茅野屋敷にて(5)
さて、第二十部目になります。
ここで茅野屋敷にては終わり、次からは違うサブタイトルになります。
では第二十話を、お楽しみくださいませ。
閑話休題
「左様か、貴殿は料理人の御爺様の御孫であられるか」
兵庫介は大台所の板間の隅に腰を下ろして、四之助が朝餉に運んで呉れた膳部を覗き言った。
「恥かしながら、まだまだ駆け出しの身でして、御師匠様には教えられてばかりの毎日で御座います」
「そんなに畏まらずともよいぞ。儂とて、たかだか茅野家に仕える草生した土豪の一人にすぎぬ。気なぞ使っても致し方無いからな」
さねと戯れていた先程とは打って変わり、緊張しているのか、堅く、ぎこちないしゃべり方になった四之助を気遣う。
「されど…」
「構わん。同じ飯井槻さまのもとで働く仲ではないか、その様にされるとむずがゆいわ」
「そうなのじゃ。気にするな」
「いや、お前はもう少し気を使えよ」
いきなり口を挟んで来たさねに言ってやる。こやつは儂に気安くなり過ぎてしまっていて、逆に怖い。
「しかし昨夜の料理は生まれてこの方、喰うたことのないくらいに素晴らしきものであった。全く以て感服致し申した」
そう言うと儂は深々と頭を下げ、昨夜の感謝を四之助に示す。
「み、身共に下げられましても、こ、困ります」
四之助がびっくりして、あとずさる。
「こりゃ、殿様」
こん‼
「いて!」
いつ手にしたのか、柄杓を握りしめた娘侍が頬をぷっくりふくらまして睨んでくる。
「ほどほどになされるのじゃ。ほら、あまりのことに四之助が怯んでおろうが、それに感謝する相手も間違うておるぞ」
左様か。確かにそうかもしれんな。感謝したいばかりに先走り過ぎたようだ。
「て、違うわ。ちゃんと儂の首の先をよく見やがれ」
「はてな?」
さねは儂の頭の髷を見据えたあと、目でその髷先を追った。
「爺様がおる!」
「やっと気付きおったか、儂は爺様や四之助をはじめ、ここにおられる皆々様に感謝を申しておるのだ。しかし痛いな、ジンジン来るわ。柄杓の底の角で叩く奴があるか」
「と、殿様が、妙な知恵を働かせたのが悪いのじゃ!」
さねはふくらましていた頬を益々ふくらまして、ぷう。と、一気に空気を吐き出し、儂の脳天めがけ柄杓を振りかざした。
おいおい、本気か?
スカッ
さねの可愛らしい握りこぶしのみが、兵庫介の頭上を風を切って過ぎ去った。
「へあ⁉」
さねの短い叫びに導かれ、兵庫介は思わず引っ込めていた頭を持ち上げてみる。すると、あの料理人の御老体が棒切れと柄杓を手にして立っていた。
「さね様、程ほどになさいますように」
さねは棒切れで頭を小突かれたのだろう。両の手でしきりに頭をさすり、板敷きにペタンと座り込んでしまった。
「柄杓といえども料理作りには欠かせぬもの、おろそかに扱えば許しませぬよ」
どんな技を用いて奪い去ったのであろうか、儂の頭に食らう筈であった柄杓は知らぬ間に爺様の右手に移動していた。
「すまぬのじゃぁ。もうしませんから、すまぬのじゃぁ」
頭を抱えたまま蹲るさねをよそに、今度はポカンとしていた四之助の傍らに爺様が近寄り、これまた頭をぽかりとやった。
「痛いよ。御師匠様」
叩かれたところを抑えて四之助が言う。
「お主もまだまだじゃな、修業が足らぬからあれくらいで狼狽えるのだ。さっさと嫁子のもとへでも行って飯でも食わせて来い」
そう爺様に諭された四之助は、大台所から外に追いやられた。てか、あいつ妻子持ちかよ。
兵庫介が面食らっていると、爺様は腰を屈め、土間に正座して丁寧に頭を下げてきた。
「身共の弟子が不躾を致し申し訳ありませぬ」
これはたまらぬ!ちと、からかいが過ぎたか!
