要害、新町屋の城(2)
第三十七部になりまする。
故あって、久しぶりに東京に来ていました。
昨日から今日のお昼まではいたのです。
基本なあ~んにも、してはいなかったのですが(笑)
でもあれですね、用事以外どこにも出向かず過ごす東京も割合面白いですね。
秋葉原に行こうかと思いましたが、お昼に還るので行けませんでした。
どこが面白いんじゃ!!
くそ~。仕事なんか嫌いなんじゃ!!阿呆~~~!!
あら、これはとんだ失礼を。取り乱してしまいました。
では、皆様おはなしをお楽しみください。
腹が立つので、自分のためだけに虎屋の羊羹を買いました。幸せ♪
さてさて、彼らが足を踏み入れた新町屋と云う町は、その名が示す通り、茅野家の手によって新しく作り出された町屋であった。
かつてこの一帯は、一面見渡す限り葦原の湿地地帯で、タヌキやキツネなどの獣が住まう土地であった。
しかし、西の山々に隔てられた土地から、季の松原の城下に赴くには、最短距離に位置する都合のよい地であったがため、いつ頃からか、タヌキなどが普段使う獣道に人も通うようになり、そのうち岸辺を中心に僅かばかりの人家もボツボツ出来たそうである。
やがて山越えして来る旅人を当てにした手狭な宿場も現れ、対岸の御城下と連絡する小舟も行き交い始め町家の原型が形作られるようになった。
その後、国主様の命を受けた茅野家が、御城の外郭防衛用の城を築く事と相成り、実際の築城作業を担う神鹿家の者共や、茅野家に雇われた人足の日々の衣食住を賄う町割りが寿建様の御指図で大規模に行われた。
これを機に、職を求めた多数の人々が他国からも大勢集まり、この、名も碌すっぽ知れていなかった土地の人口は、見る見るうちに増えていき、やがて此の国で一番の町屋が誕生してしまったのだ。
「いつ参っても、大いに振るわっておるな」
かつてのタヌキ道は、今やこの町家を貫く大通りに化けてしまっており、当時の寂れた様子を知らなければ、それと気づかぬくらいの変わりようとなってしまっている。
その大通りの両脇には茅野家配下の商家が軒を連ね、他国の商人が茅野家保護のもと諸国より買い入れ持ち込んだ数々の品々が、商家に所狭しと並べ置かれて売り手と買い手の怒号が響き渡り、その狭間を縫うようにして行商を生業とする連雀商人が、彼ら自慢の商品を声を張り上げ売って回っている有様であったのだ。
もとは湿地の泥と葦しかなかったのに変わりようである。まさに人の世の移り変わり様の恐ろしさを実感できる土地でもあったのだ。
「これはまた、活気があるのは良いが振るわい過ぎではないか」
新町家の向う端の一角に設けられた宿場辺りすらも、人の出入りがせわしなく続くような、物凄い活況ぶりを呈していると見受けられ、商談や運搬、買い物客で広さ五間(約9メートル)の大通は、溢れんばかりの人々で満たされて通る事さえ出来ぬ程、付け入る隙が見いだせなくなっていた。
其の煩雑さ足るや、御城下に点在する小さな町屋の殺風景さとは比べるのもおこがましいほどで、全くの別世界といっても過言ではなかったのだ。
しかしこれでは、とてもではないが容易に城まで進めそうにない。
「こんなことなら、町家を迂回して行けばよかったかな」
少し遠回りになるが、町家の外回りを囲う二重堀の土手の上を進めば、行き交う人々も少なく、道幅も大通りほどではないが広く、何より、商家などが道の片側にしかないので歩むにも苦労しない。
だが、今更そんな訳にもいかず、ただただ人波を搔き分け、前に進むしか残された手段がなかった。
汗をかきつつ、やっとの思いで城の外郭にあたる戸屋ノ口に辿り着いた兵庫介一行は、門前で一息入れ、これから登って行かなくてはいけない断崖の登城道を眺めた。
「殿様、あれを」
付き従う近習の一人が、新町屋の本城がある山上に向かって、一気呵成に駆けあがっていく、遣番らしき騎馬武者の姿を指示した。
