(6)
記憶をなくすほど酒を飲む。
そんな事はウソだ。
いや、本当に記憶を無くした人もいるかもしれないから、言い方を変えよう。
殆どの場合ウソだ
確かに酷く飲んだ。
しかし、記憶はある。
寝ていたのを錯覚するなら、その分の記憶はない。当然だ。寝ていたのだから。
覚醒している時間が長ければ、一晩中起きて飲んでいるなら…… それはそれで記憶が交錯するかもしれない。記憶の順番と、実際の出来事順番がズレるかもしれない。
だから、記憶を無くした…… と錯覚するのだ。
つまり、昨晩のことを私は記憶していた。
杏美ちゃんにもたれかかった後、所長がタクシーを呼び止めた。
だから、だから今所長の家にいるのだ。
そして今さっき目覚めた。
今はもう朝と呼ぶには遅すぎることが分かった。
「上条くん…… ごめん」
急いで所長が寝ている部屋に戻り、バッグから自分タブレットを取り出した。
約束の時間まで、後何分もないが、やらないよりはマシという感じに、ゆっくりと契約書類に目を通した。
契約が頭に入ると、何点かの疑問が浮かんだ。
その段階で、上条くんのメールをチェックすると、同じ疑問点を的確に問い合わせていることが分かった。
「さすが」
XS証券からの回答も正にこちらの求めていた内容だった。
ほぼこれで問題はない。
後は金額…… これは今の段階では何も決まらない。
私は急いで上条くんに返信を書き始めた。
その時、スマフォが鳴った。
「ん……」
画面もロクに確認せずに応答すると、上条くんだった。
『今、お電話よろしいですか?』
「ええ」
『契約書類は確認いただけましたでしょうか?』
「今……」
『今、返信メールを書いている、んですね? 大体わかります。このままでOKか、更になにか質問するかだけ教えてください』
「午後は用事があるだもんね。OKよ。このままで問題ないわ」
『わかりました。良かったです。休日にすみません。お騒がせしました。では明日、よろしくお願いします』
上条くんはそう言って電話を切った。
「知世…… 仕事?」
所長は完全に起きてしまったようだ。
「XS証券の契約の件です」
「そう。大丈夫だったでしょう?」
「ええ。明日、回答します」
ベッドから頭だけを出した所長が、手招きをした。
「来て」
「……」
昨晩は酔っていたのと、怖くなっていたことが重なっていたせいで、体を交わしてしまったが…… お酒が抜けた今、所長の隣に行くのには勇気がいった。
ゆっくりとベッドに寄って、中に入って近寄っていく。
シーツの温もりが感じられ、眠気をさそう。
さらに近づいていくと、所長自身の体温を感じた。
「おはよう」
そう言って、所長は目を閉じて私に顔を向けた。
私も目を閉じて…… 半ばヤケ気味だった…… 唇を重ねた。
薄目を開けると、所長の年齢に反して若く張りのある肌が見えた。
舌が絡み合っていくキスの感覚と、首に回してきた手、そのせいでくっつく肌と肌の感触で、私の中で意図しない欲情が起こっていた。その一方で理性が、このまましてしまうと所長の支配から逃れられなくなる、と警告していた。
「……」
昨日のアレ、が最後。
私はそう決めた。
「あん…… 冷たいのね」
「……」
「そうそう。XS証券の話もあるから、知世に言っておくことがあって」
ベッドサイドにおいてあったタブレットを取り出す。
「ほら、これ。知世のための研究棟よ」
画面に描き出されたのは、まるでお城のようだった。シンデレラがかぼちゃの馬車に乗っていくところ。尖っていて、キラキラしている。
「これが研究棟?」
「水晶のクラスターをイメージしたものよ」
確かに柱が重なり、くっつきあったような形は水晶のクラスターをイメージさせる。
「派手すぎませんか」
「私が所長になった時、大した宣伝効果がなかった、と周りからさんざん叩かれたのよ。だから、今度何かあるときは、大げさなくらい派手なのにしてやろう、と決めていたの」
「私が所長になるわけじゃ……」
「知世が自分で思っているよりも、画期的な研究成果なのよ。XS証券と共同開発というのも話題としてはいい。加えて、この研究棟。これで研究資金が集まるわ」
ポイントはそこか…… と思った。
自分の為に研究棟を建てるというより、マスコミへの宣伝の為の投資なのだ。
「明後日。明後日は写真とるから。その雑誌にのせるインタビューも受けてもらうから」
「えっ?」
「テレビとかじゃないから怖がらなくていいのよ。この研究棟の大きなイラスト画があるから、それをバックに写真を撮って……」
「まだXS証券に回答したわけじゃ……」
「もう戻れないの。考えずに突っ走ってもらうから」
所長は体を寄せて、私の首筋にキスをしてきた。
私はタブレットを受け取り、画像を確認した。
水晶の城、そう呼びたくなるような建物が描かれていた。
研究室に入ると、疲れた顔で杏美ちゃんが振り返った。
「坂井先生…… 取材の申し込み電話が」
言っているそばから杏美ちゃんの前の電話がなる。
しばらくそれを無視して鳴らし続けている。
「メールも見切れないし、どうしましょう」
「……事務局側は何もしてくれないの?」
杏美ちゃんがうなずく。
電話の音がうるさくて、私が受話器を取った。
『居るならなんで取らないの! 取材の申し込みよ』
ガチャッ、と大きな音がして外線と繋がる。
『坂井先生の研究室ですか? 撮影とインタビューを申し込みたいんですが……』
私はスケジュールを見ながら、相手の要求に答えようとするが、ならこの時間、じゃあ、この場所で、と自分たちの主張しかしてこない。
「こちらもスケジュールがあって」
『雑誌に載せるんですよ。そっちから頭を下げるぐらいの話なんですよ』
「私は、そちらからの取材申し込みだと思っていますが」
『研究費用を稼ぐから一杯インタビューが必要なんじゃないですか? いいからこの時間に取材させてください。こちらも時間がないんです』
何なんだ、この態度は。
杏美ちゃんが疲れた顔をしていたのもうなずける。こんな感じの相手とずっと会話をしていたら、普通の人は、すぐ頭がおかしくなってしまう。
「では取材は結構ですから」
『あっ、待て、坂井先生に代われ』
「私が坂井です!」
そのまま受話器を置いた。
置いた瞬間に次の電話が鳴り始める。
「坂井先生……」
「今日もこの調子だとしたら何も出来ないわね」
杏美ちゃんがうなずいた。
「コードをはずしちゃおう」
私は電話器のイーサケーブルを外した。
音が消えた。
「良いんですか?」
「杏美ちゃんの仕事は電話番じゃないんだから」
所長が以前言っていた雑誌の取材は、テレビ局も相乗りしていたもので、その日の夕方に放送された。
まるでスーパー女性研究者が現れたかのような報道で、直後から研究室の電話がこんな状態になったのだ。
取材の前日のXS証券との契約は、何の障害もなくスムーズに終わり、翌日には上条くんが主体となって共同開発がスタートしていた。
一方で私はそんな取材攻勢で共同開発の方には上条くんを通してしてか参加できていなかった。
バッグの中から振動音がした。
「先生のスマフォじゃないですか?」
私はスマフォを取り出すと、画面には研究所と表示されていた。
杏美ちゃんに見せるようにスマフォを下げた。
「?」
「内線を取らないから、事務局から直接かかってきたんですよ」
私は拒否側へ指でスライドさせた。