

 グミグミうるさいと思いながら、最低限の譲歩をする。正直かまう時間すら面倒だけど、どうやら人魚に渡さないと帰れないらしい。つくづく面倒なことをする。

「ど、どういうことですか。わたくしの元まで来られたのだから満足ではないですか。わたくし人魚なのですよ」

 頭が痛くなる。こっちはいきなり連れてこられて迷惑してるんだ。ていうか、最初におびえていたのが恥ずかしいくらいだ。それよりも人魚とか気味が悪いにも程があるだろう。だって、ここは地球だぞ。物語の中ならばともかく現実で人魚だなんてどんな悪い冗談。

「それ、あなたが言います? わたくしが生まれたのはあなたのおかげなのに。生みの親から存在を否定されるなんて、わたくし悲しいです」

 生みの、親? 私こんな超常生物を生んだ覚えなんてないし、そもそも結婚してないし。って、もしかして。

 そう思って人魚をまじまじと見ると、どことなくデジャヴュを感じる。薄青の瞳に青みがかった銀の髪。一人称は「わたくし」。人魚の女王の血族で、そのことが枷となってずっと悩んでいる。自慢は水面をたたいたら大きな水しぶきを上げる、美しい青が基調のしっぽ。

 以前に私が書いた、悩める人魚のお姫様。セイレ・マーメード。

 ついでに人生初の海水浴に行った原因だ。

「思い出してくれてありがとうございます。それで、グミはいつ下さるのですか」

 またグミか、と辟易しながら袋を開ける。ま、忘れていたのは申し訳ないし、とりあえず怒りは収めようか。

「ありがとうございます、創造主様(マイ・マザー)!」

「ま、いいわ。対価は次に呼ばれたらってことで」

 目をキラキラさせてグミをほおばるセイレに若干だけれど和まされ、マイ・マザーの存外にいい響きをかみしめながらつぶやくと、何か言いましたか、と不思議そうに見てくるのがおかしくって、少し微笑んだ。

「じゃあ、帰れるのかしら」

「あ、はい、ちょっと待ってください」

 そういうとセイレが歌い始め――私はいつの間にか、アパートの前で立ち尽くしていた。歌えないことを悩んでいた幼かった人魚の姫君は、美しく成長して人魚の歌を自在に操れるようになっていた。つまり、彼女が憂えるべきものなど一つもない。

 部屋に戻って、風呂の支度をする。お湯が沸く間に食べたグミは結構おいしくて、悪くない、と思う。


* * *


 あれから、一か月が経った。私は今日も、菓子パンを食べている。けど、それももう今日で終わりだ。なぜなら最後のパンが今口の中に消えたから。

 はあ、と重い腰を上げ、徒歩十分の所にあるコンビニに行く。そして、視界の端に菓子売り場が見えて、え、なんかデジャヴュ。

 ひかれるままに飴の袋を二袋買って、コンビニ帰りの最後の曲がり角をまがったとき、そこにあったのは。

 前にも後ろにも、どこまでも続いているような、うっそうと茂る森林だった。

創造主様(マイ・マザー)、私です!」

 その中にぽっかりと空いた広間。私の視線の先には狸の耳を持つ小さな女の子が、切り株にちょこんと座っていた。それはセイレではなかったがしかし、確かに私の生みだしたキャラクターの一人であり。

「あー、もしかして、メレイユ? セイレじゃないのか」

 私が名前を呼ぶと彼女はことさらにうれしそうに笑って、非常に頭の痛くなるようなことを言う。

「あ、はい! セイレ姉さんに言われてやってみました!」

 前言撤回だ。憂えるべきもの、あったぞ。お仕置きだな、セイレ。

「セイレお姉ちゃん、創造主様にかわいいって言ってもらったーって、嬉しそうでした!」

 ちょっとなごみはしたが、うん。その後のメレイユの言葉に砕け散った。もちろん、悪い方向に。

「それで、飴ください! 創造主様!」

 かわいらしく笑うメレイユ。……覚悟しておけよ、セイレ。


 そのとき、どこかの海で美しい人魚が身震いした。

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