兵庫介は即座に立ち上がって、滑るように土間に駆けおり地面に手をつき、爺様に向かい、この通りじゃと頭を下げた。
「こちらこそ失礼を致した。まことに申し訳御座らぬ」
今度は爺様が意表を突かれたのか、キョトンとする。
「「……………」」
とぼけた面をした年の離れた男二人が、お互いの顔を見つめ合う。
「ふ、ふふ……」
「はは…ははは……」
「「あはははははははは‼」」
いい年こいたのが大声で笑い合う。
「いや、ここしばらく声を張って笑ったことなどあり申さず、失礼を仕った!」
「こちらこそ、この通りの年寄り故、いささか腹に堪えましたわ」
顔を見合わせお互いニヤッとする。
「兵庫介様、今後はくれぐれもお気を付けくださりませ」
「相分かった。子供じみた遊びは今後致さぬ」
儂は土間から立ち上がると、土の付いた裾を払い板間に着座する。
「それはそうと、爺様。すまぬのだが……」
「飲み物に御座いましょう。少々お待ちを」
「すまぬ」
御老体は儂が何を言いかけたのか、見当は付いていたらしい。
そのお陰で遅すぎる朝餉を済ませた兵庫介は、良い塩梅の温さを保った白湯を手渡され飲み干したあと、爺様一家に深い辞儀を残し表に出た。
出る際、まだ大台所の傍で頭をさすっていたさねに、懐に忍ばせていた一通の文見せ、ひょろひょんに届けるよう頼んだ。
さねは精魂込めて作り出したしかめっ面を兵庫介に向け、目いっぱい両手で口の端を引き延ばして、イッ‼ と唸り、文を引っ掴んで何処かへ走り去って行った。
「取り敢えず、城下の様子でも見て参るかな」
さねのまだ子供らしい行動を思い出して、ニヤつきながら厩までやって来た兵庫介は、此処を預かる厩番に愛馬を引き出してくれるよう頼み、まもなく鞍を背に敷かれた愛馬が口取りに引き連れられてやって来た。
兵庫介は素早く愛馬に跨ると、脇に控えている口取りに自分が表に出た旨を左膳らに報せるように言い含め、近習二人を伴い屋敷の門を潜り道に出た。
一行は屋敷地を早歩で通り抜け、御城下に参集する武者どもの行列を避けながら一丁ばかり進んだところで、不意に違和感に襲われ、馬の歩みを止め背後の景色を振り返った。
「あんなもの、昨日までは一切なかったはずだが」
兵庫介の目線の先には、黒々とした深志家の家紋が描かれた旗や幟が御城や屋敷地に無数に立ち上り、それが追い風にまくられ勢いよくはためいていたのだ。
「なんたること。あのように物凄い数、これまで見たこともない」
余りの光景に気圧された兵庫介は逃げるように馬を走らせ、ハッと我に返ったときには近習どころか、ひとっこ一人いない南の高台までやってきてしまっていた。
汗だくになり走り疲れて音を上げた愛馬を近くの松に繋ぎ止め、自らも手拭を取りだして汗をぬぐい息を整え、地面に盛り出した松の根っこにへたり込み、思わず足元に生える名も知らぬ草花を引き千切り投げ捨てた。
彼の眼下には、深志家の黒旗を掲げた凄まじい数の大軍勢が、重低音の地鳴りを上げ大地を圧し、季の松原城とこれに付随する支城群を目指して、整然と行軍している光景であった。
「あれ程の大軍を催して来ようとは、我らはあれに勝てる……のか?」
飯井槻さまを御守りし、茅野家に忽然と降りかかった危難を打ち振り払い乗り越える。そう田穂乃平で馬上から誓いを立てた。
だが、目を凝らしてよく見てみるがいい。
黒い鎧を身に纏った八岐大蛇が鎌首をもたげ、一路、季の松原の御城を一息に飲み込まんと欲し進む、あの有様を!
