(16)
動かなくていい、と言った。
動くな、とは言われていない。いや、うごくな、とは言ったが、度胸をきめてと条件付きだ。
このままじっと座ったまま死んでしまうのはいやだ。
私は少し草木が払ってある方向へ歩きだした。
すこし歩きだすと、空気の冷たさが心地よく感じてきた。
歩いていると、木々の間に黒い木材で出来た建物が見えてきた。
そんなに距離は離れていない。
馬の歩く音や声、人の声もしない。ならば、その建物に行ってみよう。
誰もいなくて、入れるなら、入って隠れよう。私はそう考えた。
建物に近づいてくるとそれは大きなロッジだった。
いかにも別荘風だが、使われている素材が全て黒く塗られていた。
隙なく整然としており、管理が行き届いているように見えた。
入れそうにない、と私は感じた。
突き出しているベランダの下に入って身を隠そう、それならば問題ないだろう。私は下に潜りこんで、木の柱に背中を預けると、そのまま寝てしまった。
気づくと、辺りは真っ暗だった。
スマフォを見ると、夜半過ぎていた。
充電の残りは後わずか。物音は何もしない。別荘風の建物には全く灯りがつかない。不在のようだ。
ふとスマフォで地図をみると、さっきまで避暑地だと思っていたものが、研究棟のごく近所であることが分かる。
「うそ、こんな地名が」
思わず立ち上がろうとして、ベランダの床に頭を打った。
とにかくここを出よう。
避暑地ならともかく、都心で迷い込んだと言い訳するのは無理がある。スマフォで照らしながら歩いて床下を抜けると、同時にスマフォのバッテリーが切れた。
床下を抜けたとはいえ、ロッジ側からも灯りがなく、暗い庭をどうやって抜けてよいのか分からなかった。
家側に戻って門を探すしかない。
足元の起伏につまずきながら、よたよたと歩いていくと、家の反対側についた。
「そこまでだ」
首筋に冷たい金属を当てられた。
私は事態が飲み込めなかったが、両手をゆっくりと上げた。
「何のようでここに入った?」
低い、男の声ようようだった。
答えようのない質問に、どうやって答えろというのか。正直に答えるしかなかった。
「研究棟の庭を歩いていたはずだったのですが」
「研究棟? そこの大学か」
「ええ、理由はわからないんですが、迷ったようにここについたみたいです」
「残念だが、家の庭と研究棟はつながっていない」
カチャリ、と首すじに当てられたものが音を立てた。
「待って、私をどうしたいんですか? この首に当てているのはなんですか?」
「知りたいか? 知りたきゃ振り返ってみな。ゆっくりな」
腕を上げたまま回れば、もしかしたら。
私はゆっくりと体を回しはじめた。
四十五度ほど回ってから、顔をそっと後ろに向けると、首に当てられているのが猟銃のようなものだと分かった。腕を下から回り込ませて、向きを変えれば……
「そこで止まれ。見えたろう? それ以上こっちを向くならぶっ放す」
「待って待って、止まるから」
今引き金をひかれたら間違いなく頭が吹っ飛ぶ。
見えない時より、本当の猟銃だと判ったせいで恐怖が増したようだ。
「こ、殺してどうするの、何も持ってないわよ」
「不法侵入者は殺しても構わないだろう。死体は庭に埋めれば誰も探しに来ない」
「猟銃の音がすれば、死体じゃなくても警察がここにくるわよ」
「ここに警察が来たって俺には何も影響ない。俺の家でもなければ、この近所に住んでいるわけでもないからな」
「あなたも不法侵入じゃない」
馬が走ってくる音が聞こえた。
まさか、これは幻影? けれど、話している内容が甲冑の男が話しているような内容とは違う。
「たまたま俺は猟銃を持っていた。それだけの違いだな」
『その男の武器を叩き落とすから、走って逃げろ』
甲冑の男の声が聞こえた。
「さて、前戯は終わりだ。挿入といこうか」
男は急に猟銃を構え直した。
間に合わない……
ダンッ、と大きい音がして、何も聞こえなくなった。聞こえないのは死んだせいかと思ったが、目を開けると猟銃は地面を向いていた。
「なんだ? 何をした!」
『何をしている! 早く!』
私の腕をつかもうとした男の腕が、払い落とされていた。
それを見て、とにかく壁の方へ走り始めた。
まだ、この塀のどこに出口があるのか分からなかった。
とにかく壁沿いのヤブをわけて進み、必死に出口を探した。
「どこだ、クソッ」
私を探しているのか、見えない甲冑の男を探しているのかは分からなかった。
ただ、自分が奥へと進む度に声が小さくなっているのは確かだった。
足止めしてくれているのだ。
ということは…… 幻聴や幻影ではないのだろうか?
