神鹿兵庫介。【改稿版】(8)
かくして茅野家は、本貫であった【一万貫(二万石)】に足すことの、神鹿家以下の各土豪を支配下に置いたことで【五千貫(一万石)】を手中に収め、これを元手に神職出身の家柄であるため元来少なかった兵数を倍増させ、当時から参の家老であった【戍亥太郎左衛門惟寿】に鍛えさせて一致団結した軍勢を作り上げることにも成功。これを大いに用いることによって国主家に付き従い一軍を成し他家との戦にも積極的に参加できるようになった。
自家強化政策を成し遂げた六郎は、都やその周囲に巣食う一癖も二癖もある生臭坊主共との交渉事や、将軍家や朝廷との折衝などにも得意の政の才知を生かして主にこの方面で活躍。
存命中に錐隈郡のうち三千貫(六千石)の恩賞を国主様より直々に賜り、さらには中老職筆頭の地位を獲得して、茅野郡と彌窪郡の両郡と、錐隈郡の東の一部を統括する【守護代】に任じられる出世まで遂げてしまったのだが、彼の業績はこれだけに留まらなかった。
自領の内政においても、積極的な開拓開墾事業を神鹿氏を中心に行い貫高を新たに五千貫も創出。またこれに併せ六郎がかつて神鹿氏に告げた通りに大いに道幅を広げて、商工業を奨励し土地柄を生かした商品開発にも力を注いだので、この商取引で稼ぎ出した利益は一守護代の身上としては膨大なものとなり、稼いだ額の正確な値は決して表には出さないものの、毎年の利益はおおよそ七千貫文(石高に換算すると一万四千石相当)にもなっていたそうな。
おかげで現在の当主であられ、父・六郎から政を引き継いだ【飯井槻さま】の御代におかれては、本貫二万三千貫(四万六千石)。これに裏貫の七千貫を足せば、総計【三万貫(六万石)】にも上る収入を作りだしたのだった。
もはや茅野家は、小さいながらも大名と呼んでいい大身に成り上がった。
だが六郎様は、この上り利益を決して独り占めなどにはしなかった。時には自分が大損をしてでも得たものは皆に均等に分け与え、生涯苦楽を家臣と共にする道を貫き通したと言われている。
これらの事象をつぶさに見聞きし実体験してきた神鹿氏は、自身の完全なる敗北を痛感した。
以来、何かが吹っ切れたように茅野家の御為、いや六郎様の御為に終生一心不乱に立ち働き、子の神鹿兵庫介親利の代においては、茅野家への『報恩と忠義』が我が家の家風であるとされるくらいに神鹿家に定着して今日に至っている。
「六郎様の配下に成り申したのは、儂の親父様の代であったが、仕え初めの頃合いは夢破れた悔しさで、夜も寝られぬ程であったらしいと聞いた。が、つらつらと六郎様に身を接するうちに、人の貴賤を問わぬ行き届いた気配りと、よく御練りになられた政と謀の仕様に次第次第と感銘を受けていったらしくてな。ふと気付けば、用事もないのに常に六郎様の側に寄り添い、どの様な場所であっても好んで付き従うようになっておったそうな」
兵庫介は自身の幼き頃の思い出を馬を寄せ合い進んでいくひょんひょろに、さも楽しそうに話して聞かせた。
「して、ひょろひょんよ。お主も六郎様にしてやられた親父殿と同じように、飯井槻さまにコロッとしてやられた身の上か?」
《左様で、その口にござりまする》
「そうか、そうか。やはりお主もそうであったか♪」
からからと、兵庫介はひょんひょろを見上げながら楽し気にひとしきり笑い。馬上から背伸びして顔を奴の耳に近付けようとしたが、もともとの身長に開きがありすぎてなかなか思うように身を寄せれずにいたのだが、この仕草に気付いたひょんひょろが気をつかい、やおら馬上で腰を引いて屈むような姿勢を取ったので、難なく兵庫介は自分の顔を近寄せやすい位置に付くことが出来た。
しかし、なにやら自尊心を酷く傷つけられた思いがした。
「で、ひょろひょんよ、お主は向こうに、鱶池領に着いたら何を致す所存か?」
《はてさて》
「……ふむ、云えぬか。まあよいわ」
兵庫介の問いに、ひょろひょんは途端に呆けたみたいな顔になった……。様な気がした。この男、背が余りに高い《ゆえ》かどうなのか、顔の作りがいまいちよく分からない。だが、体の動かし方でそうだと察し、問い掛けた兵庫介の方が逆にどうしたらいいのか判らなくなってしまって困惑した。
だがやはり、ひょろひょんには何かしらの、儂のような外様には漏らせぬ役目が飯井槻さまから与えられておるのだろうな…。
兵庫介は、自身がしがない外様身分でしかないことを悔しがりつつゆっくり頭を持ち上げて鬱蒼とした景色を眺めた。そして未だ我らの行く手を遮るように眼下に伸びている棚倉の山道に辟易し嘆息した。