言い知れぬ恐怖からなのか、兵庫介は震える身体を抑えるように両手で肩を搔き抱く。しかし、とてもではないが収まらぬ、勝てない。あれに勝てる術がない。
おそらく、彼の人数、二万は優に超えるであろう。斯様なまでの軍勢は昔語りか軍記物でしか聞かぬし知らぬ。儂は深志を甘く見ておったのだ。
深志家の貫高は一万六千貫余り(八万石余り)だと踏み、十貫に付き三人とした約定よりも多い、都合四人の軍役で兵を催すとばかり勝手に仮定していた。
この場合だと、奴らが繰り出せる軍勢はざっと六千四百人。無理に無理を重ねて五人役としても八千人ほど。これに深志に与した三十一家の土豪共の軍勢を合わせて、合計一万三千か四千人だ。
さりながら、我ら茅野家が相手にするのは深志家のみ、同心する他家の軍勢なんぞには目もくれず、深志の軍勢の本隊のみを襲う。
これならば我らにも手の打ちようがある。更に奴らの中に亀裂を生む内訌の策を施すのも必要であろう。さすれば深志側は対応に追われることとなり、必ずや、少なくない兵を幾つにも割く筈であろう。そうなれば実際に使える軍兵の数は減りに減る。上手くすれば奴らは本隊のみを残して丸裸に出来るだろう。
皮袋。いや、深志弾正は無類の戦上手、常に戦場に身を置き続けてきた男だ。こういう手合は危険になればなるほど、配下の奮起を促すのに我が身の危険を顧みず、敢て自陣を前進させるだろう。ならば、あえて儂は其処を突く。
その為には先ずひょろひょんの知恵がいる。
昨日、突拍子もない宴を開き、まんまと深志側の注意を逸らす策に儂を乗っからせたあやつのことだ、この話に乗って来るに違いあるまい。故に儂はあやつの行方を探り文までしたため、さねに渡したのだ。
この企みが思い通りに運べば儂は、いや、我が神鹿主従は全員討ち死にするであろうが、それによって茅野家は救われ、飯井槻さまの御身も助かるのだ。
ワザと儂を白洲に座らせ、神経を逆なでする様な真似をした皮袋の事、茅野家の内情を鑑み潰す手段は幾つか持っておるだろう。
先ず考えられるのは、飯井槻さまへの忠誠心が家中に於いて一等厚い儂を怒らせ、何かしらの不始末を起こさせるつもりで、あんな見え透いた手を仕掛けて来たに相違あるまい。そして、その汚らしい手に乗らされた儂の不手際を口実に、婚儀を早急に結ばせ茅野家を乗っ取る。もしも結ばぬと申さば、茅野家の不誠実さを理由に攻め取る所存だった筈だ。
もちろん、斯様な手に嵌る儂ではない。これも武門の習い、かかる無礼も、主家の為に耐え忍ぶのも致し方あるまいと覚悟を決め、一切の不満すら口に出さず儀礼を乗り越え、昨夜は、飯井槻さまの御為に、何事も耐えられよと申した、ひょろひょんが仕組んだ謀にも口を挟まず、敢えて付き合ってやったのだ。
儂の企みを相談をする相手は、ひょろひょん以外にない。そう確信した上でな。
されど現実はどうだ。皮袋は二万を超す軍兵を御城下に集めて見せた。御城や自領など、必要とされる要所には相当数の兵を留め置いておる筈なのにだ。
例え、儂やひょろひょんが目一杯の細工をした処で、是ほどまでの兵力差がつけば、もはや如何ともし難いであろうことは一目瞭然ではないか。
どう見積もってみても、茅野家の動員数は三千から四千余りであろうからな。これほど歴然とした差があるのに、敢えて茅野家に助力するような酔狂な領主は居りはすまいし、深志家側が分裂する芽も少ないであろう。自ら進んで死地に赴くバカは、東の三家か儂ら位だろうからな。
詰る所、儂が思い描いていた構想は画餅に過ぎず、成功する見込みのない愚かな策であったのだが、それを深志弾正貞春は自身の軍勢の途方もない多さによって示したのだ。
だが此処で兵庫介はあることに気付き更に戦慄する事となった。
小領主の小粒ような軍勢の数は、黒旗の大軍に比べれば圧倒的に少ないが、それでもまだ、敵軍の全容には全然足らぬ事を迂闊にも見逃していたのだ。
それは、守護職である国主様が握るこの国一番の大軍勢も、あれに併せ重なるのだという事実に考えが及んだ時であった。




