第6話 二胡と凶刃
シューミッテ男爵領の行政の中心である領主の城は、領内最大級の町シュラークにあった。最大級といっても、もともとがそう大きくない領地である。シュラークも周りを麦畑に囲まれた、こじんまりとした城下町であった。
そのシュラークにほど近い場所にミュラーの丘と呼ばれる小高い丘がある。そこからは黄金色に輝く麦畑とシュラークの街並み、そして遥か彼方へと続く地平線を一望することができた。
今回男爵家主導で開かれる昼食会はこのミュラーの丘で行われることとなっている。
侯爵側からの会談の要請を受け、レオグルの意見を全面的に受け入れた結果、会談は昼食会という名へと変わり、今日この場で行われる運びとなった。
そしてそのことはすぐさま協力者の手でジュラたちの元へも伝えられ、すでに彼らはここからほど近い場所で息を潜め、侯爵や、男爵たちの一行を待ち受けていた。
「の、のど……渇いた……」
「緊張しているからだろ? 俺だってそうだよ」
緊張感と、熱気とに包まれる部屋。中には数人の男たち……
馬車で移動しているはずの侯爵たちより、なぜジュラたちの方が早くこの地にたどりついたかというと、それには二つの理由があった。
一つは、侯爵が視察を名目にこれまでと変わらないゆっくりとした足並みでこの地を目指した事。ただし安全を考慮し、男爵側からの護衛の兵を伴っての行軍であり、夜は必ず途中の町で宿を取った。
もう一つの理由は政治的なもの。男爵側としては急遽決まった昼食会の準備の時間が必要だった事と、男爵領の兵士が侯爵を守っているという図式は、領地の内外へのアピールにうってつけだったのだ。その為男爵は必要以上に準備の時間を取り、その分侯爵の到着が遅れたのだ。
その結果、ジュラたちは侯爵達よりも先に、しかも余裕をもって集まることができた訳だ。
そのジュラたちが潜んでいるのは、ミュラーの丘を挟んでシュラークの反対側にある集落。
この地はシュラークに近いこともあって、男爵やレオルグだけでなく、シュラークに屋敷を構える町の有力者からも度々迫害を受け、虐げられてきた地である。当然支配階級への不満は大きく、そんなこの地の住民たちが、ジュラ達を匿っているのだった。
もちろん中には後の報復を恐れるあまり、ジュラたちのことを良く思わない者もいた。それらの人達には、ジュラたちの身に起きたことを聞かせ、時にはケーニッヒが説得して、非協力的な協力。つまり見て見ぬふりをしてもらっているのだった。
「なぁケーニッヒ、お前何かあったか?」
藁が高く積み上げられた倉庫の一角で、息を潜めて隠れているジュラとケーニッヒ。皆それぞれが思い思いの過ごし方でその時を待っていた。
「どうしたのさ? 急に」
「ん……なんとなく雰囲気変ったっていうか、人が変わったみたいだなって思ったんだが……」
そういうジュラからはいつの間にか荒んだ殺気の様なものは無くなっている。
「それを言うならジュラだって変ったじゃないか。色々と……なんか今は怖くないし」
「…………怖かったか?」
「正直……ね」
「そっか」
少し前までのジュラは本当に怖かった。ユラのことがあって、集落長のことがあって……弟のケーニッヒですら近付きづらかった。なんか別人に、急に知らない人になってしまったかの様で……それが何より怖かった。
「今は俺のことよりお前のことだろ? 何て言うか……芯が一本通ったみたいでさ。何か急に俺の知らない奴になってしまったようでちょっとびっくりしたり……しなかったり?」
「はは…どっちだよ?」
ジュラのその言葉に思わず笑ってしまうケーニッヒ。兄とそんな話をするのは久し振りな気がした。
「僕は思い知ったっていうか、思い知らされたっていうか。自分は何もしてこなかったなって」
