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「いくらお金があっても、不幸になる時は不幸になる」
と、ミシェルは身を持って思い知った。
だが、それでも生きて行くためには、なにがなくとも金が必要だ。
それくらい、生来「お嬢様」として生きてきたミシェルにもわかっていた。
この時代、若い娘が一人で生きて行くことはなかなかに難しい。
しかし、そのための数少ない方法のうちの一つを、幸か不幸かミシェルはよく知っている。
お針子。
つまり、仕立て屋などに住み込んで縫い物を仕事にする娘のことだ。
と言っても、彼らに生きていることを悟られないように、極力身を潜めて暮らして行かなければいけないミシェルは、文字通りの意味でのお針子にはなれない。
しかし、若いお針子たちには、技術の他にもう一つ売り物があった。
身体だ。
少ない賃金で生活するお針子たちは、その多くが仕立て屋などで働くと同時に、パリの大学に通う良家の子息たちなどの愛人となり、小遣いを得たり、彼らの下宿に転がり込んだりするなどして暮らしていた。
彼女たちのやり口を真似れば、ミシェルもまた、なんとか生きて行くことができるだろう。
(そんなこと、お父様が知ったらなんて言うかしら)
それは生来「お嬢様」として育ってきたミシェルにとっては、ともすれば屈辱とも思えることであった。
(……けれど、お父様はもういない)
背に腹は変えられないのだ。
腹を括ったミシェルは、一張羅のドレスと、あごの長さで切りそろえた髪を整え、お針子の娘たちがよく遊びに出かけていた酒場に潜り込んだ。
その時出会ったのがあの男――リュシアンだった。
その時の彼は今とは違い、くたびれた古着を着て、やや癖のある明るいブラウンの髪はぼさぼさ。顎には無精髭まで蓄えていて、華やかさよりも荒々しく粗野な印象の方が優る、正直言っていかがわしい男だった。
ミシェルを呼び止めた彼は、長身からミシェルをしげしげと見下ろすと、
「……ちょっと付き合わない?」
かつてのミシェルの人生では聞くことのなかった、軽い調子でそう言った。
その一言で、かつてのミシェルとは違う階層に属する人間だということが分かる。
悲壮な覚悟とは裏腹に、ミシェルは思わず言葉に詰まってしまった。
「よし、決まりだ」
その沈黙を、相手は肯定と受け取ったらしい。彼はぐっ、と強引にミシェルの腕を引くと、そのまま酒場を出た。
年頃だけで考えるなら、彼はミシェルが当てにしていたような、小金を持った大学生たちと同じくらいだろう。だが、彼はたぶん大学生ではない。というか、おそらく堅気の者ですらないだろう。
言ってしまえば、治安の悪い街区で出会った酔漢に近しい部類の人種だった。だけど、その手を振りほどこうにも、自然と身体がすくんでしまいうまく動かない。
かくしてミシェルは、最悪の事態を想定しながらも彼の後ろを引きずられるようについていくことしかできなかった。
彼がミシェルを連れ込んだのは、治安の悪い街区にある彼のねぐらだ。
だが、彼は粗末な寝台の上にミシェルを座らせた後も、身体を触るでも、乱暴をするでも、ましてやそういうことをするでもなく、膝を詰めて向かい合ったミシェルを無言のまま眺めるだけだった。
「あのう……」
奇妙な沈黙にミシェルのほうが耐えかねて彼を見上げると、彼はどこか上の空のままぼそりとつぶやく。
「……いい」
そしておもむろに、
「きゃっ!」
ミシェルの身体を、寝台に押し倒した。
ついに来た、とミシェルは身体を強張らせた。
寝台の上で覆いかぶさるようになった相手の顔が、吐息を感じるほどに近い。ミシェルはその時になって初めて、相手がひどく整った顔をしていることに気がついた。
少し薄汚れてはいるけれど、せめて綺麗な顔の人でよかった。ミシェルが諦念とともに全てを受け入れる覚悟をしたその時、
「そのドレス、すごくいい」
眼前に迫った彼の唇は、確かにそう動いた。
「……は? ――って、ひゃっ!?」
一瞬言葉の意味が理解できず、両目を瞬かせるミシェルにおかまいなしで、彼はミシェルの着ているドレスの裾のフリルを引っ張った――が、けっして脱がせるわけではなく、ミシェルの身体にまたがったまま、ただただ舐め回すようにドレスを観察するだけだ。