「ほう、見た目は楽そうな坂に思えるが、実のところ、かなりな急で激しい起伏と横壕でワザと土を【くの字】に削りとった難儀なる坂、それをあの速さで登るとはな、なかなかにやりおるな」
「馬が良いので御座りましょうか」
馬廻の一人が兵庫介に問い掛ける。
「馬もそうだが、あの乗り手の腕も相当なものだ」
兵庫介は思わず感心してしまい、思わず見惚れてしまっていた。
「されどあの勢い、なんぞ領地に異変でもあったのでしょうか?」
もう一人の馬廻が、息も切らさず駆け上がる騎馬武者を眺めながら、不安げな表情で儂に問う。
「案ずるな、あれはいつもの定番報せであろう」
新町屋城を始め茅野家と繋がりがある要所には、三日に一度の間隔で碧の紫陽花館から遣番を定番で走らせ、主に各地の様子や領内の情勢などを伝える仕組みになっていた。
ちなみに、命令事項などの重要案件については、飯井槻さま御身ずからが信頼のおける別便を発せられるので、自然と不定期発信になっており、その内容についても、詩歌などに偽装された判じ文の形に調えられ解読方法も特殊で、この意味するところを知らぬ者が読んだところで単なる詩歌にしか思えぬ、一種独特な構造文であるらしい。
らしいと、わざわざ断るのは、かく言う兵庫介も斯様な重要文書を渡される立場に居らぬ身分なので、その本当の仕組みも読み方についても、実際には家中に流れる噂でしか知らず、また、それがどこまで本当のことかも、判断が付きかねていたからなのだ。
「まあ、いい。では、我らも城に参るぞ!!」
不安げな様子の家来どもに、大声で気合を入れ出立を告げた兵庫介は、即興の鼻歌を歌いつつ軽やかに愛馬を操り、新町屋城の表門に当たる戸屋ノ口の門を開かせ、城の直下、外郭防御陣地の先陣を担う段差の付いた土塁の内側を走り、急峻すぎる登城道を登りにかかる。
流石に、先程の遣番のみたいに、一気に駆ける上がるような真似はせず、ゆるゆると道を登ってゆくのだが、城の構造上、そう簡単には登らせては呉れない。
下から眺めれば、なるほど山上まで真っすぐ道が伸びておるように見える。遠目から見てもそうであろう。
しかしながら、ひとたび登ってみればわかるのだが、実際の登城道は嫌になるくらいの高低差の激しい段差の繰り返しと、山肌を搔き切った横堀を巡らせ孤立させられた、吹きっさらしの台状の土地が幾重にも連なった、異様に上りにくい急坂の作りになっているのだ。
この仕組よって一行は、歩みの調子が取れず勢いも削がれ、道もくの字に屈曲されており狭く、お陰で体勢の平均もとりにくいが、作り手としては解かっていた事なので、気にせず歩みを進める。
この行程を計ったようにして、突如眼前に現れる三角形に整地された小台地と、その頂点の先にある板橋、これを渡った先に設備された土塁と、これに沿い前方にのみ張り巡らせた柵と門、これら簡易ながらも、十分に防御された小要害に再度行く手を阻まれる。
こう云った施設に邪魔をされるたびに一行は、致し方なく幾度も立ち止まり、要害を預かる番人に、柵の門を開ける様に頼み開かせては、通り抜けねばならなかった。
しかもこれが、幾重にも延々と続いているのだから堪らない。
その上、斯様に手の込んだ造りをして居ながら、城にとっては只の捨て郭にしか過ぎない構造物なのだから、登り手にしてみれば苦行以外の何物でもなかったのである。
この難儀な構造物群を使い、城方が戦の折に行う防御方法の説明をすれば、恐らくは、こういう具合に運用されたであろう。
次に敵方の視線に立って考えてみると、四方を高い断崖絶壁に囲まれる台地上に築かれた新町屋城に対して、無理を押して攻め上がる戦法は、無謀以外の何物でもないと即座に気付けるはずだ。
では何処から攻めるのか。
下方に位置する敵方から新町屋城を仰ぎ観れば、城まで真っすぐに伸びる登城道が眼に入る。四方からの攻撃が事実上不可な以上、兵の損耗を出来るだけ抑えつつ、此処より攻めざるを得ないと思考する。
