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【怪盗リュミエール、今宵も参上!】


「次の新月の夜、『夜の帳』を頂戴しに参上いたします」


 三日前、人気洋裁店「モン・スティル」に一通の予告状が届いた。差出人は勿論、近頃のパリを騒がせる、仕立て屋のみを標的にした大泥棒――ご存知怪盗リュミエール。今回怪盗が狙うのは、この店で扱う『夜の帳』と呼ばれる布地なのだ。


 勿論ただの布地ではない。これまで怪盗が標的にしてきたものと同じく、特別なルートから仕入れられたという超一級品。社交界のお歴々さえおいそれとは手にできないシロモノだ。


 予告状に示された日時である昨晩、パリ警視庁は「モン・スティル」に総勢三十名の警察官を配備。人海戦術によって築かれた砦は、蟻の子一匹の侵入も許さないかのように思われた。


 しかしそこは変幻自在の怪盗リュミエール、なんと警備の警察官に変装して捜査の目を欺き、無事「モン・スティル」への侵入を果たしていたのだ。


 その後も怪盗は華麗な手口で彼らを翻弄し、予告状通りお目当ての『夜の帳』を奪取。 最後は窓から軽やかに身を翻し、怪盗は今宵もパリの雑踏へ姿をくらました。


 鮮やかな手口とその身軽さに警察はもうお手上げ。前回の犯行に引き続き、またも怪盗を取り逃がすことになった。


 この件に関し、怪盗リュミエールにまつわる一連の事件の責任者、パリ警視庁ペイラード警部は「姑息な小悪党を後一歩のところで取り逃がす形になってしまったことは非常に遺憾。次こそはこのような狼藉を許さない」と苦い顔で記者に応じている。



    ☆



 近頃この界隈を賑わせる「渦中の人」を、まるで痛快活劇の主人公のように書き立てる記事を読み終えると、ミシェルは苦々しいと同時にどこか諦観めいた複雑な表情で新聞から視線を外した。


 朝の大通りに立つ新聞売りの周りには、ミシェルの他にも彼の記事が書かれた新聞を求めて老若男女を問わず多くの人たちが人垣を作っている。だが、そのほとんどが見世物を楽しむような顔をしていて、ミシェルのような表情をしている者は珍しい。


「――怪盗リュミエールが、好きなのか?」

「はあ、好きと言うか……気がかりと言うか……なんと言うか……って、へっ!?」


 耳元に聞こえてきた問いに無意識に答えてから、それが聞き覚えのない声だと気づき、ミシェルが慌てて顔を上げる。


 そこにはミシェルの手元を覗き込むように、銀髪の青年が立っていた。

 その表情は険しく、この浮かれた人垣の中ではひどく異質に見える。


「え、あ、あのう……?」


 ぽかんと相手を見上げるミシェルに、青年は眼鏡の下の氷のように冷たく鋭い瞳をすっと細めると、

「ただの盗人を英雄視など、愚かしい」

 吐き捨てるようにそれだけ言って、新聞売りにたかる人垣の中から消えて行った。


「……ええと」

 ミシェルは咄嗟に記憶を探り、

「だ、大丈夫……たぶん」

 青年の顔がその中のどの顔とも一致しないことを確かめると、やっと安堵の息を漏らした。


 彼らと関係がないならば、大丈夫。あの人は偶然ミシェルのことを世間話の相手として選んだだけなのだ。そうであれば、毛織物で縫われた質素な衣装の、ひと目でこの界隈にごまんと存在するお針子グリゼットの一人と分かるミシェルのことなど、すぐに忘れてしまうだろう。


 でも、気をつけなければいけない。


 ミシェルは抱えていた買い物袋に新聞を押し込むと、人相を隠すように巻いたスカーフを口元に引き上げ直して、足早に家路を急いだ。


 大通りから少し内に入った街区に建つアパルトマン。正面玄関とは別に構えられた裏口から建物に入り、鉄骨がむき出しの無骨な螺旋階段を延々と昇ったその七階。屋根の形にそって斜めに切り取られた屋根裏部屋の一室が、今のミシェルの住処だった。


 同形のドアが並ぶ細い通路の一番奥のドア。鍵穴に鍵をさし込んだところで、すでに鍵が開いていることに気がついた。


 立て付けの悪いドアを、ミシェルは努めて無表情に押し開ける。


 扉の中に広がっているのは、人一人住むのがやっとというような手狭な空間だった。右手に前の住人が置いて行ったらしい二人がけのソファー、左手には備え付けの質素なベッドが一台に、部屋の広さに釣り合わない大きなクローゼットと姿見が置かれている。正面の屋根に沿って斜めになった面にはパリ市街を見渡すことのできる窓があり、その前にテーブルと、椅子が二脚。


 その椅子の片方に、一人の青年の姿があった。長い足を投げ出してくつろがせ、景色を眺めるように窓の外に視線を向けている。

 が、ミシェルの存在に気づくとこちらを振り返り、ふっと微笑んだ。


「ただいま」


 不思議なほどに存在感の強い青年である。流行の線の細い女性的なタイプではないが華やかで、ただ単にすらりと背が高く、目鼻立ちが整っている以上に人目を惹く。こんなありふれた屋根裏部屋の風景も彼が収まることによって、舞台役者の演じる劇中の一場面のように見えるほどだ。表情や身のこなしにやや軽薄な印象はあるが、それすらも彼の魅力に変えてしまうような存在の確固さがあった。


