東の三家(1)
第三十一部になります。サブタイトルも変わります。
休みの日はサクサク作業が進むからありがたいですね。
では、第三十一部をお楽しみくださいませ。
さて、茅野屋敷を後にして兵庫介が次に向かう先は、季の松原城の厩戸御門の内にある深志家の軍目付の役宅と、次いで茅野全軍を預かり新町屋城にて駐屯する参の家老の戍亥様のところである。
彼の周囲には馬廻二騎と近習二人が付き添い守りを固め、それに先頭を預かる右左膳と、何故だか一緒にひょろひょんを伴いつつ、整然と御城へと続く道を進んでいく。
だが、是より少し前の出立の際に、とある珍事があった。
それは支度を整えた兵庫介の背後に、飯井槻さまが木の影に隠れるようにして寄って来られたことから始まった。
兵庫介はてっきり、当主御自らが見送りに来られた思い、片膝立ちで首を垂れお待ちしていたのだが。
「兵庫介、わらわを一人置き去りにしてどこかへ参るのか?」
「はい?」
なに意味のわからぬことを言い出すんだコイツ。兵庫介はそう思った。
「じゃから、わらわを置いてどこに参ると申して居るのじゃが」
「突然おかしなことを申される。昨日、儂を軍奉行に任命すると申されたのは、飯井槻さまではござらぬか」
それ故に、行きたくもない深志家支配下の季の松原城の、これまた会いたくもない東の三家討伐軍を取り仕切る深志家の軍目付のトコロなんぞに挨拶がてら窺わねばならず。また、いくら書物を紐解いても、茅野家の軍奉行の在り方がよくわからぬので、新町屋城に居られる戍亥様に、これまた挨拶がてらお伺いして御教授頂こうと、今まさに出立しようとして居るところではないか。
などと、屋敷を出ていかねばならぬ理由について懇切丁寧に御説明したのだが、しかし当の飯井槻さまは、ハナから儂の話なぞ聞く耳持たぬ御様子で、しなしなと、近くにある姥木にもたれかかり、こう勿体ぶりながら宣うたのだ。
「わらわをの…………助けてたもれ?」
「くそ、聞けよ人の話。あのな飯井槻さまの御為に、儂は御城と戍亥様のもとに赴かねばならないの」
そもそも飯井槻さまと茅野家の危機を回避する事のみを思い、儂は寝ずに朝まで頑張っておったのだぞ。
「もう耐えられんのじゃ。わらわは、これからどうすればいいのやら、まるでわからぬ」
姥木に縋り俯き肩を落とされた様子は儚げで、身体が一回り小さくなられた様に感じられた。が、しかし、こちらの話は一向に聞いては呉れず、彼女がナニが言いたいのかも見当がつかないのだから堪らない。
「もうめんどくさいな、一体どうなされたのだ」
昨日までの闊達さは何処へ飛んでいったのか。よもや飯井槻さまの身に、儂如きでは想像もつかぬ異変が発生したのではあるまいな。
「たすけてたもれ」
相変わらず人の話を聞こうとしない飯井槻さまのご様子を見て、突発的に気鬱の病[なるわけはないであろうが]でも召されたのか、あるいは世の情勢が急変したのかとも考えたが、どうにも判断がつきかねた兵庫介は、しょうがない、話くらいは聞いてやるかと云う気分になってしまっていた。
「気をしっかりお持ちくださりませ。如何なる事態が生じましょうとも、この神鹿兵庫介、命に代えても飯井槻さまを御守り致す所存であります故、なんなりとお申し付けくださりませ」
姿勢を正して地に座して、飯井槻さまに向かい固い誓いを捧げた。すると、後ろで控えていた馬廻や近習らも、儂に習い同じ動作を取る。もちろんひょろひょんも同様の態度を示した。
「まことかや?」
「誠にござりますれば」
皆、一斉に頷く。ひょろひょんだけはぼんやりしている。
