2-1
「どうですか?」
モン・スティルに怪盗リュミエールが現れてから数日後、パリを賑わす大泥棒の姿は今、ミシェルの屋根裏部屋の姿見の前にあった。
彼は黒の燕尾服にシルクハット、顔にはごてごてと装飾のついた片眼鏡という、新聞に描かれた挿絵と寸分違わぬいでたちでそこに立っている。
ただ一つ、肩から羽織った外套だけが挿絵のものとは違っていた。
夜空を切り取ったような漆黒が、星のきらめきにも似た輝きを跳ね返す外套。
その外套を翻して、怪盗リュミエール――リュシアンがミシェルを振り返った。
「うん、いい。すごくいい。思った通りだ。さすがはミミ」
「ミシェル」
すげなく訂正を入れながら、ミシェルはテーブルの上に広げた布地を畳む。余った布地を型の違う外套に仕立て、リュシアンの昔のツテを通じていつものように古着屋に流してしまえば、またもうしばらくは食べて行くことに困らないでいられるだろう。
これがミシェルとリュシアンが交わした約束だった。
「盗むのは得意」という本人の言葉通り、やっぱり堅気とは言い難い暮らしをしていたらしいリュシアン。
彼が怪盗リュミエールを名乗って同業者たちに盗まれた布や裁縫用具などを「奪い返し」、ミシェルはその見返りとしてささやかな分け前と、ミシェルが仕立てたもの――そこには彼が怪盗リュミエールとして暗躍するための衣装やトリックのための道具も含まれる――を渡す。
それしきの見返りで、どうしてここまでやってくれるのかと、初めはミシェルも不思議に思ったが、
「今まではいい服なんか買う金はないし、盗んだとしてもおおっぴらに着るわけにはいかなかったけどさ、今じゃこうやって色んなもんが着られる」
姿見の前で外套の裾をひらひらと弄びながら、満足げにそんなことを言うリュシアン。
どうやらこの男、着道楽というか、服が好きらしい。
実際、無精髭をきちんと当たり、髪を整えて小綺麗にまとめたリュシアンは、顔もスタイルも人並み以上な分、モード紙のモデルのごとくなんでも着こなしてしまう。
最近の流行に合わせて腰のところを細くした燕尾服には、中に派手なチョッキを二、三枚重ね、白いシャツの首元を飾るネクタイも小洒落た結び方にしている。これまた流行りの脚のラインが出るタイトな長ズボンも、脚がすらっと長く形もよいせいかよく似合っていた。
作る側としては、とても着せ甲斐のある人間である。
「まあ、服の方も俺に着られて喜んでるだろうけどな」
ただ、服が好きというそれ以上に、おそらく自分自身が好きなのだろうというのがたまに傷というか、もはや致命傷だが。
「……そーですか」
ミシェルはそんなリュシアンを見ながらひっそりとため息をつくが、ひっそりとするまでもなくリュシアンは気づかない。
ミシェルはこんなリュシアンのことが、正直、少し苦手だ。
できることなら、こんな人と関わり合いにならない人生が送りたかった。
己の運命を改めて呪うミシェルをよそに、リュシアンは姿見の前でにやにやしたり、なにやらポーズを決めたりしている。
「……うーん?」
だが、しばらくしてふと、何かに気づいたようにその動きを止めた。
いやな予感がした。
「あ、あのう、リュシアンさん?」
「……ボタン」
「は?」
「このボタン、この生地にはちょっと地味じゃないか?」
リュシアンが納得のいかない様子で触っているのは、外套の合わせの部分についている簡素な黒いボタンだ。あり合わせのものを使ったので、確かに高級感のある外套の布地にはいささか地味すぎるかもしれない。
神妙な面持ちでボタンに触れていたリュシアンが、ふいににやりとほくそ笑む。
「これは、怪盗リュミエールの出番かな?」
その言葉に、ミシェルはぎょっと目を剥いた。
「リュ、リュシアンさん、この間の今日ですよ!? 立て続けに警察を刺激するような真似は……!」
「ミミ!」
リュシアンはそんなミシェルを振り返ると、長い外套を翻しながらミシェルのいる窓際のテーブルのところまでやってきて、
「なっ!?」
おもむろにミシェルの前に跪き、白手袋を嵌めた長い指で恭しく手を取った。
それから一流の舞台役者顔負けの悲壮めいた表情でミシェルの目を覗き込む。
「いいかい、ミミ、奴らはちゃんと、痛い目を見るべきなんだ。目には目を、歯に歯を、っていうだろ? だったら、盗みには、盗みだ!」
「だからミシェル……って、そうじゃなくて!」
「よしっ、そうと決まれば情報収集だな」
リュシアンは仮面を外したような切り替えの早さでぱっと表情を明るくし、クローゼットに駆け寄った。狭い屋根裏部屋にはそぐわない大きなクローゼットを開くと、そこにはミシェルがリュシアンのために仕立てた服が一杯に詰め込まれている。リュシアンはそこに怪盗衣装をしまい込み、その代わりに普段着一式を素早く、しかし組み合わせはじっくりと吟味した上で取り出した。
驚くべき速さで着替えを終えると、リュシアンは小さく右手を挙げて見せ、
「というわけでちょっと出てくる。戸締りはしっかり」
「リュシアンさん!」
ミシェルが叫んだ時にはもう、彼の姿はドアの向こうに消えていた。
立て付けの悪いドアが今更バタン、と大きな音を立てて閉まるのを、ミシェルは苦々しいと同時にどこか諦観めいた複雑な表情で見送る。
こうなったらもう、リュシアンを止めることなんてできない。あの出会いからもう半年ほどが経っただろうか。彼がこういう人間だということを、ミシェルはその間に嫌という程思い知っている。
自由奔放で向こう見ず。
自信過剰でうぬぼれ屋。
飄々としているようで我が強く、一度言い出したらそれをやり遂げるまで止まらない。
そんな彼の姿を見ていると、呆れよりも、軽蔑心よりも、なぜかいつかの黒いもやもやとした感情が湧き上がってきて、胸が苦しくなる。
兼ねてより自らを悩ますこの感情の名前を、ミシェルはまだ言い表せずにいた。
「……そんなことじゃ、いつか痛い目見るんですよ」
ただ、堪えきれず一人っきりの屋根裏部屋にこぼした言葉は、確かに苦い味がした。




