3-2
「いやー、今回ばかりは無理があるかと思ったけど、やーっぱり俺って何でも着こなしちまうんだよなあ」
お針子の女の服と、節穴の男たちの目を欺く巧妙な化粧を脱ぎ捨て、いつもの燕尾服姿になった怪盗リュミエール――リュシアンは片眼鏡の下で笑った。ペイラード警部と「プール・トゥジュール」店主が、両目をまん丸に見開き、絵に描いたような「あっけに取られた顔」をしていたからだ。
真新しい外套の裾を、見せびらかすように払って見せる。
やっぱり、ミミの作る服は最高だ。
この外套はもちろん、さっきまで着ていたお針子の女に化けるためのワンピースだってそうだ。胸の切り替えの位置を本来の場所よりも腹側に持ってくることで、長身のリュシアンであっても、スカートの下で少し身を屈めるだけで女の姿と見誤らせることが出来た。
彼女の才能には、最初に出会った時に着ていたドレスを見たときから気づいていた。裁縫の腕も、センスも、目を見張るものがある、と。
でも、実際の彼女の力は、その時リュシアンが思っていた以上に価値のあるものだった。
ミシェルの裁縫技術はいつも、リュシアンの姿をリュシアンが望むままに変化させてくれる。
リュシアンにとって、そんなミシェルと出会えたことは、僥倖以外の何物でもなかった。
「――うわあああああああああ!?」
ようやく暗闇に目が慣れてきたらしい店主が、唐突に痛切な悲鳴を上げた。
この店主はお針子の女に変装したリュシアンの姿が随分とお気に召したらしく、それなりにあしらってやるだけで楽に下準備ができた。現実を知った今、男の尊厳みたいなものが存分に傷ついていることだろう。
だが、悲鳴はそれが理由ではない。
「ああ、これね」
リュシアンは右手に提げていた小さな化粧箱を目の高さに掲げ、指先でくるりと回して見せる。
それは、先ほどまでは確かに店主の手に握られていたものだ。
「良かっただろ、羽毛と男の夢を詰め込んだ俺の胸。――でも、奪われたのは男心だけじゃ済まなかったようだな」
相手の傷口に塩を塗りこみながら、リュシアンは化粧箱の蓋をゆっくりと外す。
箱の中身は、敷き詰められた真綿に上に並ぶ、太陽をモチーフにしたいくつかの金色のボタン。
その輝きは、あたかも窓際にわだかまる黄金の陽光を、そのまま鋳型で固めたようだ。
なるほどこれは、陽光のかけらの名の他に呼びようがない。
リュシアンの口元が自然と緩む。
「間違いない。お約束通り、『陽光のかけら』は頂戴致しました」
「――そうはさせるか!」
「げっ!?」
だが、その笑みは早々に引っ込んだ。
言うが早いかコランタンがフロッグコートの胸元から投げナイフを抜いたのだ。
「うわっ! わっ!」
一閃、一閃、そして一閃。
コランタンが立て続けに放った銀色の刃は、月光をはじき返しながら寸分の狂いもなくリュシアンの足元を穿とうとする。棚と棚の間の細い通路で、リュシアンは後ろに飛び退きながらそれを間一髪躱した。天性の身体能力のなせる技だ。
――が、それさえもコランタンの思惑通りだった。
最後のナイフを飛び退いて躱した時、左肩がごつんと何かにぶつかる。
「……げ」
振り返ってそれが何か確かめると、リュシアンは大げさに顔をしかめた。
肩がぶつかったのは、壁だった。
気づけばリュシアンは、逃げ場のない壁際に追いやられていたのだ。
コランタンは自分の優位を誇示するように一歩間合いを詰め、次のナイフを挟んだ指を油断なくこちらに向けたまま告げる。
「残念ながら、ここは五階。この間のようには行かないぞ」
いや、逃げ場がないわけではなかった。
リュシアンのすぐ背後には、満月の浮かぶ夜空を透かした大きな窓がある。
ただし、コランタンの言う通り、ここは五階だ。
この間のように用意なく飛び降りれば、いくら身軽なリュシアンであってもただでは済まないだろう。
「……どうやらそのようだ」
リュシアンはコランタンの表情を一瞥すると、観念したことを示すように芝居がかった大げさな仕草で肩を竦める。
だが、コランタンは眉一つ動かさなかった。
その代わり、少し考えるような間を置いてから口を開く。
「――彼女の為か?」
彼の口から飛び出した思いもよらぬ単語に、リュシアンが両目を瞬かせる。
「……は?」
「お前が怪盗リュミエールとして盗みを繰り返すのは、彼女の為か」
その言葉に、思わず息を飲んだ。
自分とミシェルの関係が、警察にバレている?
