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水晶のコード  作者: ゆずさくら
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(4)

「……」

 過去のことだ。

「もう、悪ふざけはやめにしましょう」

「一度、一度だけでいいから昔みたいに……」

「救急ボタンを押しますよ?」

 私は壁についていた救急ボタンに手をかけた。

 所長の手が止まった。

 そしてその手を離して軽く頭の高さに上げた。

「降参するわ。本当に私達、昔のように戻れないのかしら?」

「……」

「ごめん。この質問は今度にする」

 所長はそう言うと、隣でシャワーを浴び始めた。

 私は手をかけていた救急ボタンを離し、シャワーのバルブをひねった。お湯が吹き出して、体についた泡が流れて消えていくまでの間、私はずっとうつむいていた。

 泣いているのを見られたくなかった。

 泣くほど、イヤだと知らせる良い機会だったかもしれない。

 いや、所長は自分の体を洗うことに夢中で、こっちのことなんて見てはない。そう。それだから私は所長との関係をやめたのだ。

 所長は体の関係が欲しいだけであって、私が、私の気持ちが必要な訳ではないのだ。

 すべてが流れきって、涙がとまったと思えた時、私はバルブを閉めて濡れた髪を後ろに撫で付けた。

「お先に失礼します」

「待って!」

 追いかけてきそうな所長を見て、私は慌てて体を拭い服に着替えた。

 急いでシャワールームを出ると、所内ですれ違う人に挨拶もせず研究所を出た。

 出た先でタクシーを捕まえると、普段乗る駅の二つ先を告げた。

 山道を飛ばしていくタクシーから、研究所の灯りが見えた。

 この研究を企業に売って、研究所から出てしまうことが出来るだろうか。私はぼんやりとそんなことを考えた。

 共同研究で、製品化し、私も今の学内の研究所から出て、その企業の研究所で働く。

 結果、中島所長の元から離れられる。

 どうだろうか。自分は、そこまでの期待をされているのだろうか。

 XS社というのがどれほどの企業だというのか。MM電気を買収したというから、おそらくそれなりにお金はあるのだろう。

 ぼんやりと考えながらタクシーを降り、電車に乗り換えた。

 バッグからタブレットを取り出すと、検索でXS社の名前を打ち込んだ。

 検索結果を見た瞬間、私は周りの視線が気になり始め、一分も見ないうちにそのタブを閉じた。

 上条くんが言っていた『XSビデオオンライン』というのは、このことだったのか。

 閉じたタブには、アダルト動画、画像がびっしりと並んでいた。

 この検索結果を見てしまうと、とてもまともな取引が出来る気がしなかった。

 電車での検索はやめ、自宅に戻ってからすることにした。

 自宅に戻ると、部屋着に着替え、パソコンのカバーを開いた。

 新しいタブの検索に『XS証券』と『林小太郎』と入力した。

 電車内で見た検索結果とは異なり、ニュースサイトの様々な記事が並べられた。

 林小太郎もかなり有名な人物らしく、インタビュー記事や批評・批判の記事がずらずら検索された。

 興味をひいたいくつかを読んでいくと、XS社はまずアダルト動画で急成長し、それが一段落するとFX(外国為替証拠金取引)の会社を立ち上げた。これもかなりの急成長をなしとげている。これらが一段落してきて、今度は証券会社、という訳だ。

「私ははたして、証券会社で働きたいのだろうか?」

 そんなことはない。

 会社としては、XS証券だとして、いざ研究する、となれば、XSの人間とは研究はしないだろう。買収したMM電気通信株式会社の研究部門と共同で作業を始めることになるはずだ。

 たしかにXSはエロだったり、博打のようなFXの会社だったりして印象は悪い。XSのガラは悪いが、反社会的なことをして儲けたわけではななそうだし、金があることは悪いことではない。ある意味、XSはスポンサーであり、実質自分が気にするべきはMM電気通信の社内の体質ではないだろうか。

 XSの検索結果を消して、『MM電気通信』と『雰囲気』とか、『体質』とかをいれて個人ブログや、ニュースサイト、匿名掲示板まで、順に見ていった。

 営業部門のずさんさや派遣社員の愚痴が並べられるばかりで、研究部門や生産部門についてはあまり情報が得られない。

 それだけ体制がきっちりして、外部に情報が出ないようになっているのか。

 そもそも活動が活発でなくて発信する能力もないのか。

「XSよりはマシか……」

 胡散臭くないだけまともなことも期待できた。

 それが分かっただけでも、気は楽になった。

 万一、研究を売り渡して、XSと共同研究、共同開発が始まれば、もう中島所長のもとにいる必要はない。

 部屋の灯りをつけていなかったことに気づき、私は立ち上がった。

 すると部屋の角に置いてある固定電話機の『留守録アリ』を示すLEDに気付いた。

「なにかしら」

 灯りをつけて、固定電話のボタンを押すと音声が再生された。

『H大学病院の愛内です。検査結果がでましたので至急(・・)来院をお願い致します』

至急(・・)ですって?」

 録音された音声に対して、聞き返してしまった。

 確かに先日、H大病院で検査をした。日頃の体調は悪くなかったが、その『至急』という言葉の意味をどう受け取っていいのか分からず、不安になった。

 言い間違えだとは思うけれど、だとしたら何故そんな言い間違いをするんだろう。

 聞いている患者がどれだけ不安になるか、考えたことはないのだろうか。

 それとも…… 本当に?

