集結地、田穂乃平。【改稿版】(4)
実のところ此の国は、三年ほど前から不穏な空気に包まれていた。
それと言うのも、此の国の守護職【国主家】の三番家老であり、此の国の【軍事】の手配り一切を任されている【深志家】が、国主様のお気に入りであることを吉として、有ろうことか【下剋上】を企んでいるらしいと広く巷間で噂となっているのためだ。
《噂には、噂なりの根拠がございましょう。左様、例えば…》
例えば、そう、【国主家】三番家老の深志家は、此の国に於ける自身の高き地位を利用して、同じく国政を取り仕切る一番家老の【添谷家】と二番家老の【穂井田家】を差し置いて、国主様を篭絡し、此の国の国政に大いに嘴を差し挟むようになったことを言っておるのだろう。
この横暴ともとれる深志家の行動は、遂に国政の専断を思うさまに行うという形を作り上げてしまう。
具体的には、以下の事例によって確定したのだと、此の国の人々に受け取られているのだ。
深志家が当主。深志弾正少弼貞春、曰く。
応仁の乱以来此の方、戦雲渦巻き出していた日ノ本の状況を鑑み、国主様にご相談した末、斯様慮る事と致した。。。云々《うんぬん》。。で始まる深志家当主【深志弾正少弼貞春】の言葉は、国主様の絶大なる後押しをよいことに、自身たちに都合のよい【新たな条文】。所謂【深志四条文】を国中に発布することで、深志家の権力の正当性を国中に既成事実化することに成功した。
一つ、他国からの軍に巻き込まれぬよう、国主家に従い無用な争いはせぬ事を緊要とすべしこと。
一つ、軍役においては貴賤の身分を問わず、所領二十貫に付き三人。三十貫に付き小荷駄一人を遣わすべきこと。
一つ、各々《おのおの》が領主は委細例外なく、妻子縁者を御城下の屋敷に込め置くべきこと。
一つ、今後、国主家の一切の家宰については深志家が執り行うが故、頼りと心得るべきこと。
即ち、この、のちの世の家中法度の如き四ヶ条からなる条文を大いに遣い利用することによって、此の国に住まう他者に対し深志家は、国主様の名を用いて活動の制限を設けるとともに国内の統制権を確立し、他方では、国を乗っ取る【下剋上】への道筋のを形作ることに、ほぼほぼ成功していたのだ。
つまりこれらの事象と想像が、昨今巷に蔓延りおる【深志家による国盗り・下剋上】の噂の根幹をなしておると、ひょろひょんは申したいのであろう。
だか左様なこと、こやつにわざわざ云われるまでもない。
他国に於いても昨今、国は兎も角としても、家臣の実力ある者が主家を乗っ取ったなどという話は、ちらちら煩わしく、しかもよく耳にする世の中なのだ。
その主家が、国を持つ守護職であった場合どうなるのか、自ずと【国盗り】となるのではないか。
斯様に、此の国に住まう者達の誰かがこの事実に思い至り、行く末そうなるのが規定事項的な噂となって巷で蔓延っていたとしても、確かに今更不思議ではあるまい。
かく云う儂だってそうだ。なにかと口うるさく、【条文】を盾に差し出がましいことを申してくる深志家には辟易させられているのだからな。
「しかし長年に渡り国主家の御為、東の国境を守護して参った三家に対してな、国主様の如何に気に入りであるとはいえ、深志弾正めの讒言を真に受け、無益にも三家の言い分も聞き入れずに任を解き、与えた領地を召し上げようとするなどと為されては、儂だって謀叛に打って出るしかなくなってしまうぞ」
《…左様なりまするな》
「しかもだ。こっちの無理繰りで謀叛を起こされたからといって、これを叩き潰さんと、国を挙げて討伐軍を発するなぞ、一連の流れを鑑みてもとても正気の沙汰とは思えん。これでは自身の手足が気に入らないからと喰うてしまう蛸と同じではないか。そうなればいずれ、自分自身を枯れ死させるだけであろうに…。この簡単な通りが解らぬのだから、流石は当代きってのボンクラ。見栄っ張りで考えなしの国主様と云うべきであろうか…」
《誠に以て、左様にございまする》
兵庫介の意見に、短く同意をしたひょんひょろを見て、彼は深い深い、まるで肺臓の中身まで吐き出すような長い嘆息をした。
やってられない。。
しかも、肝心の国主様は昨年の正月の祝賀以来、表に顔を出さず都にも上がらず、己が居城である【季の松原城】の中腹に新たに豪華な居館を構え、趣味である雅で幽玄な世界に立て籠もっているというのだから、最早どうにもならない。
「その居館も、弾正が差配して国主様がお気に召すような豪奢な造りであると聞く。篭絡に余念がないことこの上ない限りだな」
兵庫介はあからさまな不満を口にする。こんなことをやっておれば、他にも武力を以て謀反を企む輩がわらわら出て来ても、おかしくない状況になっておるのではないか?
そう彼は危惧していたのだ。
「その上、今度は旦那を亡くした飯井槻さまの次の夫に、弾正が次男。【孫四郎勝貞】を寄越そうと、なにかとこそこそ画策して居るのだからな、我ら茅野家の家臣としては堪らぬ」
コクッと、無表情に頷くひょんひょろの動作を頭上に感じ、兵庫介は少し緩んだ兜の緒をきつく締め直してから、やおら、前方の広やかな草原に参集していく茅野家の軍勢の様子になにがしかを想い描きながら眺めていた。