集結地、田穂乃平。【改稿版】(6)
あ~コホン。
兵庫介はわざとらしい咳ばらいを、ひとつした。
もちろん。飯井槻さまの奔放な言動による動揺を隠すためだ。
その間も彼の数百の軍勢は、田穂乃平の、少し中央部がモッコリ盛り上がったあの丘以外、平坦な草原の中を真っすぐ東へと伸び、やがては京の都へと続く表街道を鎧の草刷りの音も派手やかに、茅野家の本陣の方向へと向かい粛々とものも言わず進んでいる。
そんな中での兵庫介の咳払いは、配下の注目を集め、これをみとった彼は、、、
「……」
何も言わず自身の兜の側面を〝コン〟と、一回だけ拳で叩き音を響かせた。
途端。
シャンとせねばっ!!
無言の兵庫介からの言い知れぬ圧を全身に感じた神鹿勢の面々は、計ったように一斉に目を逸らし、また粛々と前だけを見詰め、歩だけを一歩一歩確実に先に進める作業に没頭した。
「まあ、よい」
得心のいった兵庫介は、脳内での独り評定を再開することとした。
外様身分の自分では茅野家の家宰的に無駄だとは、思いながら。である。
では、いったい何が彼にとって無駄な思考行為なのか。
当時茅野家に於いての政治上軍事上の重要な決め事は、当主である飯井槻さまを頂点とし参爺こと茅野家三家老を交えた四人での合議制で決せられるのが通例であった。
例えば、何かしらの問題が茅野家で持ち上がった場合。飯井槻さまを中心に三人の家老がその議題に付いて相談し合う場を設けて討論会を執り行われる。もし必要なら、これに加え問題に関係する人員も交えて話し合いが行われる。
その後、解決策が四人の同意で決すれば、各々の権限に応じた役割分担を解決に向け物事を運んでいたのだ。つまり茅野家では、この合議制を遂行するにあたり、三人の家老にそれぞれの手腕に適した役割と権限が、当主である飯井槻さまから直に与えられており、三人の家老らはこの与えられた権限に沿って職務を厳正に遂行していくのである。
ちなみにその三人の家老とは、以下の御人らのことであり、与えられた職権とは下記の通りであった。
通称【壱の爺様】と呼ばれる壱の家老【進士七衛門隆寿】様は、内政に関する執行権を有しておられた。
通称【弐の爺様】である弐の家老【茅野甚三郎寿政】様は、外交に関する一切を任されておられた。
通称【参の爺様”である参の家老【戌亥太郎左衛門惟寿】様は、軍事を取り仕切っておられた。
彼ら三人は、その職権の限りに於いて知り得た情報を全て合議の場に持ち寄ることが義務付けられており、それらを参考にしつつ、直面した問題の円滑な解決を図ることが求められており、その上で、飯井槻さまの了承を得て解決策が最終決定されることと家中では取り決められていたのだ。
「して、ひょろひょんよ。儂の此度の役割を詳しく聞かせてもらおうか」
飯井槻さまの直臣であるこの男は、察するに、儂に何かしらの仕事を命じるために現れたのであろう。幾ら何でもそれくらいは儂にだって解る。
《仕ってございます。早速ですが、御社さまと参爺様からの御指示をお伝えいたしまする》
「うむ」
ひょろひょんは単調で抑揚のない声音を使い、兵庫介に茅野家の命令を伝達するため馬上で意義を正し身構えた。
《兵庫介様はこのまま歩みを止められず裏街道を進まれ、先ずは此処より先に領地を有する添谷家が家老、鱶池金三郎様の居館にて、一夜の休息を取られるように。とのこと。休息の件に置かれましては、国主様からの御達しでもござりました》
「相分かった。我らがこれより参る裏街道筋は、国主様が住まう御城までの早道とは申せ、行く手を阻む山々は急峻で道のりも険しいからな。儂もどこぞで一泊せねばなるまいと、思うてはおったところなのだ」
比較的平坦な道のりが続く表街道筋に比べ裏街道は、未だ集結中の茅野勢本隊の進軍よりも一日ほど早く、国主様の御城【季の松原城】までたどり着けるのだが、いかんせん此方は山あり谷ありの難路で、ちゃんとした場所で休息を取らぬと、辿り着くまで体力が持たない険しい道筋であったのだ。
「まあしかし儂も一息付くのであれば、鱶池領内のどこぞにとは考えてはおったが、急な出征にてそこまでの手配りは出来てはおらなんだ。この際、御泊め頂くにしくはなし」
だが、漏れ聞くところによれば、添谷家の大きなお荷物と噂される鱶池金三郎が、よくもまあ素直に承諾したものだと思い至る。
《さあ、其処のところまでは判りかねまする》
ひょんひょろは表情を一切変えずに応える。
「左様か…」
兵庫介も取り敢えずは旅の宿の目星が付いたので、特に気にしないで置くこととした。もしも先方で何か仕掛けでもあった場合は、我らとて只では済まさぬつもりだった故だ。
《それに明々後日には、深志家の本軍をはじめとする各土豪の大軍勢が、国主様が居城である季の松原城下に参集する見込みでござります。 兵庫介様にはこれに先んじ、一日早く御城下に入って頂き、茅野家の先陣としていち早く到着した旨を深志弾正に御報告頂きとうございまする》
「はあ~。儂はあの皮袋…。いやさ、弾正めに率先して会わねばならんのか」
え~、やだなぁ。誰か代わっては呉れまいか。
皮袋とは、深志弾正の渾名である。
彼の見た目が緩んだ牛皮で作られダブダブの皮袋に似ているので、陰で皆に皮袋と謂われているのだ。…が、当たり前のことながら、本人にはもちろん内緒の話であった。
《残念ながら、既に挨拶に赴くことは甚三郎様が深志側に報せておいでにございます》
「もう、勝手に行くって決めるのやめてくれる?はあ、まあいい。儂は他家よりも早く弾正に茅野勢の参陣を知らせるのが役目なのは承知したが。で、他にも御役目はあるのかな?」
《御社様の御到着までに、御城下の屋敷に御滞在頂きとう存じます。それと御社様より『楽しく町家の散策なぞせよ』と、左様言いつかりましてございます》
「それって本当に大事な御役目なのか?儂はあの皮袋を相手にせねばならんのに、悠長に町屋散策など出来そうもないがなぁ。で、それ以外に御役目は?」
《ございませぬ》
「ああ、そうかい」
この小さな歴戦の武将は隠すのも憚からず、強い憤りを感じ、また臍を強く噛みつつ、思わず、ぞんざいな受け答えをしてしまっていた。
…痛い。
よもや、こんなふざけた命令を授かるとは、兵庫介は全く思っていなかったのだ。