 明日は…… 明日は実験の予備日だった。今日実験は終わったから、明日は打ち上げだけだ。午前中に大学病院に行く時間はある。

 研究の行く末と、自分の体への不安。

「あっ、また……」

 不安をさらに掻き立てるように、頭の奥でソースコードが生成される。

 今日、私の頭に降って湧いたものは、まだ見たこともない文字によるスクリプト・コードだった。

 まるで現実の風景にオーバーレイして映し出されるように明確に、文字がつらなっていく。

 見たことのない文字なのに、なんの動作をするのか、なんの目的なのかがぼんやりと分かる。

 これは水晶の動作を記述したものだ。

「水晶の動作? ですって?」

 驚いてしまって、壁に向かって声を出してしまった。

 現実はすべて超巨大な電子計算機上のシミュレーションである、というウソのような話をされた事を思い出す。

『これは水晶動作のソースコード』

 聞き慣れない音が、そう言っている(・・・・・・・)

「誰?」

 一人暮らしのこの部屋に、誰がが居るわけがない。

 音として聞いた(・・・・・・・)事自体が錯覚のようなものだ。コードと同じように、頭に直接入り込んでいるようだった。音は聞き慣れないものだが、意味は分かる(・・・・・・)

『読め』

「どういうこと?」

 部屋に誰も居ないことは分かっている。私は自分に言い聞かせる為にそうつぶやいた。

『読め』

 この『水晶動作のソースコード』を読めということだ。

 この文字を、私は知らない。

 いや、違う。不思議なことに意味は分かるのだ。

 だが、これを『読む』ことは出来ない。

「出来ない」

『読め』

 ぼんやりと、そう言っている人物の影が見えそうだった。いつか見たことがある。何度か、おそらく夢の中で。

 その人物は何度も何度もそう言い続けた。

 私はコードを何度も頭の中で先頭から終わりまで何度も眺めたが『読む』ことはできなかった。動作とコードは完全に頭に思い描くことができた。

 神が現れ、神託を授かる、というのはこういうことなのだろうか。

 しかし、このスクリプトを記述して実行する環境などない。それこそ、このコードが動くのは『神の』コンピュータ上なのだろう。

「このスクリプトを実行する環境があるのかしら」

 そう思った頃、ようやく声の人物が消えた。

 私の中に現れたソースコードは、自分の心が生み出した光りや影なのだろう。今日見えたコードは、将来への不安から生み出された幻想。私はそう思うことにした。

 このベッドで寝てしまえば、もう明日だ。

 私は灯りを消して、眠りについた。



 


 実験打ち上げの飲み会に行くから一度自宅で着替えよう。私は家に向かう電車に乗っていた。行きとは違って、今はお金が必要だ。昨日までの普通に暮らす為だけにかかる金額とは違う額のお金が。

 先生の言葉がよみがえる。

『早期に手術が必要です。といってもそれを出来るのは……』

 まるでドラマね。

 私は電車の床を見つめながら笑ってしまった。

 施術を出来る医師は何人も居ず、その順番待ち。手術に掛かる金額は法外。

 向かいに座っている子供が私に向かって「へんなの」と言った。

 そのボクに『ここが病院でなくて良かったね。病院だったらお姉さんもっと変だったのよ』と言いたかった。何もないところを見て笑うくらいなんだ。私の身に起こっている事に比べれば、変でも何でもない。

「あっ……」

 また目の前の風景にコードがオーバーレイされ、加えて外の音が聞こえにくくなった。

 子供の顔の上に昨日の水晶動作のソースコードが流れるように表示された。

『読め』

 ダメ、ここは電車の中なんだから。

 私はこれが収まるのを耐えなければならなかった。今どこの駅を過ぎたとか、社内のアナウンスを必死に聞き逃さないように注意した。

 目を閉じれば見えるものが、そのコードだけになってしまう。

 出来る限り別の風景をみていないと……

 私は立ち上がって、ドアのそばに達、外の流れる風景をみた。横に流れていく風景に、重なって縦に流れるソースコードのせいで、車に酔ったように気持ちが悪くなってきた。

 何駅か過ぎた頃、繰り返し聞こえていた『読め』の声が聞こえなくなった。

 代わりに、コードのある部分にアンダーラインが引かれた。この世界での水晶の性質を表す、重要な記述のようだった。重要なのはぼんやりわかるのだが、アンダーラインを引いた意味がわからなかった。

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