集結地、田穂乃平。【改稿版】(1)
順次、改訂版アップ中♪
明応元年(西暦1492年) 五月二十二日(4月27日)
びゅ~びゅ~。びゅ~びゅ~。
広やかな盆地の草原を、嘗めるように空気の塊が幾つも幾つも地を撫でながら駆け抜けていく。
「うむ。まことに強き風よの。わらわの耳に当たり頭の中で小鐘の音がけたたましく鳴り響いておるようじゃわ♪」
いかにも貴人らしく、雅やかな雲海が意匠され象どられた打掛を羽織り、色鮮やかな小鳥と唐花紋様があしらわれた小袖をそっと身に纏った可愛らしい娘子が、先刻、季の松原から届けられた文と、これに添えられた稚拙な歌に、彼女は半ばあきれながらさっさと袖にくしゃくしゃにしてしまい込んだ。
「それにしてもあやつ。如何にも寒げじゃのう…」
ここは彼女が統治する領地の南南東に位置する【田穂乃平】。と云う名の、草と小石だらけの盆地である。
そこの中央あたりに位置する小さな丘に立ち、何するでもなく、ただ単に今はやる事が無く暇なので青空を眺めて背伸びしている平伏姿の男が独り立っていた。その様子を娘は丘の下、自身の本陣の前から眺め、傍に控える侍女二人に聞かせるでもなく、柔く一人呟いていたのだ。
このひょろい体格の背ばかりが異様に高い者は、もし近よれば、女子としても背がさして高くはないこの娘は、彼と話す為に首が痛くなるほどに上に曲げねばならず、いつも困ってしまうのだ。
しかも此の者が身に着けている衣服といえば見れば見る程ツンツルテンで、細い手首や足首の肌が見えてしまっており、彼女はその姿を見るにつけ、思わず笑い出してしまいそうになるのだから更に困ってしまう。
《なんとも、心地よい風にございます》
ひょん!と、突如この丘に突き刺さった長い弓矢みたいに、身体を風に委ねてゆらゆら揺れているひょろ侍は、目線をすっと上げ遥か遠くの地に思いを馳せ、望み見ている様子であった。
ぶるっ。
それなりに広やかな盆地のただ中とはいえ、初夏とは思えぬ冷たき風に身震いしたひょろ侍は、心地よさとは無縁な肌寒さに耐える様子を見せ、スッと片膝を付き、やおら身体を左右に小刻みに揺らしながら彼女を迎えた。
娘子はその堪らぬ可笑しさに耐えかね、ふしし♪と、含み笑った。
《ご覧を》
ひょろ侍が右手で指示した方向から、ゆらゆら陽炎じみた気が草原から立っているのが見えた。
その草地から、黒々とした揃いの具足を身に付けた神鹿氏の軍勢が、妖気を孕んだ悪鬼の如く粛々(しゅくしゅく)と此方に向けて進軍していた。
「それにしてもじゃ【ひょんひょろ】よ。東の三家の治めたる領地は、高き山々に囲まれた狭き盆地ばかりじゃ。此処よりもまだ寒かろうによもや【国主家】に謀反とはのう」
《…左様にござります》
ひょろひょろした男【ひょんひょろ】は、主の言葉に白い息を伴い応え、眼前に小さい雲を作った。
《ところで、あの件は如何なされましょうや?》
主である娘子に伺いを立てたひょんひょろは、ぶるっと、またひとつ身体を震わせ自らの肩を掻き抱き言った。
ふしし♪そんなに寒ければ斯様な場所にわざわざ立たなければよいものを、娘は思わずニヤけてしまったが、ハッと気を取り直し、こやつの問いに答えてそれを誤魔化す事にした。
「深志の、奴腹のところの二番目の倅を、事もあろうにわらわの夫にする企みか?それとも国主様を使うて、他愛もない謀をしている〝アレ〟の事かの、もしやそれとも……?」
《前者についてでございまする。御社さま》
「これまでは、弐の爺様が奴らの申し出をのらりくらりかわして適当にあしらってきたがの、流石に向こうも痺れを切らしたらしくてのう。。。…誠に以て、わらわにとりて迷惑な話もあったものじゃ」
《なるほど、流石に甚三郎様の手にも余りましたか。それで此度の出陣でございまするか》
「まあ~の、それに、今こちらに深志の刃を向けられては困るし……のう♪」
《そこで忠義厚き神鹿殿をお使いになる……で、ありまするか》
不意に、娘の肢体を影が覆い、辺りまでが暗くなった。
ひょんひょろがヒョイと立ち上がり高みから彼女を覗き込んだせいであった。
「なっ…なんぞ!」
娘は思わず後ろにたじろいだ。
《いやはや、流石に御社さま。喰えぬ御方にございまする》
「放っておけ!それよりもじゃ、お主の方はどうなっておるのじゃ?」
動揺が心に波打つのを娘は力任せに抑え込み、出来得る限り表情は平穏を装うよう彼女は務める。
《万事、手筈通り整うてございますれば》
娘はそれを聞くなり、下腹に力を込めた。
「ひょんひょろ!」
身体が異様にひょろい男の渾名を、力いっぱい声を張って叫んでみた。
ひょんひょろはこの娘に貴人な対するそれと同じく、恭しく傅いていた。
もう一度彼女は叫んでみる。
「ひょんひょろ!」
《はっ》
「委細任せた!」
《畏まってございます》
それを聞いた娘は衣を翻し、ひょろ長い男に背を向けた。
あ~なんか気持ちいい。
などとは娘子はおくびにも出さず、笑みを顔中に浮かべて丘をカッと駆け降りる。
彼女の眼前には続々と集結しつつある茅野家の軍勢が、人馬をうねらせて見渡す限りの平原に覆いかぶさり、その規模を徐々に拡大させていた。