「どういうことだ?」
片眉をあげ、訝しげにジュラが問い返してくる。
「そのままの意味でさ。ジュラ達が行動した時も僕は何もできなくて。良いとも悪いとも言えずにただ黙って見てて……それから何とかしてくれそうな人に泣き付いて、頼み込んで……」
結局ケーニッヒがしたことと言えばそれだけだった。自分は常に安全なところにいて、人に頼んで、駄目だったらなんでだって相手を罵る。
「自分が行動しないと、真実誰も助けてくれない。それを思い知った。少しだけ君が羨ましかった。すぐに行動できる君が……」
こんなことを人に話したのは初めてだ。でもすんなりと言葉にすることができた。
「俺は、逆のこと思ってたけどな」
ふと、ジュラが呟く。
「え?」
死線を向けるケーニッヒに、ジュラは少しだけ自嘲気味に笑った後、話し始める。
「俺はお前みたいにちゃんと考えた上で動くって出来ないからな。つい考える前に動いて、それで後から後悔するんだ。ほんとに良かったのかって?」
「後悔してるってこと?」
「後悔はしてない。ただ……ふと冷静になった時恐ろしくなった。俺の怒りに巻き込んで、集落の皆や、親父や、知らない他の集落の奴らを危険な目にあわせて、ほんとにそれでいいのかって」
そう考えたとき、彼は急に自分がものすごく身勝手な人間なのではないかと思った。
「もちろん怒りはまだしっかりとある。夜も眠れないぐらいのがな! 憎しみも……なんでユラがって憤りも」
そこでジュラは一度言葉を切り、目を閉じ、唇を噛みしめる。おそらく湧き上がってくる感情を抑え込んでいるのだろう。しばらくそうした後、再びジュラは話し始めた。
「……もし、このまま行って、ここにいる誰かが怪我を負ったとしたら。命を落としたとしたら……俺にそんなもんが背負えるのかって……」
そんな当たり前なことにようやく気付いた。けれど気づいた時には遅かった。いつもと同じ。今更やめるとも言えなかった。
今はまだ男爵に知られてはいないのだろう。でも時間が経つと必ずどこからか漏れて伝わってしまう。そうなった時、責を負わされるのがジュラだけとは限らない。
「僕だってそうだよ。というか、侯爵に攻撃を……って嗾けたのは僕だろ? てことは悪いのは僕じゃないか」
「いや、それ――」
「それが嫌なら!」
慌てて何か言い募ろうとするジュラを遮ってケーニッヒは言い放つ。まだ幼かったころ、新しい悪戯を思いついては、ジュラに自慢げに話していた時の得意げな笑みを浮かべて。
「僕らは共犯だ」
「――共犯か……」
「ああ、共犯」
「いいな、それ!」
そしてジュラもまた幼き頃そうしたように、にっと無邪気な笑顔を浮かべて見せる。ほんのり瞼に光るものを浮かべて。
「うわっ……酷い顔!」
「なんだとっ!!」
ただし、ジュラの成長した顔ではかなり男臭い笑みだった。それでもその笑顔は、ケーニッヒが久々に見たジュラの心からの笑顔だった。
◇◇◇
草原を吹く風に乗って二胡の優しく、柔らかな音色がゆっくりと虚空に溶け込んでいく。その少女が弦を弓で弾き、細長い指で爪弾く度に新たな音が生まれる。そしてその音が虚空に消えては、また新たな音が生まれる。それは単なる音の羅列にあらず……
時に緩やかに、時に力強く、時に切なげに、時に色っぽく……千差万別に姿を変え、しかしそれらは決して独立しているわけではなく、絶妙に絡み合い、溶け合い、一つの音楽を作り上げる。その妙なる調べは間違いなく極上の芸術品であった。
「すばらしい……いやはや、まさかここまでの腕前でいらっしゃるとは……感服仕りました」
そう言って少女に最初に近づいたのは、この昼食会の主催者、シューミッテ男爵領領主その人であった。それにもう一人、人影が続く。
