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水晶のコード  作者: ゆずさくら
10/27

(10)

 助けてくれる人はいる。

 たった一人。

 私はこのまま寝るのが怖かった。

 病気、取引先の社長、頭の中に何度も現れる女性。

 全てから守ってくれるわけではないけれど……

 それでも、そう思いながら、その人に電話をかけていた。

 話し終えると、タクシーを拾って乗り込み、その人の所へ向かっていた。

 実験の打ち上げの後にも行った、あの場所に。

「退院した日に家にくるなんて、体は大丈夫なの?」

「中島所長…… 私…… もうダメです」

 部屋に入り、扉を閉めたと同時に、私は泣きついていた。

 中島所長の顔を見た瞬間に、心の中のダムが決壊した。

 自分の中から溢れ出てくるものを、抱きしめてくれる人間が必要だった。

「……何か、電話の雰囲気もおかしかったけど…… そう」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 自分が何を謝っているのか分からなかった。

 おどろくほどの量の涙が、所長のうなじに落ちていった。

 中島所長は拭いもせず、聞き返しもしなかった。

 ただずっと、抱き合っていた。

 曲げていた手が、すこししびれたころ、所長が行った。

「中に入りましょう」

 私達は体を離して、部屋に入った。

「お腹空いてる?」

 私は首を振った。

「じゃあ、お風呂入りましょうか」

 うなずいて答えた。

 中島所長がバスルームの方に行って、帰ってきた。

「聞いてもいい?」

「……」

 自分の中でも何がどうなっているのか、整理はついていなかった。

 XS証券の、林のことは言いふらしてやりたいが、共同開発をするとか、新しい研究棟を作ってもらっている立場から、言ったところでどうにかなるものではない。

 頭の中に何度も現れる女性のことは、もう現実なのか幻覚なのかハッキリしない。これも話してなんとかなるものではなかった。

 自分の病気…… その先にある死。

 私は、所長にその話しをした。

 ある病院での手術待ちのリストに入ったこと。実際の手術を受けるのにかかる金額が法外なこと。待っている時間と残された命の時間との競争であること……

「そういう手術の待ち行列って、お金で繰り上げてもらうことができるのよ」

「!」

 そういうことは考えた。

 しかし、同じことを考えている人の行列で一つ先に入れてもらう為のお金は、一体いくら掛かるのというのか。

 順番を替えたために、死ぬかもしれない他の人のことは? 他人を殺し、自分を生かす…… 人の道から外れていないだろうか。

「……」

 私は所長に体を寄せた。

「それは出来ない……」

「そう……」

「けれど、死ぬことも受け入れられない……」

「もう、そういうお金だと、思わない方がいい。初めから手術にかかるお金だとおもうしかない。リストに誰がいるか分からないのよ。知世が抜かされているかもしれないのよ」

「……」

 後はそのリストの順番を変えるだけの金額だ。

 正直、その額を返せる見込みはない。

 今、ここで言えば、中島所長は貸してくれるだろう。

 それは同時に束縛から逃れられなくなることも意味している。

 救われるならそれでいい…… そう考えるのか。

「さあ、お風呂はいろうか」

「……」

「髪、洗ってあげる」

 ドキッとした。

 所長が髪を洗ってくれた思い出。

 湯船につかりながら、仰向けに頭だけを出し、そこを洗ってくれたのだ。

 顔に少しはねたお湯が当たるだけで、頭皮と毛髪がシャワーのお湯ですすがれていく。

 指の腹で丁寧にマッサージされるように、洗っていく。

 そのまま眠りにつけたらどれだけ素敵か。

「……」

 所長の誘いに、私は小さくうなずいた。

 何もかも忘れて愛し合った。

 すべての嫌なことをわすれようとして、夢中になっていた。




「また同じ服を着るつもり? ほら、そこにあるでしょ?」

 中島所長が指差した。

 そこには以前買ってもらったバスローブが置いてあった。

 ためらわずに袖を通し、羽織った。

 所長がにっこりと微笑んだ。

 私はすこしその笑顔にゾッとしていたが、鏡に映る自分の顔は普通の笑顔だった。

 気取られてはいない。

 中島所長も体を拭うと、下着も付けずにバスローブを羽織った。

「お酒飲む? ワインしかないけど」

「ええ」

 リビングにワインを用意した。

 低くて大きなソファーに二人で座り、ワイングラスを手にとった。

「何に乾杯するの?」

「……」

「退院。そうそう。退院おめでとう」

 グラスを上げ、お互いの顔を見合いながらワインを口にした。

 お風呂で温まった体に、少し冷えたワインの温度が心地よかった。

「美味しい……」

 素直にそう言っていた。

「良かった。けど、お酒飲んでも大丈夫なのかしら」

「大丈夫です。何か食事の制限があったら聞いてるはずだし」

「まぁ、一杯ぐらいは、ね」

 私は急速に酔いが回るのを感じていた。

 さすがにこんなに体調に変化があるものなのだろうか。

 今のところ、具合が悪くなる方向ではなく、回りが速いという感じだ。

 私はグラスをテーブルに置いた。

「?」

「もう回ったみたい」

「しばらく飲んでなかったから? 大丈夫なの?」

「少し時間を置けば、きっと」

 きっと大丈夫のはず。

 その時、バッグからスマフォの振動音がした。

「あっ、電話……」

 立ち上がって取り出すと、画面に杏美ちゃんの顔が表示されていた。

「どうしたの?」

『先生、お休みのところ電話してスミマセン。あの…… 指示のあったコーディング部分で分からないところがあって……』

「えっ、どこのこと? 製品検査用のプログラムのこと?」

『ええ、そうなんです。明日は来られますか?』

「うん…… 朝からは無理だけど」

『良かった! もう分からないことだらけになっちゃって。待ってます!』

「じゃ、明日聞くから」

 通話を切った。

 所長が私を睨んでいた。

 ゾクッと、体が身震いした。

「知世、今の誰?」

「所長もご存知ですよ。杏美ちゃん…… 山田杏美さんからの電話です」

「スマフォ見せてよ」

「疑うんですか?」

「いいから」

 私は通話履歴を表示してみせた。

「杏美…… 何、この写真」

 杏美ちゃん本人の笑顔の写真だった。

「本人が送ってきたんですよ、電話帳用にって」

「それをホイホイ登録したってこと?」

「せっかく送ってきたのに悪いじゃないですか」

「登録して、見せて、その後削除すればいいじゃない」

「わかりやすいから、そのままに……」

 そうだ、思い出した。

 何故、身震いしたのか。

「うるさい! この杏美って女とどういう関係なのっ!」

 立ち上がって、胸ぐらを掴んできた。

 中島所長にはこれがあるのだ。

 忘れていたわけではない。けれど、迂闊だった。

 ここにくれば、救われるはずだった。

 杏美ちゃんの写真とかを見せれば、こんなことになるのは分かっていたはずだ。

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