今の事実からするとそれしかない。
けれど、タクシーは壊れてはいなかった。それはどう説明する?
「あった!」
壁沿いに木製の扉があるのを見つけた。
あそこから出れるに違いない。
扉はかんぬきで閉じられていた。それを外す以外に出る方法はなかった。
持ち上げてはずそうとするが、かんぬきになる横木が腐っているのか扉が悪いのか、がっちり擦れ合ってビクとも動かない。
「誰か……」
こんなところに助けがくるわけもない。
さっきの甲冑の男が助けにきたとして、その時は猟銃男もセットでやってくるだろう。
門のサイドに背中をあずけ、かんぬきを足でおした。
『ズル……』
もしかしたら、これでなんとかなるかも。
私は片足だけでなく、両足をかんぬきにかけて蹴った。
「きゃっ」
かんぬきがはずれ、私はそのまま門の床に落ちてしまった。
『ダンッ!』
奥で大きな音がした。
音の響きが違う。おそらく、さっきのように地面に散弾を打ち込んだのではなく、どこか狙ったところに飛んだような思える。
「まさか……」
まさか甲冑の男が撃たれた?
とにかくこの隙に私は逃げよう。逃げるチャンスは今しかない。
打った背中の痛みを我慢して立ち上がると、重い門を押し開けた。
門は通りより少し高いところにあり、急いで逃げようとして階段で転んでしまった。
そのまま通りに転がり落ちると、体は泥だらけになっていた。
「!」
タクシーを呼び止めようと、手を上げた。しかし、タクシーは一切減速せずに通り過ぎた。それだけではなく、道の泥を私に向かって跳ね上げた。
「こんな汚いのに載せてくれる訳無いか……」
おそらく、タクシーはこの汚れた服をみて無視したのだ。
研究棟ならシャワーも着替えもあったはずだ。
私はタクシーで直接家に帰ることを諦め、研究棟へ走った。
「先生」
体がしびれたように動かない。
「坂井先生」
杏美ちゃんの声だった。
またいつの間にか、あの娘の体を求めてしまったのだろうか。
「坂井先生、そんなところで寝てると風邪ひきますよ」
体が動かないのは、椅子を並べてその上で寝ていたせいらしい。
上体を起こすと、テーブルの反対側に杏美ちゃんが立っていた。
「警備を入れて帰ろうと思ってたんですが、先生はどうなさいますか?」
「……」
「寝ぼけてます?」
「警備は私がセットして帰るわ、杏美ちゃんは先に帰って」
亜美ちゃんが並べた椅子を回って近づいてくる。
「先生、お先に」
顔を覗き込むようにしたかと思うと、軽い感じでキスされた。
「杏美ちゃん……」
軽い笑顔で手を振って、そのまま部屋を出ていった。
本人の気持ちではなく、こんなことを強要されているのか、と考えると、可哀想でならない。
あの日私がスマフォの画面を見たことはバレていないということだ。
亜美ちゃんがいなくなるのを確認して、警備の為に窓や扉を確認して回った。
警備機械を操作して、カードを当てた。
「警戒を開始します」
機械が音声を出した。
部屋を出ようとして開けると、
「警戒を解除します」
と聞こえた。
「?」
操作を間違えたか、と思い、警備機械を操作して、廊下に出る扉を開けると、また『警戒を解除します』と聞こえてくる。
おかしい。