「私も思わず惚れ惚れと聞き入ってしまいました。いや、本当に素晴らしい。できれば是非、今度は私の為だけに弾いていただきたいぐらいだ」
そう言ってさり気なく少女の手を取るのはその息子レオルグ。少女は言うまでもなくラウルの一人娘ニーナであった。
「あ、ありがとうございます。その……うれしいです」
俯き気味になり、消え入りそうな声で答えるニーナ。その頬は赤色に色付いている。
「いや、そんな御姿も実に可愛らしい」
すかさずレオルグがおべっかを使う。レオルグにしてみれば、この少女は自身に栄華をもたらす金の卵なのだ。
この少女が自分のことを気に入れば、侯爵とも親しく付き合うことになる。大貴族と繋がりを持つ絶好の機会だ。もちろん、レオルグはそんな好機をみすみす逃すつもりはなかった。すかさず握る彼女の手の甲へ唇を寄せようとして……
「あらぁ、ニーナちゃんったらぁ、顔を真っ赤にしちゃってぇ、かわいいんだ。かわいいんだ~」
などと何とも間延びした能天気な声が割って入る。微妙に聞き覚えがあるような……しかし別人の声。
「あ、赤くなってなんてないです!」
それを聞いたニーナが両手で顔の頬を抑える。当然レオルグの手はふり払われ、今は虚空をさまよっている。
「あらぁ、男爵さまのご子息様ぁ、その手はいかがされたんですぅ?」
可愛らしく小首を傾げて見せる。小柄で顔立ちも整っていて、実に愛らしい女性だった。ただこの時のレオルグにとってはこの上なく邪魔な存在で、そしてもう一つ、この女性の話し方はいやでもレオルグに一人の女性のことを思い起こさせる。彼お気に入りの娼婦を……
(良くやった、ほんとに良くやってくれた!!)
逆にシルファの存在を心の底から歓迎する男もいた。言わずもがな父親のラウルである。
彼は娘に近づく害虫に対して、あと少しで怒鳴り散らしてしまうところだった。親馬鹿ラウルにとって、娘に触れていい男性は唯一無二で自分だけなのだ。おそらくこのタイミングでの介入は、シルファなりにラウルの限界を感じ取ってのことなのであろう。
ラウルがこの場にシルファを連れてきたのは、実は別の目的があってのことだったのだが、思わぬところで大いに役に立ってくれた。ラウルは本当に心の底から、シルファに感謝を捧げるのであった。
「さて、せっかくだ。もう一曲ぐらい弾かせて頂きなさい。かまいませんか? 男爵」
すかさずこの機を逃すなとばかりにラウルは男爵に提案する。
「ええ……ええ、もちろんですとも!」
男爵としては、彼女が演奏している間は彼自身も、息子も彼女に近寄れないし、ラウルに話しかけるわけにもいかなくなる。あまり歓迎できたことではなかったが、しかし否ということもできなかった。
「ではもう一曲弾かせていただきます」
そう言って頭を下げると、さっさと二胡のある場所へと移動を始めてしまう。その後ろ姿を男爵も、そしてレオルグもただ情けない顔で見送ることしかできなかった。
(手を洗いたい……何でもいいから手を洗いたい。二胡を触る前に!!)
一方こちらはこちらで切実な思いに突き動かされているニーナ。彼女はレオルグに手を取られた瞬間、全身の毛が逆立つような深い、深い不快感を感じた。
レオルグが勘違いした頬の赤さは怒りの為の赤。消え入りそうな声は必死に怒気を鎮めようとした結果でしかなかったのだ。
ましてや、手に顔を近づけてきたときはもう、悲鳴を上げて、引っ叩きそうになった。彼女は心優しいが、決して心の弱い少女ではない。寧ろ本来の性格はどちらかと言えば強気な少女だった。そこ辺り目の曇った彼女の父親は全く気付いていないが……
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……何と言ってもあの目が気持ち悪いっ!!)
