(3)
「上条くんも座って、一緒に聞いて」
「林です」
上条くんにもポン、と名刺を渡した。
「ああ、XSビデオオンラインの会社ですか?」
林の顔が一瞬、気味悪い感じに歪んだ。
「やっぱり男の子ですね」
「?」
「いいえ、そんなことは置いておいて。先生の研究している水晶のファイバー、新しい水晶振動子。そこら辺を、ごっそり、全部、実用化させたいんですよ。ほら、この前うちが子会社にしたMM電気通信株式会社。そこに作らせて」
何を言っているのだろう。
今さっき、実験レベルがクリアされたばかりだというのに。いや、実験レベルがクリアされたことを知っている、というのか。
「まだ、実験をしている段階で」
「いや、もう実験も終盤のはずでしょ?」
「何故」
「別に盗み聞いたり、不正に情報を集めたわけじゃない。信用してください。確実に製品化して、相応の報酬の支払いを約束します」
「だから、何を言っているんですか。私はまだ論文を」
「そんなのんきなことは言ってられないんですよ。先生のファイバーがあれば、世界を飲み込むことが出来る。ごっそり先回りして、世界中の株を、先物取引を、全部ね」
「?」
「何を言っているか、分からなくていいんです」
さっきとは別の、もっと嫌な感じに口元が歪んだ。
「とにかく。実用化の権利を独占させてください」
「……」
「実用化しなければ、ただの論文で終わりです。実用化すれば…… 世界は変わる。本当ですよ。坂井先生。良い答えを待っています。契約書はここに入っています。それでは」
林は立ち上がると、紙コップをヒョイっと持ち上げ、グイッと一口で飲み干した。
「3日後。ここに来ます。所長にも約束をとっています。それ以上は待てません」
上条くんが慌てて先回りし、応接室の扉を開けた。
「あ、ここでいいですよ。それでは」
私は立ち上がりもせずに、林を見送った。
何の話をされたのか、もう一度整理していた。
私の研究のうち、水晶構造を持ったファイバーと、超高周波水晶振動子に興味があるようだった。それを一社で実用化したい。独占使用をしたいということだ。
正直、製品になった時のことなど考えていなかった。
「坂井先生。チャンスですよ」
「……チャンス?」
よく分からない企業に、こちらの研究成果を渡すことが?
「文面は私がチェックします。先生に不利なことがあれば必ず知らせます」
「チャンスなのかしら?」
「論文はお金には直結しませんからね。理論的にはOKでも工業製品になるまで時間がかかれば、その間に代替の技術が出来ていたりして、お金には結びつかなかったりします」
「お金……」
お金のことは考えていなかった。
必要なもののお金は十分にあったが、父の死のことを思い出すと、この世の中で、お金の必要性は嫌というほど知っていた。
「そうですよ。XSなら相当儲かっていると思います」
「そういば、上条くんはXSを知ってたみたいね」
「あっ、そうですね。はい」
その時、応接室の扉が開いた。
「坂井先生。ちょっとお話し良いかしら?」
「所長」
返事を待たずにそのまま林が座っていた席に座り込んだ。
私は椅子を回してそちらに向き直った。
「良い話だと思うんだけど」
「待ってください。XSの話でしょうか?」
「製品化、工業化は必要よ。今回の研究は理論だけで終わるものじゃない。今回のことがまとまれば研究所や大学への寄付金についても考えていただけるそうよ」
もうそんな話まで行っているのか。
おかしい、そんなに回線速度が必要な企業があるのだろうか、いったいどんなデータをやり取りしているというのだ。
「回答は3日後ということに」
「知世ちゃんは考える必要はないわ。あ、念の為、法務の方に確認させるから、私でいいから契約書のコピーを送って」
所長の問いかけに、上条くんが返事をした。
上条くんがいる前なのに、私を『知世ちゃん』と呼んでしまっている。
「中島所長、何をそんなに焦っているんですか」
「……成果が欲しくないの?」
所長は立ち上がった。
「知世ちゃん、自分の立場も考えて。もう何年もこのガラスと水晶の研究をしているのよ。成果もなしで」
怒りが混じった表情だった。