どうやって? ――どこから足が付いた? ――いや、ブラフか? ――でも、何の意図があって?
その間、僅かに一瞬。
リュシアンはあらゆる可能性を考慮した。その問いを、どう捉えればいいのか。どう言葉を返せば正解なのか。
だがリュシアンは次の瞬間、それらの思考を一思いにうっちゃった。
そして、
「――はっ」
リュシアン――怪盗リュミエールは、笑った。
ごたごたと装飾で飾られた片眼鏡の下で、半分は無自覚に、半分は自覚的に、見るものの目にとても魅力的に映るように。
それから、舞台を踏み鳴らすように一歩前に進み出て、朗々と唄った。
「バカ言うな、全部俺の為だよ。――ただ、俺は俺であるために、怪盗リュミエールであり続けなければならねーんだっ!」
そうして後ろ手に窓を開け放つと、倉庫部屋に強く風が吹き込んだ。長い外套を大きくはためかせた怪盗の影が、背後に背負ったべっこう色の満月に映る。
逆光線の中、表情はよく伺えないが、それでもその翠色の瞳だけは、確固たる意志を孕んで強く輝いていた。
「そうか」
コランタンはそれで、怪盗の覚悟を汲み取ったらしい。
まるで怪盗に釣られたように口元を緩め、しかしそれに反して冷たい氷を思わせる青い瞳は剣呑に光る。
「ならば私は彼女の為、容赦しない!」
その宣言こそが、二人の決闘が始まる合図だった。
同時に、怪盗の姿が夜闇に消える。
「くっ!?」
コランタンが小さく呻いたときにはもう、怪盗はすでに満月の浮かぶパリの夜空へ身を踊らせていた。
「っ、逃がすか!」
躊躇のない、一閃。
コランタンの指先から放たれるのは投げナイフ。
狙いはもちろん、怪盗リュミエールだ。
一条の銀の軌跡は、怪盗が窓の向こうをまっさかさまに落下していく速度よりも速く、空間を切り裂くように真っ直ぐ奔る。
「――ッ!」
怪盗もそのことにはすでに気づいているようだった。息を飲むような声が漏れる。
だが、窓の外を落下していく怪盗は、身じろぎ一つしなかった。
「なっ……」絶句し、眼鏡の下の両目を大きく見開くコランタン。
「……へへっ」対照的に、怪盗リュミエールは不敵にも聞こえる笑い声を上げた。
……あるいは、五階という、普通の人間が用意なく飛び下りればただでは済まない高さから身を投げるしかなくなったその瞬間から、相応の覚悟を決めていたのかもしれない。そう思わせる笑い声だった。
怪盗リュミエール――その存在に、殉じる覚悟を。
そして、その覚悟は現実のものとなる。
コランタンの放った投げナイフはまるで吸い込まれるように、怪盗の身体の中心へと確かに打ち込まれた。
逆光の中、いくばくの内容物が虚空に舞い散る。
力ない怪盗の身体は、重力に従って窓枠の向こうに落下して行った。
後に残されたのは、時間が止まってしまったような静寂だ。
あまりにもあっけない幕切れを、そこにいる誰もが飲み込めていなかった。
怪盗リュミエールはこの、「プール・トゥジュール」から消え去った。
いや、それだけではない。怪盗リュミエールはもう二度と、永遠にこのパリの街に現れることはないだろう。
なぜなら、彼は――
「あ、あぁ……あ……また……ッ!」
目の前で起こったことの意味が、ようやく意識にしみ込んできたのだろう。店主が怯えきったように嗚咽する。
「ちがう、違うッ! ぼくのせいじゃない! あの時とは……あの子のときとは、関係ないんだ……っ」
がっくりと脱力して膝をつき、必死に自我を保とうとする店主。
「……ふ、ふふ……」
だがその言葉は、もはやペイラードには届いていなかった。
「すみません、ペイラード警……ブッ!」
「フハハッ! コランタンくん、よくやってくれた!!!」
腹こそが出てきているが、元々がっちりとして筋肉質なペイラードに思いっきり背中を張られ、細身のコランタンはむせった。
ペイラードは畳み掛けるに言う。
「フハッ、そう、よくやった! 命令通り、よくやってくれた! 本職の作戦が、功を奏したな!!」
ペイラードの言葉にコランタンはなにか言いたげに顔をしかめるが、肺に空気が戻り切らず声にならない。
ペイラードはその間に一つ咳払いをすると、極力威厳を保ちながら、しかし内心の快哉を隠しきれない上ずった声で、建物内で警備についている警察官たち全員に届くような大声で叫んだ。
「――総員、外へ! 怪盗リュミエールは死んだ! 彼奴の死体を確保しろ!! これは本職――ペイラード警部の手柄である!!!」