(7)
「事務局の人、どなり込んできますよ」
「けど、仕事をしない事務局が悪いじゃない」
「坂井先生。事務局の人が来たら私が困ります」
「……」
私が線を外したのだから自分が怒鳴られるのならいいが、杏美ちゃんが事務局から叱られたり、苦労するのでは本末転倒だ。
「電話はつなぎましょう。けど、亜美ちゃんは今日は帰っていいわ。私がやるから」
のらりくらりと受けていればなんとかなるだろう。
その時はそういう気持ちだった。
「いいんですか?」
「もう数日この調子でしょう? いいのよ」
少し杏美ちゃんの表情に生気が戻ってきたようだった。
「事務局の人が怒鳴りこんで来る前に、早く帰った方がいいわ」
繋いだとたんに電話がなった。
私は電話の対応を始めると、慌てて荷物をまとめ、研究室を出いていく杏美ちゃんを見送ることもできなかった。
細かい時間取りをしてくる会社や、ざっくりと時間を抑えてくるところ。
電話に出ているのが私だと分かると、そのまま声を録音したい、といってくるメディア。
他の研究室の回線も使えなくなり、直接部屋にきたり、電話で文句を言ってくる所員。
そうやっている間に、約束していた他社のインタビューやら写真撮りがはいる。
昼ごはんどころか、ロクに水も口に出来ない状況だった。
所内をあちこち動き周り、研究室に戻れば電話を受けていた。
現実の光景に、ソースコードが…… あの見知らぬ言語の…… スクリプトがオーバーレイしたように重ねて見え始めた。
「坂井先生、口紅直したほうが」
女の子が、気づかってくれたようで、私は少し化粧室へ逃げ込むことができた。
鏡で自分の顔を見ているのに、そこに文字が重なって表示されている。
「また、あのコード。水晶の動作」
鏡をみたまま、バッグから口紅を取り出そうとすると、手に入れた覚えのない四角いものが触れた。
ツルツルに磨き上げられたガラス?
スマフォか、と思ったが、スマフォなら左のポケットに入っている。それに表も裏も同じ感触で、その点がスマフォとは違った。
「?」
取り出してみると、本当に透明なガラス板だった。
「それとも、水晶かしら?」
取材やらテレビ番組の収録やらで、いただきものも沢山あった。
覚えていないが、もらったのかもしれない、と考えてバッグにしまった。
「ふー」
気持ちを入れ替えようと、肩の力を抜いて息を吐いた。
目的の口紅を出して、手にとって塗り直す。
そうはいっても細かく直す時間はない。
ティッシュではみ出たところを拭って、バッグを整理した。
さっきのガラス板が光ったような気がして、取り出した。
ガラス板に文字が映っている。
頭の中に浮かぶ文字と同じ。発音方法は知らないが、意味が分かる。
そして、今見ているのが表なのか裏なのかも。
トントン、と化粧室の扉が叩かれた。
「メディアの方が早く来てくれと」
「今行くから……」
苦しい…… なんだろう。
記憶の片隅にあるのと同じ苦しさ。
「先生?」
扉ごしに声が聞こえる。
目の前が白くなって、前が見えない。
スクリプトが高速でスクロールしていく。
『読め』
今? この状態で?
私は立っていられなくなった。
「坂井先生?」
急にはっきりした声が聞こえる。
何か返事をしないと、苦しい、私、苦しいんだけれど……
声が出ない。
『読め』
あなたは誰?
……苦しい。
「先生?」
「どうしたの?」
「救急車、救急車呼んで!」
「何? 坂井先生?」
「早く救急車!」
「呼んでます」
意識が薄れていくなか、女性の姿が現れた。美しい顔立ち、胸元の宝石。あの晩、私が道路に飛び出す寸前のところを、抑えてくれた人物。
その人は、光るような薄い色の髪が腰まである、長身の女性だった。どことなく、中島所長の若い頃にも思える。
現実の景色は全く白く霞んでしまっているのに…… これこそ幻覚というものだろう。
『読め』
女性が、またそう言っているのが分かる。
読めないです。
私はどうやってこの字を発音していいか、なんと読んでいいのか……
その女性は私の方を見て、睨んだ。
そのまま足も使わず、スッと私に近づいてきて、私を通り抜けていった。
気がつくと私はベッドの上で寝ていた。
腕には点滴が繋がっていて、口にもマスクがあたっていた。
重大な状況なのかは分からなかった。
もうどこも苦しくなかった。
「気が付きました?」
返事をしようとしても、口がまともに動かない。しびれているのか?
「大丈夫ですよ。寝ていてください」
看護師が言う言葉はハッキリと聞こえる。自分の意識はしっかりしている。
「ぉがぉっぁ……」
口が、喉が、正しく言葉を発せられない。
何故なんだろう。
「落ち着いてください。我々に任せて。状態は安定しています。寝ていていいですから」
手も足も同じように動かない。意識はしっかりしているのに、何もかも動かない。
このまま寝てしまったら、本当に私は……
次に起きることはないのでは?
「…がぁ…… ぁっ……」
全く動かない。
また見ている景色が白んでくる。
「っ……」
意識もぼんやりし始めた。
宙に浮いているような文字列がスクロールし始める。またあの、水晶動作のソースコード。
心配そうに見つめる女性看護師の後ろに、あの女性が立っている。
『読め』
声が出ないのに……
助けて……
次に目が覚めたのは、病院の個室だった。
蟻地獄から体が飛び出して、生き返ったような気分だった。
全く体が動かなかった、あの時の状況は脱したようだった。
しかし、告知の時に聞いたように、対処療法でしかない。根本的な治療を受けるには、巨額の医療費を用意し、長い待ち行列の最後に書き加えてもらって、手術を受けねばならない。
ベッドを起こして、上体を起こすとチャイムがなった。
「どうぞ」
ドアが開くと、上条くんの顔が見えた。
「先生……」
「坂井先生。無事で良かった」
上条くんの前に、XS証券の林取締役が割り込んで、先に病室に入って来た。
「(止めたんですが……)」
申し訳なさそうな上条くんの声が聞こえた。
ものすごい匂いのする真っ赤なバラの花束を私の足元に放り投げると、林は隣の椅子にドカッと座った。
「今、上条くんに色々やってもらってるよ」
上着からタバコを取り出すが、何か考えたようにそれを戻した。
「これは確実に特許が取れる。先生の特許だ。超高速の光ファイバー。試作ももう出来ますよ。これを武器にXS証券は新たな株取引の世界を作り上げる」
看護師が入ってきて、迷惑そうな顔をした。
「すみません、声が大きいです」
「ここは個室じゃないか。声が大きいと言われるが、壁が薄いせいじゃないのか?」
「すみません。病院なので、静かにしてもらえますか」
「分かりました。すみませんでした。」
上条くんが頭を下げた。
看護師が怒りかけたところを上条くんになだめられた格好になった。
「まあ、とにかく順調だよ。先生の水晶の棟もどんどん作っているから」
「えっ? あれは来年とかの話じゃ」
「来年じゃ遅いって。商売はスピードだよスピード。まぁ、みてなさい。半年で作らせるから」
上条くんが苦笑いしていた。
「じゃあ、元気そうで良かった。早く研究に復帰して、もっと凄い水晶の応用研究をしてくれ」
林は、上着のタバコを口に加えて、病室を出いていった。
上条くんが残った。
「ついていかないでいいの?」