「どこの市場で……違うな、特注品か。どこの店で仕立てたんだ? デザインも上品だし、作りも丁寧だ。生地の選び方もいい」
「わ、わたしが縫ったんです」
やっとのことで彼の下から這い出し、彼の手からドレスの裾を引き抜いてそう答えると、
「マジで!?」
彼は途端に目を輝かせ、ミシェルににじり寄った。
「きみのことを、もっと知りたい」
なんだこの男、とは確かに思った。
しかし、まっすぐにミシェルを見つめる深い翠色の瞳を見ていると、なんだか思っていたよりも悪い人ではないような気がしてくる。
だから、ミシェルはつい、彼に自分の身に起こったこと全てを話してしまった。
「ふうん」
そうしてミシェルの話を聞いた後、彼は口元に手をやって、なにか思案するような仕草を見せる。
それから、再び寝台の上で向かい合ったミシェルに尋ねた。
「質問。もしさ、きみの家族や、生活のことは難しいとしても、その、奴らに盗まれたものだけでも取り返せたとしたら、どうする?」
「取り返すって、無理ですよ」
ミシェルは卑屈に笑った。そうやって同業者たちに一泡吹かせてやれたなら、死んでしまった家族や、従業員たちの無念も少しは晴らせるかもしれない。それでも、自分がどれだけちっぽけで力のない存在か、ミシェルはあの火事以降痛いほど思い知っている。
「もしも、だよ。考えてみて」
けれど、彼は大真面目な顔をしてそう言った。さっきまでの軟派で軽薄な印象は、どこかに置き忘れてしまったかのようだ。ミシェルは気圧されるように思考を巡らせた。
盗まれたものは、言いようによっては家族たちの形見とも言えるのかもしれない。だが、盗まれたのは布や糸、ボタンに裁縫用具などだ。服や小物に仕立ててあるならまだしも、ミシェルが仕立て屋の娘だったからこそ、それはただの資材としか思えない。かつてのミシェルなら何を縫おうか考える楽しみもあったかもしれないが、裁縫をする場所どころか、住む場所さえない今のミシェルにとって、それはなんの価値のないもののように思えた。
だとすれば、
「……売って、お金にします。持って行かれたのは、父が半分見栄で仕入れていた高価なものや貴重なものがほとんどのようだから、そうしたらきっと、もうしばらくは生きていけるので」
こうするのが、一番の妙案のように思えた。ミシェルに今必要なのはとにかく当座を凌ぐ金である。
彼は納得したように頷くと、人差し指を立てて続ける。
「じゃあもう一つ質問……もし俺がその、奴らに盗まれたものを取り返すことができたら、きみは俺に服、作ってくれる?」
「服を作る? わたしが、あなたに?」
ミシェルが自分と相手を順々に指差すと、相手も順番だけを逆にして同じ仕草を繰り返す。
「そう。きみが、俺に。――俺、きみの作る服が、気に入ったんだ」
「へっ……?」
彼のその言葉に、ミシェルの胸は不意に高鳴った。
ミシェルはずっと、父親から隠れて裁縫を続けてきた。自分で服を仕立てたって、人に見せることも、着てもらうことできずに、クローゼットの肥やしにするしかなかった。
「気に入った」なんて言われるのは、生まれて初めてだ。
だから、こんな安請け合いをしてしまったのだ。
「いいですよ、いいです。あなたが本当に盗まれたものを取り返してくれるなら、服なんていくらでも作ってあげますよ。でも――」
できるわけないでしょう? そう言い捨てようとしたミシェルの言葉を、
「――よし、わかった。じゃあ、俺が奪い返してやる」
彼は事も無げにそう遮った。
「……へ?」
「俺、盗むのはちょっと得意なんだ」
「ぬす……む?」
「うん。それに、いい考えもあるんだ。きみとなら、上手くやれると思う」
ぽかん、と相手を見返すミシェルに、彼は右手を差し出し、笑って見せる。
それは見るものの心を一瞬で奪ってしまうような、あまりにも魅力的すぎる笑顔で。
「――だからさ、俺が奪い返してやるよ。きみが失くしたもの全てって訳には行かないけど、きみに手に戻る限りのものは、全部だ。ええと――ミミ」
彼の言うことはかつて「お嬢様」だったミシェルにとってあまりにも刺激的で、簡単に受け入れていいものだとは到底思えなかったが、
「……ミシェル」
それでも、差し出されたその手を、気づけばミシェルは強く握り返していた。




