I don't know love
6
「今も、会議をひとつキャンセルさせて来た。僕に、こんなことをさせたのは、君が初めてだよ。ここに来ないことには、何も仕事にならなくてね。こんなふうに、店にまで来てしまった。次の予定まで、もうあまり時間がないんだが、ディナーが駄目なら、ここで構わない。一杯付き合ってくれないか」
ジャスティンは、そうは言ったものの、エマを食事に誘うのを諦めた訳ではなかった。まずは、彼女の警戒心を弱めようと考えたのだ。
「あなたは、お客様ですもの。喜んでお付き合いしますわ」
エマは、礼儀正しい笑顔で答えた。
ジャスティンは、彼女が自分を完全に客として扱っていることに苛立った。エマはの動きや、言葉遣いは完ぺきだったが、ずっと見えない壁を張られている気がしていた。ジャスティンは、2人の間にある見えない壁がひどく邪魔に思えた。
「僕のことは、ジャスティンと呼んでほしい。あと、その喋り方だが、固すぎて疲れてしまうよ。君の普段どおりの話し方がいい」
こんなことを、女性に頼むなんて、あり得ない。しかし、ジャスティンの心はそれを熱望していた。
「あなたが、女性にそんなことを頼むなんて・・・。とても意外だわ」
「僕を名前で呼び、敬語を使わずに話す女性は、母と妹くらいだよ。言ったろう?君は、特別だと」
ジャスティンには、ガールフレンドはいないようようだ。エマは、そのことを、不本意にも嬉しいと感じてしまっている自分を忌々しく思った。どうかしているのは、彼だけではなく、自分も同じらしい…。ジャスティンが相手だと普段の冷静さを保っていられず、昨日から相当な努力を強いられていた。
「いいわ、ジャスティン。けど、本当に普段の私でいいの?あなた、怒って店を出ていっちゃうかも」
エマは、少し態勢を楽にすると、いたずらな笑みをジャスティンに向けた。彼の心臓は、大きく跳ね上がった。
「それが、本当の君なんだね。ベイビー」
ジャスティンは、厚い氷の層で囲われたエマが、少しだけ素の自分を見せてくれたようで嬉しかった。口元から白い歯を覗かせ、満足げににやりと笑ってみせた。エマは、そのセクシーな表情にのぼせ上がりそうになった。
ジャスティンには、ひとつ、彼女に聞きいておきたいことがあった。
「エマという名前は、君の本当の名前?それとも、ムーアでの仮の名前かな?」
エマは、今まで自分の本名を気にする客などいなかったので、突然の質問に驚いた。
「私の…名前が知りたいの?」
「無理にとは言わないよ。ただ、君には、エマという名がぴったり似合っていて、とてもいい名前だと思ったから、実際はどうなのか聞きたかったんだ」
その言葉を聞いて、エマの顔は明るく輝いた。
「エマというのは、私の本当の名前よ。この店で、本名を名乗っているのは私くらい・・・」
「そうなのかい?なぜ、君だけ自分の名を使っているんだ?」
ジャスティンが興味深げに聞いた。
エマは、その何気ない質問にたじろいだ。ここに来る客たちといえば、ほとんどがお金持ちで、自分の地位や財産、才能なんかを熱心に自慢する人ばかりだった。しかし、ジャスティンは全く違っていた。彼は、エマがこれまで誰にも話したことのないところにまで踏み込んできた。
少し迷ったが、エマは心の中の宝箱に大切にしまってあった、過去の思い出をひとつ取り出した。
「子どもの頃に、ある人が、私に言ってくれたの。名前は、親が子に与えてくれる最初の贈り物だって。悩んで、一生懸命考えて付けてくれるんだから、人生で1番の贈り物だって」
ジャスティンは、そう語ったときの、エマの天使のような美しい表情から目が離せなかった。
「名前が、親からの贈り物なんて考えたことはなかったな」
ジャスティンは、幼少の頃の、思い出せる限り古い記憶を振り返った。5歳の誕生日の記憶が蘇った。家族に庭に呼ばれ、出て行くと本物さながらの恐竜が草を食べていた。その恐竜は、小さなジャスティンに気付くと、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。ジャスティンの大好きな恐竜で、草食だと分かっていたが、目の前にすると恐怖で震え上がった。実際、食べられはせず、ジャスティンのほっぺに鼻を擦りつけると、すぐに友達になった。彼は、その日、人生で最も最高の誕生日を過ごした。
「きっと、数えきれないくらいのプレゼントを貰ってきたからよ。私が貰ったのは、このエマという名前だけなの。それでも、自分は何一つ貰ってないと思っていた私は、その言葉にすごく救われたわ…。子どもの頃のプレゼントで、あなたの1番嬉しかった物は何?」
エマは、自分の話のせいで会話が暗い方向に向いていると気づくと、明るい話題に変えようとした。ジャスティンはエマの孤独な幼少時代を想像して胸が痛んだ。彼は、父親がハリウッドの制作会社に作らせた本物そっくり恐竜とは言えなかった。迷ったが、仕方なく嘘をつくことにして、5歳くらいの男の子が貰っていそうなプレゼントを思い浮かべた。なかなかいい答えが見当たらず、少し時間がかかってしまった。
「子ども時代は恐竜に夢中だったから、恐竜のフィギュアや本なんかが最高に嬉しかったよ」
「とっても素敵ね」
どうやら、普通の答えを言えたようだ。エマの反応を見て、ジャスティンは安心した。
「その素晴らしい言葉で、幼い君を救ったのは誰なんだい?」