 けれどミシェルはそんな青年に表情一つ変えず、頭に巻いたスカーフを取り払いながら極めて冷静な声で青年に意見する。


「リュシアンさん、今はわたしが帰ってきたところなんですけど」

「じゃあ――おかえり、ミミ。ただいまのキスは?」

「ミシェル」


 到底真顔で言えないようなことを真顔で言う青年を、ミシェルはすげなく突き放した。リュシアンと呼ばれた青年は叱られたことを理解できない子犬のようにきょとんとして、それからまたへらりと笑う。


「子猫ちゃんの名前みたいで可愛いのに」

「子猫ちゃんの名前みたいだから嫌なんです」

「ふうん」


 リュシアンは聞いているのか聞いていないのか生返事をしながら、ミシェルが抱えた買い物袋に刺さっている新聞を素早い手つきで抜いた。


「おっ、また派手に取り上げられてるじゃん」


 真っ先に眺めるのはあの「渦中の人」、怪盗リュミエールについての記事だ。


 怪盗リュミエール――半年ほど前からこのパリに現れるようになった、一人の盗賊のことだ。怪盗の名の通りれっきとした盗人のはずだが、彼に対するパリ市民の反応は本来盗人に向けられるべきものとは少し違っている。


 理由は三つ。


 一つめの理由は、彼が標的にするのは何故か一部の職種――仕立屋だけで、大部分の人間にとっては脅威にならないこと。


 二つめは、彼の犯行が聞くだけで心が躍ってしまうような、巧妙な変装や奇抜な小細工を駆使して遂行されること。


 そして三つめ。なにより怪盗リュミエールの持つ抗いがたい華やかさに、パリの人々がすっかり参ってしまっていること。


 そうして今日も、新聞社はこぞって彼の犯行を痛快活劇のごとく書き立て、市民たちはその主人公の活躍に熱狂している。


 紙面に踊るのは、闇夜に黒の外套を翻す男の姿。


 市民の目撃談を元に描かれたという怪盗リュミエールの挿絵だ。目深に被ったシルクハットと、片顔を覆い隠すように装飾が付いた片眼鏡のせいで顔立ちは窺い知れないが、自然と美丈夫を想起させるように描かれている。


 リュシアンは記事を読むというよりはその挿絵を満足気に眺めながら、なのにまるで記事の内容を知っているような口調で語り出す。


「あの制服、確かに本物に見紛うくらいのいい出来だったけど、まさかあんなに簡単に騙されてくれるとはねえ」

 少年のようにいたずらっぽく笑う彼の足元には大きく膨らんだずた袋が転がっていて、中から青い布地が覗いている。その色合いはパリ市警の警察官たちが着ている制服と妙に似通っていた。


「それに、ただ大勢で取り囲んだだけで追い詰めた気になってるんじゃあなあ。しかも警官たちを全員一か所に集めてさ。まあおかげで、楽に逃げられるわけだけど」

 今度は少しニヒルに口角を上げる。彼の身体は、シルエットは細身ながら付くところにはきちんと筋肉が付いている。二階の窓から飛び降りるくらい、造作なくやってのけることだろう。


「……ただ」

 そこまで言ったところで、リュシアンは初めて笑顔を引っ込めた。端正な顔立ちがやや不満げに歪む。


「あの警官、初めて見る顔だったけど、あいつのナイフの腕は、なかなかだな」

 そう言うとリュシアンは新聞をテーブルへ放り、足元のずた袋をごそごそやりはじめた。


 そうして取り出したのは、夜の闇に紛れるにはおあつらえ向きの黒の外套。

 その肩口が、まるで鋭利な刃物が掠めたように大きく裂けてしまっていた。


「なっ……なんですか、これっ!」

 生々しささえ感じさせる切り口に、ミシェルの血の気がさあと引いていく。


「これ、気に入ってたんだけどなあ」

「そういう問題です!?」

「そういう問題だよ。こんなに大きく裂けちゃったんじゃ、つぎはぎしても格好悪いよなあ。あーあ……」


 すっかり青ざめたミシェルをよそに、リュシアンはしょんぼりと、見るも無残な姿になった外套を掲げる。彼はそれをしばらく名残惜しそうに眺めていたが、

「でもまあ、渡りに船というか」

 すぐに気を取り直したようにまたぞろずた袋をまさぐる。


 そうして彼が取り出したのは、筒状に巻き取られた美しい布地だった。


 表面が短く起毛したビロードと呼ばれる布地で、深い黒色が光を跳ね返して艶やかに輝いている。その様子は、まるで細かい星が散らばった夜の空を切り取ったかのよう。


 まさしく、星々を胸に抱いた夜の帳。


 縫製や服飾に疎い者であっても、一目見れば「モノが違う」と感じずにはいられないことだろう。


 その布地をこちらに差し出し、リュシアンは笑った。


 彼の華やかさを象徴するような、ひどく魅力的な笑顔だった。たとえサロンに裸で放り込んだとしても、こんな風に微笑んで見せれば、マダムたちが放って置くことはないだろう。


 リュシアンはその、見るものの心を一瞬で奪ってしまうような笑顔で真っ直ぐミシェルを見据える。

「また格好いいの、作ってくれるだろ? ――俺が、怪盗リュミエールであり続けるために、さ」


 そう、何を隠そうこの人こそ、パリの夜を賑わす怪盗リュミエールその人であり、

「……ええ、そういう約束ですから」

 ミシェルはその、お針子なのである。

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