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1-3

 それから数日間、ミシェルはパリの街を行くあてもなく彷徨い歩いた。


 初めは警察や、近しい知り合いを頼ることも考えた。けれど、あの夜の彼らの言葉を思い返せば、そんなことはできない。

 彼らは警察と内通しているのだ。そしてミシェルが生きていることを知れば、彼らはどんな手を使ってでもミシェルを殺しに現れるだろう。


 だからミシェルは、彼らに見つからないように人目を避け、身を隠して過ごした。昼はなにかから逃れるように路地裏を転々し、夜は拾ったぼろの下ですすり泣いた。


 そうやって見るパリは、ミシェルがいままで暮らしていた街とは全く違う顔を見せた。


 雨風をしのぐ術さえない夜の寒さは、身体だけではなく心をも蝕んだ。


 飢えや乾きが常に付きまとい、時にはゴミを漁ったことも、どぶをすすりさえしたこともあった。


 ガラの悪い男に目を付けられ、命からがら逃げのびて一日中震えて過ごすこともあった。


 そんな生活の中、ミシェルが理性を失わずにいられたのは、それでもなお、望みがあったからだ。

 ミシェルにとってのかすかな望みは、逃亡生活の中で拾う新聞記事だった。


 仕立て屋「ソレイユ」が有名店であったこと、そしてただの火事として片付けるにはやはり不審な点が多かったこともあり、ミシェルの実家で起こった火災は「ソレイユ事件」として数日間新聞紙上を賑わせていたのだ。


【怨恨? ナイフ滅多刺し ソレイユ店主の死因は、焼死ではなく刺殺】

【高級布・裁縫用具など、倉庫から数百点消失。犯人が持ち去る?】

【出火場所は裏口か? 放火の可能性高まる】


 路地の先の吹きだまりや、廃水の流れる溝の端で拾うそれに書かれているのは、ミシェルにとって目を覆いたくなるようなことばかりだった。それでも、ミシェルは祈りにも似た気持ちで新聞を探し、読み続けた。


 彼らの悪事が明るみになること、そして、彼らに相応の罰が下ることをただただ願って。


 逃亡生活とも呼べるそんな日々を過ごして、何日目か。

 治安の悪い街区で昼間から酔っ払っている男に絡まれ、無我夢中で逃げていた時のことだった。路地裏から路地裏へと飛び込み、いつの間にか自分がどこにいるのかも分からなくなっていた。


 気づけばミシェルは、ある大通りへと飛び出していた。

 図らずもそこはミシェルの家族を殺した同業者たちの一人の店の前で、店の前には一台の馬車が止まっていた。


 そして、その陰には店主――あの日、「ソレイユ」に火を放った主犯格の男だ――と、手伝いの女を連れ、豪奢な衣装で着飾った一人の夫人の姿がある。


「っ!!」

 ミシェルは反射的に、もと来た路地裏に飛び込んだ。それから、物陰にじっとうずくまって耳をそばだてる。


 聞こえてくるのは、世間話をする二人の声だ。


「『ソレイユ』でのこと、痛ましいですわね。まだ嫁入り前の娘さんもいらっしゃったのに、お気の毒だわ。あそこの店に入る特別な品を使って仕立てる服は、とても素敵だったのだけど……」

 夫人が着ているドレスの裾を撫でながら、同情的にそんなことを口にする。夫人はかつて「ソレイユ」の顧客であった。


 そんな夫人に、店主はさも訳あり風な、難しい表情を作って見せた。


「ここだけの話、あそこの店には良くない噂がありましてね」

 前置きして、夫人にそっと耳打ちする。夫人の顔がみるみる青ざめていった。

「まあ! そんな、汚らわしい。あそこの店が、そんなことをしていただなんて!」

 そう口にした時はもう、夫人は自分の着ているドレスを穢れのように睨みつけていた。


 店主がおもねるように頷く。

「きっと天罰が下ったんだって、仲間内ではもっぱらのうわさですよ」


「ええ。ええ。きっとそうでしょうね。神様はちゃんと見ておられるのだわ。ああ、なんておぞましい。――あの店で仕立てたものは全部処分してしまいます。その代わりの品を、こちらの店で仕立てていただけるかしら」

「もちろんです、奥さま《マダム》……そうそう、偶然なんですがね、うちにも最近良い品が入ったんです。あの店で扱っていたもののような、特別な品が。きっと奥さまもお気に召すことでしょう」


 そう言ってにやりとほくそ笑んだ店主が、ふとこちらに目線を向けた。

 次の瞬間、ミシェルはもつれる足でその場から逃げ出していた。


 人気のない路地裏に、ミシェルの足音だけが乱反射する。

 荒くなる呼吸の合間で、うわごとのように呟いた。


「……盗まれたんだ。全部全部、あいつらに」


 彼らが店から盗み出した品物だけではない。家族や従業員たちの命も、店の顧客も、ミシェルの日常も、未来も、全部全部。

 そして、人殺しの顔を善良な子羊の皮で隠して、彼らはあくまで被害者として生きていく。


 気づけば、ミシェルは大きな川――セーヌ川のほとりに立っていた。夕陽の橙色と夜の群青色が入り混じった空の下、強い川風が吹いている。


 その中を、誰かの手を離れてしまった新聞紙が舞っていた。

 ミシェルはそれを、無意識に掴む。


【火災の原因は火の不始末による失火。警視庁発表】


 そこに書かれていたのは、ミシェルの縋る細い望みを、完全に断ち切るものだった。


 ミシェルは黄昏の空に向けて慟哭した。


 不幸なことに、頭だけは妙にはっきりとしていた。いっそ狂ってしまえたのならば、立っていることもままならないようなこの絶望など、きっと感じなくなってしまうのに。


 あるいは、もうすべてを投げ出して、家族たちが待つところへ行ってしまえれば。


 けれど、両の目の球を焼くような怒りは、けっしてそれを許さなかった。


「……死んでなんか、やるもんか」


 確かに、最初に悪いことをしたのは父親だろう。同業者たちの中には父親の奸計に巻き込まれて大変な借金を背負ったり、大切なものを失ってしまったりした人もいるかもしれない。


 それでも、ミシェルは彼らが許せなかった。全てが彼らの思惑通りに終わってしまい、彼らがこれ以降の人生をのうのうと生きて行くなんて、認められなかった。


 だから、ミシェルは日が暮れた後、薄汚れた身体と、一張羅になってしまったあの手製のドレスを川の流れで清めた。

 それから、逃亡生活の中で拾った、お守り代わりの錆びたナイフを右手に握りしめる。


 少しの逡巡の後、ミシェルはこの生活の中、泥や埃にまみれてすっかり絡んでしまった長い髪を左手でまとめ、

「……っ!」

 ナイフですっぱりと切り落とした。


 強張った左手をほどくと、月明かりの中で、かつて父親の庇護の下、甘ったれのお嬢様でいられた頃のミシェルの残滓が風に流れていく。

 溢れかけた涙は、流れる前に手の甲で拭った。


 もう、泣いてなんかいられない。


「……わたしは、生きる。生きて、生きて、生き抜いて、そしてわたしだけでも、あいつらを永遠に憎み続けてやる!」


 ミシェルは生きていかなければいけない。そうしなければ、彼らの罪はこの世から消え失せてしまうから。

 石にかじりついてでも。神様の教えに背くことになっても。




 たとえ、一人ぼっちでも。

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