ひょんひょろ付きの娘侍。【改稿版】(1)
さてさて、当主である神鹿兵庫介親利の指揮のもと神鹿勢五百人は、今夜の宿営地に予定してある添谷家が三番家老。【鱶池金三郎】の領地である棚倉盆地へと向かい、細く急峻な山道をひしめき合いながら二列になって歩を進めている。
やがて軍勢は二刻ほど黙々と進むうち、棚倉山の頂上付近に達した。
「やっとここまで来たか」
《長うございました》
隊列の中央に位置する兵庫介たちの足下には、西北方に田穂乃平の全貌がありありと見え、東南方には靄に包まれてはいるものの、最初の目的地である棚倉盆地の楕円形の地形が薄ぼんやりと望めた。
そんな八百万の神々の、もしくは空を舞う鳥の視点に立ったかのような、そんな視野が開けた地点に辿り着いた兵庫介にの頭の中に、ある考えがふっと浮かんでしまい、なにやら楽し気な様子でなにやらブツブツ独り言を言い始めた。
「あっ。いかん。いつもの悪い癖がでた!」
ひょっと我に返った兵庫介は、誰に弁明するでもないのに勝手にしゃべり、そして照れ隠しを補うように兜の紐を締め直した。
《如何なされました》
ひょんひょろはいつもの無表情ながらも、不思議そうな声音で兵庫介に尋ねた。
…こやつにだけには、不思議がられたくはないわ。
などと思いつつも、兵庫介は先程まで考えていたことを素直に教えてやることにした。
「いやなにな。あの草ばかりの田穂乃平を巧く耕せば、如何ほどの米や菜が採れるものかと思案していたのだ」
彼が下界を見ながら思索していたのは、水少なく、ただ一面の草原に過ぎない痩せた土地の田穂乃平を、実り豊かな土地に変貌させてみたいという思考で頭が一杯だったのだ。
《今までなんども田穂乃平を通りましたが、斯様なこと、これまで一度たりとも考えたことはござりませんでした》
心底からひょろひょんは感心したらしく、う~んなどとしばらく唸っていたが、《…枯れた田穂乃平を豊かにする方法が思いつきませぬ》とだけ言い。それから兵庫介に対して、どうやったらこの草原を実り豊かな田畑に変貌させることが出来るのか?と、小首を傾げながら問うてきた。そのしぐさ、可愛くはない。
「まずは貯め池だな」
《なるほど。たとえ土地は乾いていても、付近の岩や山肌は乾いておらず、そこから染み出る僅かな水を寄せ集め貯めれば池となりまする》
やはり飯井槻さまが気に入り、傍に置かれておるだけの男ではあるらしくひょんひょろは、すぐさま兵庫介が施そうと考え付いた細工の仕方を理解したらしい。
これといった水気がない田穂乃平のごとき土地でも、実は水が全くないわけではない。細々とでも水は草地に雨となり降るか、山肌から染みだした水分が周囲に注いでおるはずで、でなければ、草なぞ生えぬであろう。
そこで先ずは貯め池を幾つか掘り、水の細流を寄せる仕組みの灌漑を施して水を貯め、耕した土地に効率よく注ぐのだ。もちろん、その際には刈り取った木々や草を燃した灰、さらには周囲の山々から枯葉を含んだ柔らかな土も運び入れ、元の土地と混ぜ合わせ地力を活性化させるのも怠らない。
「さすれば田穂乃平もよい田畑と成ろう。まあおそらく幾年も、もしくは幾十年も掛かる難事業になるだろうがな、やってやれない事ではないだろう」
兵庫介はひょいと、横に並び騎乗で前進するひょろひょんに身体を向け、笑いながら答えを教えてやった。
《そうなれば茅野家の貫高も益々増え、この地にも人が多く住み付きましょう。となりますれば自然と市なども立ち活気で賑わい、御社様が御好きな商売のタネも増えまする》
自分の体を後ろ向きにひねりながらひょろひょんは、あたかもそこに恵み豊かな田園が平の隅々まで広がり、土地を半分に分ける様にして走る裏街道の両脇には、たくさんの人々で賑わう市と宿場町が現れ出たような無表情ながらも、表情豊かに思えてしまう〝笑み〟を浮かべたかに兵庫介には見えてしまった。
なんと想像豊かな男もいたものだ。
兵庫介は呆れるよりも寧ろ感じ入っていた。
もしかすると、こういう不可思議な思慮を持っておるところが、飯井槻さまの興味を引いたのやもしれぬな。
それにしてもこやつは如何なる理由があって、我らが飯井槻さまを【御社様】といつも呼ぶのだろう。
…気になる。
兵庫介は此のことを機会があればコイツに聞いてやろうと、密かに思っていた。