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1-2

 ミシェルはパリでも有数の有名仕立屋「ソレイユ」の次女として生まれた。


 店はきらびやかな衣装で着飾って社交界を闊歩するような顧客を何人も抱えていて、それ相応に繁盛していた。金に困るという言葉はついぞ知らず、ミシェルとその姉は幼いころこそ「お嬢様」としてなに不自由なく幸せに暮らしていた。


 しかし、そんな時間は長くは続かない。

 あるときミシェルは、「ソレイユ」の後ろ暗い事情を知ってしまったのだ。


 店主である父親が相当あくどいことをしてこの地位にのし上がったこと。


 そして、他の仕立て屋を営む同業者たちが、その所業に強い反感を抱いていること。


 ミシェルの幸せな日々は、そこで終わりを告げた。

 同業者たちの反感が、いつか悪意に変わって店や自分たち家族に襲いかかる日が来ることを、ミシェルは薄々予感していたのだ。


 胸の中に湧き上がってくる「もやもや」に悩まされるようになったのは、ちょうどその頃からだ。

 それは「未来」や「この先」のことを考えると必ず胸の中に湧き上がり、ミシェルの心臓や肺のあたりを押しつぶした。すると息が苦しいような気分になって、いても立ってもいられなくなる。


 その感覚――感情? を何と言葉で表せば良いのかなんて、幼いミシェルには分からなかった。しかしそれは確かにいつもミシェルの中に居座っていて、ふとした拍子に存在感を増して襲いかかってくる。特に、夜寝る前などはしょっちゅうだ。


 ある夜、ミシェルはたまらず、子供部屋の同じベッドで眠る二つ年上の姉にこう問いかけた。


「お姉さま、お父さまはいつか誰かに殺されたりしないかしら」

「ミミったら、何を言っているの?」

「だって、お姉さまだって知っているでしょう? お父さまが良くないことをしてこの店を大きくしたこと。お父さまを殺したいほど憎んでいる人たちは、きっとたくさんいるわ」

「なんだ、そんなこと」

 けれど姉は、そんなミシェルの手を取ると、一点の曇りもない目をして言った。


「うちにはこんなにお金があるのだもの、不幸になんてなりようがないじゃない!」


 姉はそれだけ言うと、ミシェルがなにか言い返すよりも早く、幸せそうな寝息を立てて寝入ってしまった。


「…………」

 ミシェルの胸のもやもやは、消えるどころか胸いっぱいに膨れ上るばかりである。



 そんなミシェルを慰める唯一のものが、針仕事だった。


 いつからかミシェルは店先で作業をするお針子の少女たちの真似事をして、裁縫を学ぶようになったのだ。針を動かしている間は何故だか無心になって、例のもやもやのことは忘れていられたし、自分の頭の中だけにあったものを、現実に生み出す楽しさの虜になれる。なにより長い行程を経て、なにかを作り上げたときの達成感は、なにものにも代えがたい。


 ミシェルは生まれて初めて、夢中になれるものを見つけられた気がした。

 しかし、父親は自分の娘が労働者階級のお針子たちの真似事をすることをよくは思っていなかった。


「ミミはうちのお嬢様なんだから、こんなこと出来なくたっていいんだ」

 そう言って、ミシェルから針と糸を取り上げようとした。


 だから、ミシェルは父親の目から隠れて裁縫を続けた。初めは端切れを使った小さな小物を作るのがせいぜいだったが、十歳を過ぎる頃にはドレスやシャツなどを一人で仕立てられるようになっていた。裁縫に熱中するあまり、成長して姉と別々の自室が与えられてからはどんどん宵っ張りになって行ったが、何も問題などないように思えた。


 ミシェルの予感が的中したのは、それから数年後の事だった。


 ミシェルが十五になったある日の深夜のことだ。長らく手が掛かっていたドレスが、ようやく完成した夜だった。


 会心の出来だった。舞踏会で着られるような豪奢なものではなく、ちょっとした外出に着て行けるような地味なものだが、スカートの広がり方も、裾に取り付けたフリルの描く曲線も、何もかも思った通りだった。


