神鹿兵庫介。【改稿版】(1)
さて、この茅野家と飯井槻さまへの忠義心溢れるが故、外様の身分ながら飯井槻さまに起用された武将。老尼様が仰るには『抜け作』だったらしい【神鹿兵庫介親利】について今から語るのだが。先ずは彼の家の始まりと、茅野家と神鹿家に纏わるある一つの物語を紐解かねばならない。
兵庫介の家は、茅野家がこの地に土着する遥か以前に何処からか流れて来た古い一族であったと云われている。
彼の一族は、食い扶持と安住の地を探し求めた放浪の旅の末に、茅野家がのちに土着する海岸沿いの【茅野郡】の南側、【彌窪郡】の西南から東にかけて平野を扼して聳え立つ、【神鹿山】の険しい中腹の、程よく開けた窪地にようやく辿り着き、この地を安住の地と定め先祖代々に渡り山や野を切り開き、裸一貫から田畑を耕し自身の領地を自ら作り上げて豪族化に成功した一族であったそうだ。
その後、いつの頃からかはハッキリしないが、彼らは住まう山の名を取って【神鹿氏】を名乗り。やがて、不毛の土地を耕作地に改める高い灌漑土木技術と、これらによって収穫される様々な作物を有益に利用する術を持ち、自家薬籠ながら地形を生かした異様に守備の固い城を構える築城術まで会得していた事もあって、彼の先祖たちは『たれぞ攻め来るもの在らば、一人残らず田畑の肥やしに致す所存である』として、この世にさほど我らが恐れる者も動じることもないと嵩をくくり、故に自ずと独立心が異様に高い家となっていた。
この御先祖様たちの言葉通り、もし欲にかられて物見遊山の気楽な気分でどこぞの誰かが神鹿領に攻め入ろうものなら、うねるように作り上げられた要害群に足元を掬われ、攻めるにも引くにも手間取っている内に領内隅々にまで張り巡らさた間道を巧みに機動した神鹿勢によって、夜も昼も休みなく襲われ続けた挙句に兵力まで寸断されて取り囲まれてしまい。哀れ、まるで川に放り込まれた泥団子が如くに溶けてしまい此の世からすっかり消え失せてしまうであろう。
この敵に回すと恐ろしく、また風変わりな開拓土建屋稼業を半ば生業としたの一族の神鹿家は、此の国を代表する独立独歩の土豪であったのは間違いなかった。
だがそれもこれも、これから記す一人の人物によって、新たな局面に神鹿家は知らず知らずのうちに立たされるのだから、歴史と云うのは誠に以て趣深いものだと感じ入るのである。
して、その人物とは飯井槻さまの父君にして茅野家の先々代の当主であった。【茅野六郎寿建】その人であった。
茅野六郎が茅野当主として大いに活躍していた時代は、彼の応仁の乱がおこった応仁元年(1467年)から長享二年(1488年)の間であったのだが、この神鹿家の御話に繋がる、およそ二十年前の文明三年(1471年)に持ち上がったとある出来事が、彼ら神鹿家の運命を劇的に変えるきっかけとなった年となるのだった。
さてさて、文明三年の時分と云えば、兵庫介の亡き父が神鹿家の当主として大いに采配を振るっていた頃で、ついで当時、現・国主様が家督を継いで四、五年程度の頃合いとも重なる時分でもあるのだが、丁度その頃、京の都で起こった次期将軍職を巡る応人の乱にかこつけて何を想い至ったのか国主様は、特に誰からも呼ばれてもいないのに自ら進んで京に軍勢を引き連れて赴き、赴いたはいいがよく事情も分からない為に、無用に戦の渦中に首を突っ込んで破れ、また赴いては痛み分けをしているうちに京の混乱から抜け出せなくなっていた時分でもあった。
この様に此の国が上下左右に渡り煩瑣極まりない時期に、彌窪郡の山間部を領有する神鹿家の足元で、群内を東西に流れる尻無川の水を巡り、とある大騒動が勃発しようとしていた。
それは、ある隣り合う村の子供たちが川遊びに熱中するあまりに発した、遊び半分の悪口の応酬から始まったもので、これが人伝を介する内に、いつしか村の大人達を巻き込んでの村同士の言い争いとなり、それが川から田畑に引き入れる水の優先順位を巡る争いにまで発展してしまったのが発端であった。
水の取り分は、田畑を潤すのに必要な重大な問題であり、古来より日ノ本の各地で繰り返された争いの火種の代表格でもあったのだが、それがため、近隣の村々をも次々と言い争いの渦に易々と巻き込んでいき、やがて村々を支配する土豪共が村民の名主達の仲介要請を受け介入をはじめ、今度は土豪同士がお互いに武力をちらつかせてお互いを牽制しだす事態にまで発展してしまった。
はじまりは子供の他愛のない言い争いであったものが、抜き差しならない土豪同士の土地争いの戦を巻き起こしそうになるまでに、〝昇華〟を遂げてしまったのだ。
だが、流石にこのままでは大戦になると危惧した土豪連中は、他領からの盗人根性めいた軍事的介入や戦による共倒れを恐れ、幾度か秘密裡に寄合を持ち話し合った結果。彼らの主家であり、国の司法権をも有する国主家に仲裁を求める嘆願書の束を送り届けることになった。
…ここまでなら他国でもよくありそうな話なのだが、今回の事件には、少しばかり他とは違う点が一つだけあったのだ。
それは理由はわからぬのだが、国主家に送り届けられた文面に【神鹿】の文字が何故だか幾度も登場し、あたかも今回の争いに係る重要人物の一人として名を連ねられていたのだ。
この、にわかには信じがたい名義無断使用の事実を、国主家の使者から直に聞かされた神鹿氏は、これまでは自分達にはまるで関係のない他領の争いとして、高みの見物を決め込んでいたものが、いつの間にか巻き込まれてしまっていたことに驚き理解に苦しんだのだが、国主家の使者から詳細を聞くに従って、更に頭を抱える次第になってしまっていたのだ。