中島所長が、同じ研究室だった時のことが頭をよぎった。
中島さんに、何度も何度も呼び出されて叱られて、何回も書き直し、何度も『紙』の書類を出しにいった。
中の論旨がどうとかではない。
ページが間違っている、レイアウトが悪い、図表が悪い…… 誤字脱字、表紙のフォントが違う……
「いい、考える余地はないの。契約上問題になる部分は、契約書の修正を要求すればいい。契約を前提とします」
「……はい」
私には選択肢はない。
最初からそう言えばいいのだ。
私は立ち上がって、頭を下げた。
「坂井先生。それでは、よろしくお願いします」
扉を開けて所長は出ていった。
「……なんか、もう急展開すぎますね」
「実験が終わったばかりなのに、ごめんなさいね。上条くん」
「いいんですよ」
「この話は、明日の打ち上げでは……」
「大丈夫、話したりしませんから」
私はうなずくと、腕をテーブルにのせて、そこに頭をのせた。
「お疲れのようですね。私は研究室に戻りますが、応接室はまだ2〜3時間予約してありますから、ここに居ても大丈夫ですよ。」
「ありがとう。それじゃ私はここにいるから、何かあったら連絡して」
「はい」
そう言うと上条くんは応接室を出ていった。
この数時間で起こったことがよく理解できていなかった。
考えてた通り、ファイバに水晶構造が入ると光りの集中が減り、ファイバヒューズ:光ファイバへ高出力をかけると、突然光球が進行方向と逆へ進行し、ファイバを壊してしまう現象の発生を抑えられる。
これまでのケーブルよりは高価になるが、安定して高出力を使えるのだ。
実際の実験はこの光ファイバーと、電子回路に使う水晶振動子の構造だった。
電圧をかけると安定した周期で変形し、クロックを作れる水晶振動子だが、これを今までより簡単な構造で高クロックを取り出すようにしたものだった。
今までやってきたガラスと水晶の研究で、ものになりそうなものはこれだけだった。
その実験が上手く行き、いままで上限とされていたものの300倍もの性能が出せることが確認できた。
何ヶ月かかけた実験が終了した、その数分後に、企業の取り締まり役が来てその権利を買いにきた。トントン拍子というには早すぎる。
仕組まれている、と考えてもおかしくない。
巻き戻って実験は果たして成功だったのか、というところまで疑いたくなる。
私を騙す為に、皆が成功したように見せかけたのではないか、とすら思いはじめていた。
私は壁に向かって、声にだしてみた。
「変な考えは、やめよう」
何かある時は、こうやって壁とか天井に話し、自分に言い聞かせてきたのだ。
「実験は成功した。今日はそれだけを持って帰ろう」
私は部屋に顔を出し、帰る前に研究所のシャワールームへ向かった。
このまま電車に乗りたくなかったのだ。
汗臭かっただろうし、シャツが肌についていた。簡単に言えば、着替えてから帰りたかった。
シャワーを浴びていると、もう一人シャワーを浴びに入ってきたのがわかった。
私は髪をすすいで、体をスポンジで洗い始めると、後から入ってきた人物が、真後ろから見ていることに気付いた。
「誰?」
「知世」
そう聞こえると、いきなり後ろから抱きしめられた。
過去にもこんなことがあった。
私は目の前に回り込んだその手をとり、指についている指輪をみた。
小さなエメラルドを一文字に並べたリング。
……中島所長だった。
「びっくりするじゃないですか」
「良かった。だって驚かすつもりだったんだもん」
「もう、充分驚きました。だから、そろそろ離してください」
「冷たいこと言うのね」
私は所内での生き残りの為にしてしまった過去の事を後悔していた。
「冷たくないですよ。所長さんがこんなことしているところ見られたら、セクハラ問題になりますよ」
所長の指が、求めるように体を這ってきた。
「知世がセクハラで訴えるのかしら?」
「あっ…… わ、私が…… 私が訴えなくても、回りから見ればどういうことかは明らかなのではないですか」
もう一方の手も私の体をなでるように動かしてくる。
中島所長はそれと同時に、顔を私の耳元に近づけてきた。
「本当にイヤがっているの? 反応を見ていると、そうは思えないんだけど」