だが、この正攻法は守る城方にしてみれば、飛んで火に入る何とやらで、吹きっさらしの台状地形に身を晒し、前方で行く手を阻む土塁が敵方を拒み、一人づつしか渡れぬ板橋に行足と攻城人数を制限され、三角状台地に兵が溜まることになり、更には、くの字に曲がった道に並ぶ兵達も、横っ面を城方に晒してしまう格好となる。
城方はこれらの敵に対して石を投げ弓を射るだけで、ドシドシ討ち取れるのだ。
またもし、敵の勢いに押され要害が危機にさらされたとしても、さっさとこれを捨て、味方の援護のもと後方に控える新たな要害に立て籠もればよく、敵が城兵に代わり、捨てた要害に籠ったとしても、城方の防備には何らの問題も生じないのだ。
これらの小要害はあらかじめ、最低限度の後方防禦をしか施こされておらず、入ったとしても正面からの要害からの攻撃と、上方からの城側からの攻撃を防ぐ手立てを全く持たされていないのだ。
そう、断崖上の新町屋城側や後方の要害からは、中身が丸見えになる作りなのである。
つまり城方は、幾重にも連なる捨て郭要害群を利用して、敵を防ぎ釘付けにするだけで、概ね事が足りてしまうといってよく、また奪われたとしても、最初から捨てる予定が盛り込まれた前哨陣地であるので、敵方が前進すればするほど、城方の主防御施設群により接近することになり、被害が激増する仕組みであったのだ。
しかも、敵方にとっては悪夢以外の何物でもない話をすると、実際の城域は台地上にあり、これが眼下の登城道要害群を、遥かに上回る規模の要塞群が折り重ねられるように築造され、渦を巻いて待ち構えているのである。
これが、神鹿家が心血を注ぎ築き上げた防御に主眼を置いた城、通称【蝸牛の城】新町屋城の姿であった。
「まあ、作った儂でも、生半には辿り着けない難儀な城ではあるのだがな」
うっかりして気を抜けば、愛馬が足を取られ崖下に落ちてしまいあの世に直行である。
なんと厄介な代物を親子二代で作ってしまったものかと、兵庫介は我ながら嫌になってしまいそうになる。
ヒイヒイハアハア、何とかかんとか一行は、歩みを止めず登城道を登り切り、かなりな時間をかけ城域の東端の山上に辿り着いた。
彼らが立っている場所は、目の前に広やかな平地が開けたところで、丁度、角状の河岸段丘の根元部分に当たる箇所である。
もしも兵庫介が鳥になり大空から其処を見下ろせば、周辺の山々から孤立した二等辺三角形の下側三分の一にあたり、城で一番開けた土地が望めるところであった。
この独特な地形の土地に、飯井槻さまが御自ら率いて来られた四千もの軍勢と、途中から合流した神鹿の軍勢が、ひしめき合いながら宿営地として駐屯しているのだ。
そんな兵達の周囲には二重の空堀と、これまた二重の柵がぐるりと張り巡らされ、更には柵の内側に、等間隔で城の周辺を見渡すのに最適な櫓も六つ建てられており、また柵には無数に立ち上る茅野家の軍旗『白地に赤餅』が翻り、誠に以て壮観である。
その只中を、兵庫介らは軍兵を掻き分けつつ通り、城の表大手門へと前進していく。
高所ゆえに、強い風に煽られ勢いよくはためく旗を望みながら、白地に赤丸餅と云う、単純極まりない意匠の軍旗であり茅野家の家紋でもある御印に、兵庫介は思いを馳せる。
実のところ、茅野家の家紋の赤い丸は赤餅ではなく、真昼に天高く輝く日輪を表現したものであった。
即ち太陽を現したものなのだが、いつの頃からか人伝に、神事に用いる赤米で搗かれた、目出度い餅のようだと言われはじめるようになり、それにまた朝廷の勅旨により、香弥乃大宮の祭主に代々叙任されている茅野家の姫御前様にあやかり、これに乗っかる形で民衆の間では、信仰に近い形で茅野の赤餅として有名で、現在では、こちらの解釈が浸透する結果になってしまっていた。
確かに云われてみれば、白い奉書紙に載せられた、有り難い赤餅に見えなくもない。
ちなみに、ひょろひょんが飯井槻さまの事を〖御社〗さまと呼ばわるは、香弥乃大宮の祭主故であったのだが、今は関係ない。




