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 月のないパリの夜はすっかり寝静まっている――

「追い詰めたぞ、怪盗リュミエール!」

 ――はずだった。


 しかし、洋裁店「モン・スティル」の二階事務所には今も、パリ警視庁ペイラード警部の眠る子を叩き起こすような胴間声が響いている。


「これはこれは、ペイラード警部。今夜もご足労様」

 胴間声の矛先、暗闇の中ランタンの光で照らし出されるのは一人の男だ。筒状に巻き取られた黒い布地を小脇に抱えている。


 オペラ座の役者が、衣装のまま街中に飛び出してきたような男だ。

 仕立ての良い燕尾服にシルクハットという姿はいかにも社交界を渡り歩く紳士ダンディ然としているが、その人相は仮面舞踏会よろしく、ごてごてと装飾のついた片眼鏡で巧く隠されていて窺い知れない。長い外套マントを翻す姿は華やかだがどこか演技がかっており、見るものを彼の描く物語へと飲み込んでしまうような独特な世界観を持っていた。


「フフ、強がったってもう遅いぞ、怪盗リュミエール。貴様は完全に包囲されている。貴様にはこれまで散々手を焼かされて来たが……どうやらそれも今夜で終わりのようだな!」

 ペイラードが手で合図をすると、彼の周りに控えた青い制服の警察官たちがざっ、と一歩前に進み出てその包囲を狭める。


 怪盗リュミエールと呼ばれたその男は今、ペイラードが指揮を執る数十名の警察官たちにぐるりを包囲され、壁際に追い詰められていた。誰もがぴんと張り詰めたような緊張感を湛えていて、身じろぎ一つでもすればすぐに大勢が決してしまいそうだ。


「いやあ、それはどうかな」

 しかし、怪盗リュミエールと呼ばれたその男は、絶体絶命を絵に描いたような状況にありながら、拍子抜けするほどに飄々とペイラードに応じた。あまつさえ、きざったらしく肩をすくめて見せたりする。


「ハッ、愚かな! 貴様はもはや袋のネズミ! いつものように逃げ果せると思ったら大間違――」

 宿敵を窮地に追い込んだ興奮と、だがその相手が思ったような反応を示さない苛立ちで自然と語気が強くなるペイラード。


「――ペイラード警部」


 その言葉を、冷静すぎるせいか冷酷にさえ聞こえる声が遮った。


「……何だね、コランタン警部。今とてもいいところなのが見て分からないかね?」

 ペイラードが声の主へ振り返り、苦々しく顔を歪めて応じる。


「これは失礼」

 慇懃無礼に詫びて、コランタンと呼ばれた青年がペイラードに向き直る。


 ペイラードとは、何から何まで正反対な青年だった。


 銀の髪をした線の細い美男子で、歳もまだ二十代半ばほどに見える。もうすっかり中年と呼べる歳でやや腹の出てきたペイラードとは対照的だ。

 また年齢の割に達観した雰囲気で、眼鏡の下の冷たい氷を思わせる青い瞳からはほとんど感情のゆらぎが伺えない。直情的でかっとなりやすいペイラードとは、人種からして違っている。

 ただ一つ、ペイラードと同じなのは、他の警察官たちのように青い制服姿ではなく、私物のフロッグコートを翻しているところだけだ。


 指先で眼鏡のつるを持ち上げながら、コランタンは言った。

「ですが、ペイラード警部。彼の後ろの額縁は、私が日中下見をしたときには見当たらなかったものです」

「額縁? そんなものは君の見間違いか、あるいは君がこの部屋を離れた後に運び込まれ――」


「お、ご明察」


 訝しむペイラードの声を遮って、怪盗が明るい声を上げた。

 芝居がかった仕草でぱちん、と指を鳴らして見せ、おもむろに背後を振り返る。


 怪盗の背後の壁には、一枚の額縁が掛けられていた。縦横がそれぞれ大人の背丈ほどある大判のものであること以外は、至って普通の額縁――のように見えている。


 だが、

「よ、っと」

 怪盗はその額縁を、舞台の幕を下ろすかのように、ひらり、と一思いに引き剥がした。


「なっ……!?」

 ペイラードが息を飲む。


「絵……い、いや、布――刺繍!?」

 それは、よくよく目を凝らせば、絵画も、それを収める額縁さえも、全て木綿布の上に丁寧に縫い取られた刺繍であると分かる。しかもそれは絵の具などで描かれた平面的なものとは違い、一針一針精巧に縫い取られているせいか、絶妙に人の目を欺く立体感を持っている。


「じゃーん、逃走経路の登場だ」

 そして、その偽物の額縁の下からは、すっぽりと覆い隠されていた窓枠が姿を表す。人通りの少ない裏通りを眼下に見下ろすその両開きの窓を、怪盗は勢い良く開け放った。


 あんぐりと口を開けたまま微動だにしないペイラードをよそに、眉一つ動かさないでコランタンがひとりごちる。

「成程、新月の暗がりであれば、窓から差し込む月明かりが木綿布を透かすことはない。考えたな」


「そーゆーこと」

 怪盗は窓枠にその無駄に長い足を掛け、背中越しに彼を取り囲む警察官たちへ視線を投げる。肩に担いだ筒状の布地を見せびらかすようにちらつかせ、

「というわけで、『夜の帳』は確かに頂戴しました――っと」

 そう言って窓の向こう、寝静まったパリの街へと身を翻す。挑発された警察官たちがあっ、と声を上げその背中に追いすがろうとするが、すでに空中に身を躍らせた怪盗に迫る術を持つ者は彼らの中にはいない。


 ただし、その中でただ一人、コランタンだけは違った。

「……ふん、悪知恵と身のこなしは噂通り目を見張るものがある――しかし、いつまでもお前のような盗人の思い通りにさせるわけにはいかないッ!」


 窓枠の向こうに消えていこうとする背中に、すかさずコランタンの右手が一閃。

 瞬間、コランタンの指先から銀色の軌跡が放たれ、新月の闇夜を猛烈に切り裂いて怪盗に肉薄する。


「げっ」

 しかしその銀色の軌跡――投げナイフが身体を貫く寸前に、怪盗の野生動物じみた直感力がそれを認識した。


 空中で危うく身体をひねる。

 投げナイフが怪盗のすぐ脇をまっすぐに切り裂いたのは、ちょうどその一瞬後だった。


 銀の軌跡は、確かに怪盗に触れた。


 しかし、それは彼の動きから一拍遅れて逃げ損ねた黒い外套をかろうじてかすめただけで、その肩口にぱっくりと裂けた傷跡を残すことしかできない。


 その外套も、窓枠の下方へと姿を消す怪盗の身体とともにそのまま視界から消えていってしまった。

 こうして、怪盗リュミエールは「モン・スティル」から無事逃げ果せた。


 後に残ったのは、

「――そ、総員、何をしている! 外だ! 怪盗リュミエールを追え! 絶対に逃がすんじゃないぞ!」

 あっけにとられたような数十秒の沈黙の後、ようやく我に返ったペイラードの怒声と、勢い任せの命令の前に右往左往するばかりの警察官たち。


 そして、

「…………くそ」

 握りしめた自らの右手を見下ろして、小さく悪態をつくコランタンの姿だけだった。

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