(5)
そんなふうに、フラフラになりながら家につくと、ようやくソースコードが目の中から消え去った。
少しよそ行きな服に着替え、メイクも丁寧にしてから、今度は研究所の近くの店へ向かった。実験の打ち上げがある店だ。
私が店につく頃には、辺りは暗くなっていて、店の看板があちこちで光っていた。
研究所とは反対側の出口に回ると、ちょうど何人か所員や学生に出会った。
「坂井先生。実験お疲れ様でした」
「お疲れ様。本当にありがとう」
店に入ると、上条くんが近づいてきて、席に案内してくれた。本来そういうことは幹事をやっている彼の後輩がやることなのだろう。けれど、後輩に任せず、自らが上席に対して気を使ってみせるとは、抜け目がないと言うべきか、細やかな気遣いが出来る人だと思った。私が男であれば『妻』にするならこの上条くんのような人、と思うだろう。
仕切られた部屋の奥に座ると、皆の顔が良くみえた。席の取り合いに駆け引きがあるのか、徐々に埋まっていく。空いた席と席の間には、何かの緊張を感じる。
そうやってしばらく待っていると、席が全て埋まった。正確には埋まっていなかったが、毎度ののこと、として打ち上げを始めることになったのだ。
上条くんが声を上げた。
「乾杯」
最初の一口を飲んで、打ち上げが始まると、たまにある飲み会のように、近況を話したり、他愛のない会話でいきなり賑やかになった。
近くの数人が、今日、中島所長も来るような話をしている。
「上条くん、本当?」
「中島所長がいらっしゃること、ですか?」
私はうなずいた。
「佐藤も聞いていないみたいなんですよね。私ももちろん聞いてません」
「そう」
少し複雑な気持ちだった。
昨日のままの自分だったら完全に中島所長を拒否していただろう。けれど、今の自分は……
「?」
突然、飲み会の喧騒が収まった。
すぐにその原因が分かった。
XS証券の林が入ってきたのだ。
研究室の連中は誰も林の顔を知らない。私も昨日会っただけで、しっかり覚えているわけではないが、忘れるほど遠い過去のことではない。
私は、林が自分のところに来る前に、この部屋から出てもらおうと立ち上がった。
「ここじゃなんなので、あちらで話しを」
「そんなに時間はない」
「ですから、ここに入ってこられるとこまります」
変な視線が向けられている。
今までの人生で、私には男女の仲になった男は居なかったが、周りから聞こえてくる囁き声は、林をそんな風に、つまり私の男だと、思っているようだった。
「中島所長から坂井先生の研究所を建てると言われた。その費用を負担しても構わない。とにかくうちに独占的に使用権があれば……」
研究所を建てる、私の為に?
「回答の期限までには必ず回答します。お願いですから待ってください」
「早くしないと別の会社が先回りしてくる。決断してください。すばらしい性能も、早く製品化してこそ輝くというものだ」
上条くんが私の前に立った。
「ビジネスにスピードが必要なことは分かりますが、今日はお引き取りください」
「もし早められる機会があるとしたら今日なんだ」
「林様から頂いた内容をチェックしました。懸念点、疑問を問い合わせていますが……」
「ああ、さっきのメールか。それならもうとっくに返信したよ。だからここに来たんだ」
上条くんがスマフォを取り出すようなしぐさをした。
「えっ、ああ、すみません。まだメールの確認が出来ていませんでした。しかし、これは坂井先生や中島所長への確認が必要ですので、すぐに契約の話しは出来ません」
林の表情が急に変わった。
「……わかりました。それでは約束通り明後日、研究所に伺います」
そう言うと頭を下げ、すぐに部屋を出ていった。
あっという間だった。
「坂井先生。メールの件伝え忘れていてすみません。こんなに早く返信されてるとは思わなくて」
「ええ…… 大丈夫。上条くんは間違ってないから。向こうのスピードが想定より早いだけよ」
もう答えは出ていた。
私にはお金が必要なのだ。
少なくとも、今のまま研究を続けているだけではダメなことは確かだった。
「いえ、もう少しまって返信すればよかったんです。返信せずに握っていた方が時間のコントロールが出来たのに」
