集結地、田穂乃平。【改稿版】(8)
《その約定、些か古うございます》
無表情のまま、ひょろひょんは前にみ見据えてこう切り出した。
「とは?」
《先日、兵庫介様をはじめ当家配下の各領主に兵数の割り当てを発する前に、国主家より……。いえ弾正殿より通達がござりました》
「ほう。それは初聞きだ。してどのような?」
早速この件に付いて、兵庫介がひょんひょろに問い質そうとしたところ…。
ふっと田穂乃平の中心部あたりから強い視線を感じ、兵庫介は例の小高い丘の直ぐ下に張られた見知った家紋の陣幕の一つを凝視した。
「あれは、飯井槻さまの御陣か」
《左様にござります。御社様の御座所にございますれば》
飯井槻さまの御陣は、茅野家の家紋である【白地に大きな赤餅】を基調とした幔幕が張り巡らされ、その周りを家紋を意匠した幟を背負った幾十人の甲冑武者が二重に取り囲む、所謂水も漏らさぬ厳重な警備が敷かれている。
…のだが、しかしその厳重さがかえって今は、やたら滑稽な光景に見えて仕方がない。
「もしかして、とは思うのだがな。アレなるは飯井槻さまではなかろうかな」
《…確かにアレなるは御社様の御髪にござりまする》
二人の目に映ったのは、御陣の幔幕の隙間から、やたらこちらを伺い見るようにして〝ピコ♪ピコ♪〟と、小さくも形の良い頭を出したり引っ込めたりしている御髪の美しい可愛らしい物体だった。
「何を為されて居るのだ、アレは?」
《わかりかねます》
「我らは急ぎの赴きにて、飯井槻さまに御面会せずとも良い筈。であったな?」
兵庫介は懐から、先日茅野家から届けられた文をチラリとひょんひょろに覗かせた。
《そちらの届けられた文に書かれてありましたように、相違ございません》
であるならば、あれが飯井槻さま流の見送りなのかもしれない。
その様に、あのピコピコの意味を感じ取った兵庫介は、馬を歩ませながら兜に収まった頭だけを振って陣幕に向け、遠くとも、光沢の美しい飯井槻さまの御髪に対して手綱を緩めしっかりと深い辞儀をした。
そして、兵庫介の様子をそれと無く窺っていた供回りの近習や馬廻衆もこれに倣い、認めたちっちゃな頭に辞儀をした。
やがて辞儀の波は、急速に行軍を続ける神鹿勢全体に広がっていき、総勢五百人の首が飯井槻さまのちっちゃな頭に揃って垂られた途端。流石に照れたのか、彼女の御髪が〝ピコン!〟と跳ね上がり、サッと幔幕の内に引っ込まれてしまった。
「相変わらず、無駄に元気な姫御前様だ」
頭を上げた兵庫介は、やれやれと溜め息交じりに呟いた。そして神鹿勢の全員が同じく頭を上げ終わった時、あることに気付く。
ついさっきまで後ろを無言で付いてきていた、ひょろひょん付きの二人の侍が兵庫介の知らぬ間に姿をくらませていたのだ。
「ん?彼の者達の姿が見受けられないが?」
《あの者達でしたら、御役目にて去りました》
「あ、そう。仕事に向かったからいなくなったのね」
兵庫介の周囲に付き従っている馬廻や近習らに、いつ奴らが居なくなったのかを目配せで確認してみたが、どうやら誰も彼も、奴らが消え失せていたことに気付いてはいなかったらしい。
なるほどな。先程の辞儀の時に皆が皆、幔幕に注視した際を利用して雲隠れしやがったな。
ふむ。生半ならざる手練れどもである。
ひょろひょんもそうだが、彼等もまた、飯井槻さま手飼いの直参であろうな。
一体なんの役目を負わされて散ったのかは不明ながら、間違いなく飯井槻さまの御眼に叶った者たちであるのは一目瞭然だ。
兵庫介は、これから起こるであろう事態を予想できないまでも、面白いことが起こりそうな予感が、胸骨を抑えるように湧き出でてきていた。
「されば、及ばずながら儂も飯井槻さまが御為、季の松原で散策なり遊びなりに興じてみるか」
《国主家が二番家老であられる穂井田様が先年。深志家が策謀により一介の土豪身分まで身をやつされた事例もござりますれば、それが良いかと存じます》
「そうだな」
《総ては、御社様の御為に》
「仕った」
ひょんひょろの言葉に短く同意した兵庫介は、国主家が一番家老の添谷家の三番家老である【鱶池金三郎】が治める【棚倉盆地】に続く裏街道に神鹿勢を引き入れた。
裏街道はやがて棚倉盆地へと続く【棚倉山】の茅野家側登山口に差し掛かり、のぼり歩むうちに山の峠のやや広がりを持った木々が途切れた地に出た。
彼の眼下には、縦に長く中央に丸みを持った田穂乃平の、ろくに小川の細流とてない乾いた草原の地形が見てとれた。
草原は、集結中の各勢が鎚の音も軽やかに、人数を繰り出して野営の準備に忙しく立ち働いている。
その喧騒の中をスッと、御陣から一筋の紫煙が薄くゆっくり上がっていく。
それは、飯井槻さまが去りゆく神鹿の軍勢に向け、道中の安寧と御役目の苦難を労った、御手ずから焚かれた御香の煙の馳走であった。
「で、お前どこまで付いてくんの?」
《御役目にて、任を解かれるまでは何処までも》
「あっそうなんだ」
なんとも対応に困る、無表情な上に、何を考えておるのか分からない厄介な目付を飯井槻さまに付けられた兵庫介は、ひとり誰に云うでもなくブチブチと静かにゴチるのであった。