「まことにまこと、であるのじゃな」
我ら一同皆、嘘偽りのない真剣な眼で飯井槻さまに応えた。
その刹那、ニヤリほくそ笑んだ飯井槻さまの表情を儂は見逃さなかった。
「兵庫介よぉ~!是非聞いてたもれぇ~‼」
飯井槻さまはこっちに走り寄って膝をつき、儂の両肩を掴むや堤が決壊したかの様にとめどなく涙を流されたので、儂も皆も一瞬たじろいだ。
でも、ひょろひょんは空を見ている。
「もうの、わらわはあんな意味の解らない連歌を、これ以上続けるなど耐えられぬのじゃ!やめてほしいと歌に込めて送っても、あのアホには全然通じぬのじゃぁぁあ~!」
彼女は、例の頭の中が甘い飴で出来ておるらしい平安乙女武将こと、深志孫四郎の連続〖歌〗攻勢に為すところなく押しまくられておられる御様子で、その精神も落城寸前であるらしかった。
まあ、孫四郎はアホだからな、結果として飯井槻さまを精神攻撃しておることに気付いておらぬのであろう。
「あんた、人がくそ忙しい時に何やってんの?」
「わらわとて予想外だったのじゃあ~。あやつの乙女心は際限知らず過ぎるのじゃあ!」
えぐえぐと、激しく嗚咽しながら助けを求める飯井槻さまは、美しくもしおらしい姫御前様どころか、茅野家を引っ張る当主にすら凡そ思えない、みっともない御姿になっておられた。
「あんな阿呆なんぞ、適当にあしらって放っておけばよいではないか」
「わらわもそう思うて逃げ出す算段しておったのじゃ」
「どんな風に」
「例えばじゃ、こう寝転び目を瞑りての、足の指で適当に選集を捲り選んだ歌をの、そん時の気分の赴くままに、くっつけはっつけして作った詠むも無残な出来損ないを送り付けて、あやつを呆れさそうとしておったのじゃ」
「で、どうなった」
「どうもこうもありゃせんのじゃ、そんな鼻糞みたいな歌にアホのあやつはまるで気付きもせんのじゃ」
「アホだしな」
「そうなんじゃ、アホすぎて手に負えぬのじゃ!心に響く良い歌ですね。なんて感想まで書き添えて、毎日毎日、何通も何通も返歌を送りつけてきおって、ああ……。もう辛抱堪らんのじゃぁあ‼」
「あんたも、大概ひどいがな」
「ありがとう」
「ほめとらんわ」
こんな阿呆共の馬鹿話に付き合っていては、儂の精神の方が耐えられぬわ。
「何とかしてくりゃれ?」
「そんなのしらん」
儂には関係ないしな。
「わらわの為なら命を張ると申した‼」
「こんな戯けた事に命なんぞ張れるか‼」
「嘘つき!もうこうなれば致し方なし。凄まじい数のカメムシなんぞ集め手紙に刷り込み、大量にあやつに送りつけてやるのじゃ‼」
「飯井槻さまよ、それをやらば色んな意味であんたの方が先に終わるぞ」
「ならばどうすればよいのじゃ!」
「知るか!御自身で何なりと致すがよろしかろう!」
こんな阿呆の相手なんぞしておれるか!儂は忙しいのだ!それにカメムシなんぞ、この季節一匹たりとも這いずっておらぬわ。
呆然とした表情で固まり、儂らの頭の悪い言い争いを眺めていた馬廻や近習達に、兵庫介は振り向きざまに一喝して正気に戻しながら、儂どころかひょろひょんにも縋る飯井槻さまを置き捨てにして、厩から引き出された愛馬に跨るや、部下とひょろひょんを連れ一気に駆けだし表に出た。
姥木の陰に未だもたれかかり、此方を恨めしそうに見つめる飯井槻さまが、裏門を潜り抜ける際に見えたが気にしない。
まあ、あとで話くらいは聞いてやるから、そんな御顔をなさるなと、兵庫介は心の中で呟いたのは、内緒の話である。
ああ、なんとめんどくさい姫様であられることよ、と。
そんな珍事であった。