 だからこそ、欲が出た。


 いつもなら、自分で服を仕立てても、一度も袖を通すことなくクローゼットの奥底にしまい込んでしまうことがほとんどだった。

 父親に見つかると、色々面倒だからだ。


 しかし、それでもこのドレスを、このままクローゼットの肥やしにしてしまうのは、少し惜しいように思えた。

 出来れば一度だけでも、店に置いてあるような大きな姿見で、人の袖が通った全体像を見てみたかった。


 ミシェルはうんと悩んだ。


「……こんなに遅い時間だもの、大丈夫」

 けれどやっぱり欲望には勝てず、出来たばかりのドレスに袖を通すと、こっそりと自室を抜け出し、店舗のある一階に下りて行った。


 思えばこれが間違いだった。


「…………?」

 一階に降りたミシェルはふと、裏口のあたりから妙な物音を聞いた。


「――めぼしいものは大体持ち出せたな」

「――こんな高いもん、燃えちまったら流石に勿体ねえ」


 ミシェルはとっさにネズミか、それとも野良犬がゴミでも漁っているのだろうと思った。


 だから、安易な気持ちで裏口のドアを開いたとき、

「でも、本当に大丈夫なんだろうなっ?」

「おい、声がでけえぞ! ……警察のお偉い方にツテがある顧客に、なんとか口を聞いて貰ったんだ。それ相応の対価を渡せば、どんな証拠が残ろうと失火扱いに出来る――って、おいっ!」


 泡を食ったような怒声を合図に、裏通りの暗がりの中、何対もの瞳が一斉に自分の方を向いた。


 ミシェルはその時初めて、自分の浅はかさを思い知った。


 そこにいたのは、数人の男たちだった。それぞれ筒状に巻き取られた布地や、裁縫用具が収められた箱などを持てる限り、盗人のように卑しく担いでいる。

 しかもその顔はよく見ればどれも、ミシェルもよく知る同業者たちのそれだった。


「なっ……」

 ミシェルはそれでようやく、自分の予感がとうとう現実となってしまったことを知った。


 あの時悲鳴の一つも上げられていれば、と、ミシェルは後になって思う。だが、ミシェルが何か行動するより早く、主犯格の男――「ソレイユ」の次くらいに繁盛している仕立て屋の店主だ――が叫んだ。


「――やっちまえ!」


 その声に背を叩かれるように、同業者たちのうちの一人が、足元になにか液体――ランプ用の燃料と同じ匂いがした――を撒いた。


 主犯格の男が、手に持っていた松明を液体の上に放つ。

 瞬間、ぼっ、と音を立ててミシェルの目の前で炎が上がった。


「……え」

 本能的な恐怖が、身体を貫いた。


 ミシェルは思わず、その場にへたりこんだ。あっという間に広がった炎の壁の向こうに、同業者たちが逃げ出す姿が見える。


 ほとんど茫然自失となったミシェルの五感を刺激するのは、炎が頬をなぶる熱と、複数の人間が走り去る足音。

 それから、徐々に遠ざかって行く同業者たちの声。


「あ、あれ……あの子、なんて名前だったかな? ソレイユのとこの、下の子ですよね? ぼ、僕たちの顔、知ってるんじゃ?」


「知ってたからって、どうにも出来ねえよ。あの様子じゃ、どうせあのまま死ぬだろうしな。……でも、もし死ななかったら――こうなったら何人だって一緒だ。また、殺してやるよ」


 火柱はそのまま火勢を衰えさせることなく爆発的に燃え広がり、結局市内の一等地に構えた店舗と、その上の階の住宅部分を焼きつくした。

 この火事で店主とその家族はもちろん、住み込みの使用人やお針子たちまで、そのほとんどが命を落とすことになった。




 ――ただ一人、ほとんど無意識ながら、そばにあった窓から辛くも這い出したミシェルを除いて。

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