(1)
私は時折、頭のなかにスクリプトが浮かぶ。
小さい頃は、それが何なのか分からなかった。
自国語は英語ではないのに、変数や命令文はすべて英語で浮かんだ。
まだ、誰にも言ったことはない。
頭に思い浮かぶままをコンピュータに入れたこともある。不思議なことにそのスクリプトはバグもなく動いてしまうのだ。
自分の中で作り上げられたものなのか、それとも本当にどこかから降ってきているのか…… それは分からない。
大学の頃…… といってもまだ大学の研究所にいるのだから、大学生の頃というべきだ。大学の学生だった時、この世のどこにもないスクリプトが頭に現れた時に、そのスクリプトが動くシステムを組んでみたこともあった。
私は化粧室で顔を洗ってハンドタオルで顔を拭っていた。
今日もやたら長いスクリプトが頭に浮かぶ。
「先生ここでしたか」
「杏美ちゃん、何かあったの?」
「実験の準備が出来ました」
「分かったわ。すぐ行きます」
廊下を歩きながら、見下ろしているようような何千行、何万行と長く、かつ、何列にもなっているスクリプトが意識の中を流れていく。
それは今回の実験で実際に使うものだった。
立ち止まって目を閉じる。左下隅にあるコードが、赤く点滅している。実際に点滅しているのではない。全体を眺めていると、違和感があるのだ。
実験室に入ると、上条くんが近寄ってきた。
「坂井先生。実験の準備が出来ました」
さっきの違和感を確かめないと、このまま実験を始めるわけにはいかない。
共同の居室の為、今月内で一定の成果を上げなければならない。というか、予算も期待もかけられてない私の研究が、学内で別の場所を与えられるとは思えない。
残りの数日が勝負なのだ。
私は実験機器が並ぶ部屋を眺めた。
測定機からのケーブルが束になってアイ・オーボードに入っている。それをコンピュータで瞬時に画像化して見れるようになっている。
違和感のあるスクリプトが動いているのは、確か……
「今日は、何倍に設定しますか?」
「……」
「計画通り実施しますか?」
違和感があるまま実行したら後悔する。
一度初めてしまえば、再度準備を整えてスタートするのにまた何時間かかかってしまう。これ以上生徒を拘束することは出来ないだろう。
「ちょっとまって」
「えっ?」
私は目をつぶって、違和感のあるスクリプトを確認した。
「測定する部分のプログラムは大丈夫? Dパートの測定機で動かすスクリプトを表示させて」
「オンラインできているものではないので、向こうに行かないとダメですね」
「分かったわ。ちょっと行ってきます」
ケーブルの束が分岐して伸びている左の先に向かった。上条くんもタブレットを胸に抱えながらついてくる。
「担当者はいる?」
上条くんがタブレットを確認している。
「水谷さん? ちょっとこの測定機のプログラム出して」
私はヤニ臭い、と思いながらその水谷の頭ごしに測定機のプログラムを目で追った。
頭の中で考えていたののと、同じ違和感。
「ここの分岐、ここの分岐の条件をちゃんと説明して。この式で判定出来る?」
「……出来ますよ」
「違うな…… 上条くん、変数の意味をもう一度正確に追って。比較演算子逆じゃない?」
「えっ……」
水谷はムッとした顔でこちらを振り向き、上条くんは慌ててコードの前後を追いかけ始めた。
「上条くんと一緒に見て、間違っているなら直して、本当に大丈夫だったら実験を始めます」
ああ、こういうキツイ言い方をしなくてもいいのに。自分でも思うことはある。
けれど、余計な気遣いの言葉を言っていると時間が無駄になってしまう。
今は時間がないのだ。
私はそのまま実験室を戻り、もといたコンピュータの前に戻った。
「杏美ちゃん、そっちの箇所は大丈夫そう?」
「温度も安定してますし、計測には問題ありません」
「そう良かった」
「先生、上条くんが……」
私はタブレットに目をやった。
『おっしゃられた通りでした。比較を逆にするだけですので、すぐ終わります』
と書かれていた。
「杏美ちゃん、了解」
私は椅子に座り、急いでタブレットで打ち返した。