ジャスティンは、先ほどから、エマが語るときの、愛しそうな眼差しが気になっていた。そいつが、女性や、もしくは老人ならいい。若い男だったらと想像して、嫉妬で我を忘れそうになった。
「兄よ」
ジャスティンは、エマに兄弟がいると知って驚いた。しかし、両親のことを暗い表情で語るエマに、信頼できる兄という存在がいたことが嬉しかった。ジャスティンの中の嫉妬心は消え、すっかり安心しきってしまったので、エマのきらめく瞳の中に暗い影が落ちたことに気づかなかった。
「君には、お兄さんがいるのか。勝手に、兄弟はいないものだと思ってたよ」
そう聞かれ、エマは返事に困った。血の繋がりこそはないが兄と慕う人はいた。しかし、今はいない。世界中、どこを探しても。兄は、死んでしまったのだー
兄を失くしてから月日は経ったが、まだ、そのことを自分から話せるほど、立ち直れていなかった。
「姉もいるのよ。少し変わってて。家からは、めったに出ないの。彼女は、あまり有名ではないけど、小説家なのよ」
エマは、兄の話題からうまく話をそらしたつもりでいた。こんな風に言えば、ジャスティンは、姉のことを聞いてくるだろうと。
「小説家なんてすごいな!物語を自分で考えるなんて、尊敬するよ。君は、きっとお兄さん子だったんだね?」
また話が兄に向いたので、エマはがっかりした。
「えぇ、姉はいつも読書ばかりしていたから。ほとんど、兄と一緒にいたわね」
「やっぱりそうか。本当に、妹ってやつは、いつでも兄のあとに引っついて同じことをしようとするんだ。僕の幼少時代は、妹のフォローで終わったと言っても大袈裟じゃない」
ジャスティンは、うんざりと言った感じで話していたが、実際には、そんな風には聞こえなかった。彼の声は、とても明るく愛に溢れていた。
「全然嫌そうに聞こえないわ。妹さんが可愛くて仕方ないって感じね」
エマの頭の中に、まだ幼い頃の自分と兄の姿が浮かんだ。自分たちも、ジャスティンの兄妹像の例外ではなかった。6歳で里親に引き取られたときは、固く心を閉ざしていたエマだったが、なぜか兄にだけはすっかり心を許し、懐いていた。もしかしたら、兄は自分を疎ましく思っていたのかもしれない。
「たった1人の妹だから、つい甘やかしてしまうんだ」
こうして妹のことを話すジャスティンを見ていると、彼が、本当は愛情深い人間だというのが分かる。誰からも愛され、満たされて育ってきたのだろう。エマは、自分に与えなれなかったものを、当たり前に持っている人たちの幸せ話はあまり好きではなかったが、ジャスティンの話ならなぜか嫌な思いをせずに聞いていられた。
「あなたは、とても愛情深い人だわ。きっと、自分の周りにいる人みんなのことを、愛して、守ってあげなければ気がすまないんじゃない?」
「一部の女性達を除いて、ね」
ジャスティンが、皮肉っぽく言った。
「ジャスティン・・・。あなたが嫌う女性達にも、いろいろな事情があるのよ。育ってきた環境や、過去が仕方なくそうさせてる場合もある。もちろん、そうじゃない人もいるんだろうけど…」
「もっと早くに、君と出会っていたら、僕はここまでの酷い女嫌いにならずにすんでいただろうな。正直、もう誰かを愛すのは無理だと思うんだ。色々と、あったから・・・」
いったい、彼が過去に出会ってきた女性達は、彼に何をしたのだろう。優しい心を踏みにじり、真珠のような美しい魂に傷を浴びせてしまった。
「きっと、すぐに現れるわよ。あなたは、心から愛したいと思う人に出会えるわ」
もしかしたら、もう出会っているんではないだろうか?ここにいる女性こそが、僕の愛したい人ではないだろか?ジャスティンは、エマの言葉を聞いて、そんな風に思った。エマを、一度手にいれたら、手離すことなど出来るはずがない。出会ったばかりで、こんなにも心を奪われてしまった。
自分は、エマを愛し始めている…。
ブレイデンは、自分の感情を強烈に自覚した。
エマは、たった今自分が口にした言葉で、酷く傷ついていた。ジャスティンを励まそうと言ったつもりだったが、実際にジャスティンが誰かを愛することを想像して胸が痛んだ。
しかし、ジャスティンの愛を得るのが自分のはずはない。そんなことになったら、彼の心を更に傷つけてしまうだろう。
自分には、愛が何かすら分からないのだか。
ジャスティンの、携帯が鳴った。
「くっそ、すっかり時間を忘れていた!」
彼は、急いで電話に出ると、すぐに切り、立ち上がった。
「もう行かなくては…」
ジャスティンが名刺を差し出した。
「僕の携帯番号だ。いつでも構わないから、連絡してくれ」
エマが、名刺を受け取ろうと手を伸ばしたとき、彼の温かい手がかすかに触れた。電流のようなピリピリとしたものがお腹の方にまで伝ってきた。エマの手は震え、立っていられないほどの衝撃を感じた。
ジャスティンも、エマと同じような困惑した表情を浮かべ、彼女を見つめていた。一瞬、ふたりの間の時間が止まり、壁もなくなった・・・。
ジャスティンの顔が、だんだんと近づいてきて、唇がすぐそこまで迫ってきた。エマは、ゆっくりと息を呑んだ。鼻と鼻が触れ会う寸前で、ピタッと動きを止め、そのまま話し始めた。
「もう行くよ、楽しい時間をありがとう」
彼が吐きだした熱い息が、エマの顔を包んだ。誘惑に屈し、目を瞑りそうになった自分を戒めた。足早に去っていくジャスティンの後ろ姿を、燃え盛るグリーンの瞳で見つめ続けた。