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パリの街を流れるセーヌ川、そこに浮かぶ中洲の一つであるシテ島に、パリ警視庁の建物はあった。
その建物の隅の方、三日に一度は物置部屋と間違われる、粗末で手狭な一室。
それこそが、今、コランタンが所属する部署にあてがわれている部屋だった。
コランタンの机の上には、無数の書類や資料などが奇妙なバランス感覚を保って積み上げられている。
出勤したばかりのコランタンは机に着くなり、その山のてっぺんに先程買ったばかりの新聞を無造作に放り投げた。均衡を崩された書類の山がゆらゆらと揺れ、危ういところでまたピタリと止まる。
「おはようございます、コランタン警部」
その書類の山の向こうから、一人の男が顔を覗かせた。
警察組織の中ではまだ若い部類に入るコランタンよりも、さらにいくつか若い男だ。警察官の青い制服に付けられた階級章が示すのは、警部の配下に付く役割である、巡査。
彼はコランタンの部下であり、同時にこの部屋に詰めるコランタン以外のたった一人の人間であった。
「また怪盗リュミエールですか?」
「ああ」
部下はコランタンが放り投げた新聞を書類の山の上から慎重に取り上げた。殊更不思議そうな顔をしてコランタンに尋ねる。
「でも、何でまた怪盗リュミエールの事件なんかに首を突っ込んでるんです? 昨日現場に出たのだって、上層部やペイラード警部から応援を求められた訳ではないんでしょう?」
この部屋はコランタンの所属する部署に割り当てられた部屋だが、その部署に所属するのは、今現在コランタン自身とこの部下の二人きりであった。
何故なら、この部署は実質、コランタンを閑職に追いやるだけのために設立された部署だからだ。
コランタンはまだ二十代も半ばに差し掛かったばかりの年齢ながら、入庁当初からよく出来る警察官であった。加えて、たぐいまれな投げナイフの腕もある。彼が異例の早さで警部の役職に付くことは、自然なことだった。
だが彼より年上の警部たちは、自分たちよりも数段筋の良い彼を持て余し、また無意識のうちに、あるいはあからさまに、彼をやっかんだ。それは度々不和を生み、捜査活動に支障をきたした。
そんな彼を厄介払いするために興されたのがこの部署だ。
この部署に普段割り振られている仕事は、普書類書きや雑用など、ほんのささやかなものだけ。世を揺るがす重大事件や、誰もが首をひねるような難事件が起こったときには、人手欲しさに応援を求められることもあるが……そんなことはめったにあるものではない。
つまりコランタンは、極めて優秀な警察官でありながら、とんでもない閑職においやられているのであった。
しかしコランタン自身は、そのことを意に介してはいなかった。
「真実」に肉薄するには、縦の関係に囚われない立場はむしろ好ましい。
というわけで、コランタンは今日も有り余る待機時間をよいことに、様々な事件に顔を突っ込んでは、同僚たちに疎まれながらも「独自の調査」を重ねることに精を出していた。
今回、怪盗リュミエールの事件に関わっているのもその一例だ。
「確かに怪盗リュミエールはちょいとばかり世間を騒がしてはいるが、その実たかだかやり口が派手なだけの泥棒でしょう? そんな小悪党にあなたが興味を持つだなんて、思いもしなかったですよ」
感情の起伏が少ないせいか硬派に見られることが多いコランタンが、派手なばかりの事件に興味を持ったことが意外らしい。不可解な顔をする部下に、コランタンは大真面目な顔をして言う。
「ペイラード警部は、阿呆だ」
「何を今更」
コランタンの言葉は、厳しい縦社会で構成される警察組織にあるまじき暴言であったが、部下は悪びれずに肯定した。
「このまま彼が指揮を執っていたのでは、いつまで経っても怪盗リュミエールは捕まらないだろう」
「でしょうね」
「しかし、怪盗リュミエールは我々が追っている事件において重要な証拠を握っている可能性が高い」
そこまで説明されたところで、部下は何かに気づいた様子ではっと目を丸くする。
「『我々が追っている事件』、と言うと……」
「勿論、『ソレイユ事件』だ」
「……ほぉ」
頷くコランタンに、部下は細い顎を撫でた。この男もコランタンのような曲者の生贄に捧げられただけあって、歳の割に勘のいい男だ。
「言われてみれば、確かにそうだ。どちらの事件にも仕立て屋が関わっている。ただの偶然と言ってしまえばそれまでだが、怪盗リュミエールが初めてパリの街に現れたのはあの事件のひと月後。こうなれば、どうにもクサい」
部下はコランタンに、ずいと身を乗り出して畳みかけた。
「コランタン警部、そろそろオレにも教えてくださいよ、『ソレイユ事件』を今更ほじくり返している理由。訳も教えないくせに、『ソレイユ事件にまつわる資料を片っ端から集めて来るように。ただし、他部署の人間にはくれぐれも感づかれないこと』なんて、いくらなんでも横暴ですよ」
部下が机の上に山となった資料から目を切り、コランタンをまっすぐに見つめる。
「『ソレイユ事件』は事件当初こそあれこれ騒がれたが、すぐに火の不始末による失火ということで片が付いたじゃないですか。もう終わった事件でしょう?」
「事件は、終わっていない」
コランタンはその視線を真摯に受け止めて、はっきりと言った。
「……へ?」
「いや、正確には『終わらせられた』というところだろう」
「どういうことです?」
「『ソレイユ事件』の初期の捜査には私も少し関わっていた。だが、現場では決定的な証拠を得られないにも関わらず、ある日『他方面からの調査の結果』という名目で強制的に調査を打ち切られた。君の言葉を借りれば、これはあまりにも『クサい』」
「それはつまり『ソレイユ事件』の真相は誰かの思惑によって揉み消された……っていうか、ひょっとして、そこには警察も関わって……もがっ」
「結論を急ぐんじゃない」
コランタンは耳を澄ませて、自分たちの他に人の気配がないことを確かめる。
それから、とっさに塞いだ部下の口元から手のひらを離して言った。
「真実は、まだはっきりとはわからない。……だが、調べてみる価値があると、私は思っている」
コランタンの言葉に、部下が神妙な顔で頷く。
「それに」
コランタンは、資料の山から絶妙なバランス感覚で一枚の資料を引っ張り出した。
そこに書かれているのは「ソレイユ事件」で唯一の行方不明者の情報。現場となった仕立て屋「ソレイユ」の焼け跡から、死体はおろか腕一本さえ見つからなかった一人の人物。
「ソレイユ」の店主の次女で、十五歳の少女。
「我々警察官には本来、罪人を捕えるのと同時に、犯罪の影で泣いている人間を救う役目もある」
名前を、ミシェルという。




