神鹿兵庫介。【改稿版】(3)
神鹿家は当初、嘆願書と、そこに記された内容は一切見なかったことにして封印する腹積もりであった。
しかしながら【とある人物】の働きかけによって嫌々ながら嘆願書に目を通した国主様は、ある一文を読み目を輝かせた。それは…。
【此度の水争いの一件が無事片付けますれば、彼ら土豪一同。国主家の御為にこれまで以上に忠勤に励み、京に参り働く所存】
という部分だった。
この土豪共の祝勝な申し出に大いに破顔され気をよくされた国主様は早速、水争いの仲裁を自身が取る旨の約定を使者を放って土豪共と取り交わし、次いで神鹿家にも使いを出して報せたのだ。
『此方では双方の言い分のどちらが正しいか見当つきかねるが、皆が言う様に其方ならば内々の事情も知っておるのであろう、そういうわけでなんとか皆の意を汲み灌漑の件、どうにかしてやってくれ!』
使者がもたらした国主様の最後の一文を直に口頭で聞かされた神鹿家の当主も一族も、瞬時に頭を抱えうずくまってしまった。
この…。誰がどう考えても無茶苦茶で身勝手で、恥知らず極まりない命令とも呼べぬ国主様の御指示は、差出人である当の国主様自身は全く気付かれてはいなかったのだが、自身の無能さを神鹿家に対して完全に植え付ける結果をもたらした。
…何ら此度の水争いに関わり合いもなく、したくもない灌漑工事を実施せよ。などという無理難題を無理くり押し付けられたていとなった神鹿氏は、再三に渡り国主家から届けられる同様の内容の手紙にシカトをかまして返事すらせず仕舞いですごしていたのだが、これが日に日に届き、文が賽の河原の積み石の如く居城の納屋に重なっていくにつれ、流石の神鹿氏も余りの執拗さに恐怖すら感じはじめた。
そこに、今度は解決の行方を見守っていた土豪連中が痺れを切らせて結託し、ついには盛んに兵を集め、神鹿領に攻め込む構えを見せ始めたと、土豪連中の領内を探索させていた配下の報せを聞いて驚愕した。
『神鹿の水源を我らの物とすれば、諍いごとの根本はなくなる、つまり話が早いではないか!』
この、水の分け前については後で考える的な、極めて単純極まる脳みその蕩けた思考で戦へと突っ走りはじめた土豪連中は、『取り敢えず先ず神鹿から水を奪えばよい!』とだけの方針を決め。早々に各陣の兵力を整え出したのだった。
事ここに至り。ようやく事態の深刻さに気付かされた神鹿氏は、シカトしていた国主家からの手紙の束を打ち捨てて×仕舞い込んで〇いた納屋からえいやっと引っ張り出し、親類縁者一同を集め城内に集め額を突き合わせて検討した結果。『されば致し方なし』と、国主家と土豪連中に宛てた手紙を認め、これらを使いに持たせ走らせることとした。
『なかなか返事を出さなかったのは此方としても申し訳なく思っています。しかしながら当方山に住まう山猿にて、下界の水争いのことなど知る誼もなく当惑しておりました。付いては事の次第を詳しくお聞きしたく、出来得れば腹を割って話し合いたいが如何に?』
と、その様に口上させる使者を土豪連中に派遣したが、これを土豪連合は受け入れるどころか、中には兵を繰り出して追い払う者さえ出る始末となり、また、国主家に出した手紙についても先方からは、『ねえ、まだなの?まだ灌漑工事はじめないの?なにが不満なの?』と的外れな返事しか舞い込んでこなかった。
説得工作に失敗したと強く感じた神鹿家は仕方なく、急遽領内に触れを出し兵を集め、これを支配下にある支城や要害に込めて手早く迎撃の準備を整えると、隣の茅野郡を治める領主で、しかも都合が良いことに国主様の近待を現在務め、今回の争いにも一切関わりを持たず何かと融通が利くと国中で評判の【欲浅き律儀もの】に、穏便に話が済むよう取り成してはくれまいかと膝をついて頼むこととした。
その人物こそが、当時の茅野家当主【茅野六郎寿建】であった。
万が一、六郎様の交渉が不首尾に終わるようならば致し方なし、神鹿家の戦の仕方を国中に見せつけてやる!
左様覚悟を決めての依頼であった。