『いそがないでいいから、本当に逆が正しいか、処理内容も合わせて確認のこと』
『承知しました』
私はタブレットのケースを閉じて、目を閉じた。
今回のスクリプトが全て頭に見えてくる。
違和感があったところが修正されていく…… これでコードの懸念点はなくなった。
「坂井先生」
「!」
椅子を回して振り返ると、そこには杏美ちゃんの姿はなかった。立っていたのは、中島所長の姿だった。
私はタブレットを机に放り出して、慌てて立ち上がった。
こちらを見ると、ニッコリと微笑みながら近づいてきた。
「知世、実験の進みはどう?」
「中島所長。いらっしゃいませ。実験はまだ確認事項が少しあって」
「所長ってのはやめてよ。いつもは梓って呼び捨てにするくせに」
確かに呼び捨てにしていたが、それは中島所長が呼び捨てにしてくれ、というから無理にそうしていただけだった。何故名前で呼び合いたいのか、私には理解出来なかった。
私と所長は、ふたまわりほど年齢が離れていて、中島所長の方は長年の実績を買われて、この研究所『初』の女性所長になっている。三年間も同じ研究を続け、未だにまったく成果の出ない私とは比べようもない。
「所内ですし」
所長は諦めたような顔をした。
「実験はいけそうなの?」
「もう少しで開始出来ます。最後の確認事項ももうすぐクリアになるところです」
「そう。がんばってね」
「は、はい」
急に後ろにまわられて、両肩に手を置かれた。
「そんなに肩に力を入れてはだめ。リラックスして」
所長はそのまま両肩を揉んできた。
すこしくすぐったい。
おじさんがするようなセクハラギリギリの行為に近かった。
「あ、あの、肩を揉むのは……」
「えっ、ああ、イヤだったかな。ごめんなさい。今言っていいかわからないけれど、この研究には期待しているのよ」
「……」
私には、それがお世辞なのか、嫌味なのか分からなかった。
「この実験。ある企業から共同で研究したい、という申し出があったの」
「えっ?」
私の表情を見てか、所長は何か考えたようだった。
「やっぱり終わってから話すわね。今は実験に集中して」
所長は背中を向けて扉に向かい、カードを取り出すと、さよなら、という感じにそのカードを振った。同時に、その手からエメラルドのリングがチラっと光った。
「しっかりね」
そのカードを実験室の扉に設置したカードリーダーに開けると、自動ドアが開いた。
「坂井先生」
今度は杏美ちゃんの声だった。
「上条さんの確認終わったとのことです」
タブレットを開いて、メッセージを確認した。
『上条くん。戻ってきて』
書いている間に、上条くんが戻ってきた。
上条くんは私のタブレットをちらっと覗きこんだ。
「もう戻ってますよ。さあ、どうしましょう。念の為、100倍からやりますか?」
「計画通りで行きましょう」
私はさらに続けた。
「計画通りに、最初に200倍。安定したら250、275、300倍まで試しましょう」
「分かりました」
上条くんがそう言うと、装置をスタートさせる指示を出した。
「200倍から」
「……」
何度かクリアしている実験ではあったが、今回の工夫によって、より安定的な動作が出来るはずだった。そして安定することで、300倍までの性能を発揮する…… はず、なのだ。
「坂井先生、周波数確認しました。非常に安定しています。前回の実験とは……」
「待って」
「はい」
小刻みに上下する波動が画面に描かれていた。
クロック数は現在の上限と思われているクロックの200倍。
計測が間違えなければ、だが。
このクロックを回路に流せば端で反射する。
初期の実験装置ではこの端の反射が想定より大きいせいで、マトモな結果が見えなかったことを思い出す。
「もう一度、各値をチェックして。本当に200倍出ている?」
論文に書いてから、別の研究室で追試され、ウソだの実験結果の捏造だの言われたくない。
「各自、担当分の再チェックねがいます」
慌ただしく確認が目視チェックを始めた。
メモ紙の上で軽く計算をし直す者もいた。
遠隔地にはタブレットで、再チェックの指示を与えた。