「だから、普通の相手じゃなかっただけよ。先に疑問点の回答がそんなに早くくるとは思わないもの」
「……」
「上条くん。お休みのところ悪いけど、ちょっと明日、時々メール見ててもらえないかな。この調子だと研究所で打ち合わせる時間がないかも」
「ええ。お昼前後なら見れますから、そこらあたりで良いですか」
「わかったわ。今日のメールチェックもだけど、休日出勤扱いにして、作業時間を請求してね」
「わかりました」
「……なんかダメね。気分切り替えましょうか」
「ゴメン、みんな! もう一回乾杯しようか?」
ーーー(9)
急に上条くんが周りに言った。
「先生ももう一度グラス持って」
見渡すと、グラスを上げた。
「乾杯!」
午前中の病院での告知が頭をよぎった。
飲めもしないグラスをグイッと傾けると、目が回り始めていた。
この時点ではただの立ちくらみだったかも知れないが、会の時間が半分を過ぎた頃には、本当に目が回っていた。
「あの時、よく測定機のスクリプトが怪しいって気づきましたね?」
「あぁ…… あれ、あれはカンよカン。おんなのカンてやつ」
「マジですか、女のカンって凄いですね」
「すごいのよぉ。スクリプトなんか一回見れば頭にはいるからぁ」
自分では正確に発音しているつもりなのだが、口や舌が伴っていないのがわかる。
「プログラムコードは大部分が論理的なのだけれど、ある部分は感情的でもあるのよぉ。わかるぅ?」
上条くんが笑いながら答える。
「なんとなくは」
「そこよ、それなのよぉ……」
自分の限界の酒量を超えている。頼んではいけないと思っていた。
「もういっぱいもらって」
「ダメよ」
後ろから声がした。
「もう飲んだらダメ。帰れなくなる前に、気持ち悪くなっちゃうから」
「しょ…… しょちょう…… じゃなくて梓じゃない。今頃おそいわよ」
中島所長は、上条くんをどかして、私の横に座った。店員を呼び止め、私の注文したお酒の変わりに何か違うものを頼んでいた。
「知世も珍しいわね。こんなに飲むなんて」
「梓ものもぉよぉ」
「……知世は帰れなさそうね」
所長の口元が笑ったように見えた。
「かえれますよ、かえれますから」
「そう言う時はダメなのよ。分かっているんだから」
店員が所長にグラスを手渡した。
「ほら、お水。飲んだほうがいいわよ」
「あぁ…… 日本酒でしょう…… 梓はいつもそうやって日本酒飲ませてたもん……」
私はグラスを右から左から眺めまわした後、上から口をつけた。
「いたらきます」
アルコールなのか、水なのかがわからなかった。
ふと、昨日の晩に現れた人物の影が見えた。
「あっ!」
現実なのか、いつものソースコードのように現実にオーバーラップしている夢なのか、全くわからなかった。部屋の先の扉から、その影が出ていった。
「待って!」
「どこ行くんですか、坂井先生」
「知世!」
後ろから大声で呼ばれるが、何故人を追って部屋を出たぐらいで騒いでいるのかわからなかった。
私はその人物の影を追い続けた。
昨日は男かと思っていたが、姿は女性のようだった。とはいえ、正面から確認したわけではなく、なびく髪が長いから女性に見えているのかもしれなかった。
昨晩の『声』は男のように低かった。
「待って!」
走っていた影は、急に立ち止まると振り返った。私は正面で向き合ってしまった。
「やっぱり女?」
美しい顔立ちと胸元の宝石。
眉間にはビンディがあるように見えた。
「インドのかた?」
そのまま手を伸ばしてきて、私の両肩を抑えた。私は
「危ない!」
杏美ちゃんの声が聞こえると、目の前の女性が消えた。
「えっ?」
大きなクラクションの音が聞こえ、大きく迂回した車が高速で通り過ぎていった。
「大丈夫ですか!」
杏美ちゃんが息を切らしてやってきて、私の手を引いた。
「坂井先生、怪我はないですか」
「知世…… 急にどうしたの」
所長の声が聞こえた。
何があったのか、ぼんやりと理解した。
おそらく、私が夢遊病のように店を出て、国道で車に引かれそうになったのだ。さっきまで見えていた女性の影は、私の幻覚かなにか。
私はそのまま目が回って、杏美ちゃんにもたれかかってしまった。