レオルグのニーナを見る視線。まるで物を見るように、それでいて全身を嘗め回すように見つめる視線。彼女は本能で悟った。あれは女を自分の付録物としか見ていない男の目だ。
(あれは女の敵!! あ~シュウに会いたい……)
男なのに妙に整った顔立ち。ちょっとだけぶっきらぼうだけど、何だかんだでニーナの言うことはちゃんと聞いてくれる身近な異性。
未だ十一歳の身なので、あまり恋愛事には興味はない。興味はないが、将来一緒になるならシュウエンリッヒみたいな異性がいいとちょっとだけ思っている。
(あ、なんか元気でてきた♪)
彼のことを考えて少しだけ気分が晴れたニーナであった。
ちなみにシュウエンリッヒは今この場にいない。いるのは主賓であるラウルとニーナ、後は護衛役としてキリュウ、レイオス、シルファの三人だけだった。
三人というのは男爵側から提案してきた人数だ。護衛はこちらで責任を持って引き受けるので……何たらかんたらと、長々といろいろ説明していた。しかし結局のところラウル側の護衛の数が多いのは都合が悪いということだろうと侯爵側は勝手に判断した。
しかしその上でラウルはその提案を受け入れた。何故か?……
男爵側は分かっていないようだが、この三人を相手に何かができる者などまずいないからだ。
そんな相手がもしいたならば、それは相手が強かったのではなく、キリュウ達護衛側に何らかの事情があったということだ。少なくともラウルはそう考えているし。それだけの信頼をこの三人に寄せていた。
ちなみに今、その三人はというと……
(お、これ旨いな。あ~シュウに食べさせてやりたい…)
(どこかにぃ、イケメン落ちていないかしらぁ?)
(お館様、よくぞ耐えられました!!)
実はラウルに負けずとも劣らない親馬鹿キリュウはシュウのことを考え、シルファは退屈を紛らわす玩具を捜し、レイオスは侯爵の健闘を称えるのだった。三人とも心の中で……
◇◇◇
侯爵達が談笑するミュラーの丘を、遠くから観察する三つの集団。一つは襲撃の機会を伺うジュラ率いる農民達。もう一つは昼食会の場に入ることができなかった侯爵の護衛団の残りの面々。そしてもう一つは…………
「兄貴、そろそろですかい?」
「ああ、準備はできているな?」
「ひひひ、もう待ちきれないぐらいですよ」
薄汚れた身なりに、統一感のないばらばらな武装。おまけに見た目も、年齢もてんでばらばら。
筋肉隆々で傷だらけ、いかにも傭兵崩れといった雰囲気の男もいれば、町のチンピラといった程度の奴もいる。かと思えば歴戦の兵士みたいな風貌の男に、目つきがやけに鋭すぎる女がいたり。ただ一つ共通するのは、禄でない者達の集まりということだ。彼らは皆、とある男の、とある依頼で集められた者達だった。
◇◇◇
ならず者集団とは別な場所で待機する農民達。こちらは既に張りつめた緊張感と、どこか焦りの様な物が漂い始めていた。
「…………まだか」
誰かは分からないが焦れたように問いかける。これで六度目だ。
「………まだ」
そう答えるケーニッヒの言葉も……
「おい、一体いつまで待たせるんだ! 早くしないと終わっちまうぞ!」
いつまでたっても突撃の決断を下さないケーニッヒに、他の者たちが苛立ちを感じ始めているのだった。皆今からすることが不安なのであろう。その不安が彼らにじっとしていることを許さない。でなければ皆不安に押しつぶされてしまいそうだった。
「こいつ臆病風に吹かれたんじゃないのか?」
「そうだ、こんな奴の言うことなんか聞くことはない。行くぞ」
我慢しきれなくなった者たちが次々に腰を上げ、飛び出そうとする。
(く、どうする……もう動くか、でもまだ……)
所詮は烏合の衆。ちょっとしたきっかけで簡単にばらばらになりかねない。
(やっぱり僕には無理なのか……)
ケーニッヒが思わず強く唇を噛みしめたその時……
「うるさいぞ!! 突撃の合図はケーニッヒがする。忘れたわけじゃないだろうな」
「それに、期を待つというのも戦においては重要な要素だ。闇雲に飛び出るばかりが戦ではない」
ケーニッヒに助け船を出す者達。兄のジュラと、父ライオスだった。これまで纏め役として、リーダーとして存在感を示してきたジュラと、戦場の経験を持ち、皆が鎌や、鋤、鍬といった農具を身に着けているのに対し、自前の大剣を手にするライオスの言葉は、この場にいる者たちをおとなしくさせるだけの力を持っていた。
「待てば何か起きるんだな?」
ジュラの問いかけには頷く事で答える。できるだけ力強く、自身のあるような表情で……
「そうか」
ジュラはそれだけで納得してくれた様子だった。先ほど声を荒げていた者や、苛立ちを感じてそうな者の近くに、比較的落ち着いた様子の者達が近づく。
何やら話しかけて落ち着かせようとしている様子だった。その一人に見覚えがあり、ケーニッヒは密かに微笑む。その時、ライオスが再び口を開いた。今度はジュラと、そしてケーニッヒの方へと向けて。
「さて、どうやら時間の様だぞ」
その言葉が終るか終らないかといった時、雄たけびを上げながら、丘に向かって真っ直ぐに突き進む集団が現れた。しかしジュラにも、そしてケーニッヒにも、その事よりもむしろライオスの言動の方が驚きだった。思わずライオスの方を注視してしまう二人。そんな二人をライオスその人が叱責する。
「何をしている、これを待っていたんだろう!」
はっとなって我に返る二人。ケーニッヒが頷き、それを見たジュラが号令を下す。
「何んだか良く分からんが、突撃ぃぃ!!!! 目標は丘の上のこう――」
「じゃなくて今出て行った集団!!!!」
「……は?」
――侯爵!! とジュラは叫ぶつもりでいた。なぜならそう聞かせられていたからだ。他でもないケーニッヒから。男爵に一矢報いる方法として……
そしてそれは今この場にいる者たち皆がそうだった。だから全員、気が付けば腰を浮かし、飛び出そうとする姿勢のまま、途中で停止するという非常に器用な真似をやってのけていた。
「なんかすごいね、その恰好……」
そしてこの中で唯一……でもなかったのだが、余裕を残していたケーニッヒが何ともなしにそう呟く。
「どういうことだ! そんなの聞いていない!」
「そうだ、お前一体何のつもりで」
「……どういうことか説明してもらおうか」
皆が騒ぎ始める中で、じっとケーニッヒの目を見据え、ジュラが問い掛ける。その視線をまっすぐに見つめ返し、ケーニッヒは最後の、そして最大の難関へと挑む。
「今は説明している時間が惜しい。けどちゃんと意味のある事なんだ」
ケーニッヒは必死で訴える。ここが本当に、本当の正念場だった。
「あの集団の背後から丘へ近づく。狙うのはあの集団でも、侯爵でもない。そこに僕たちにとっての、本当の敵がいる」
(……お前は誰だ?)
ふとジュラの脳裏にその言葉が浮かんだ。今目の前にいるケーニッヒの姿をした青年。彼は本当に自分の知る男なのか? 深く考えないまま自然と浮かんだその言葉は、気が付くとジュラの口から音になって飛び出していた。
「お前は誰だ?」
「僕は君の弟で、君の参謀だよ。我が大将」
ケーニッヒが賭けに勝ち、この地方の未来が決まった瞬間だった。
◇◇◇
「うぉぉおらぁぁぁぁ! すすめぇい!!!!」
雄たけびを上げ、土煙を上げて突き進む一塊の集団。早くも殺戮の予感に酔いしれ、契約のことなど頭の中から飛んでしまっている者もいる。
「殺せえ!! 奪え!!」
「女だ! 女がいるぞ!」
頭らしき男の叫びに続いて、他の男が下卑た声を張り上げる。
「何あれ!?」
「きゃゃぁぁぁあ!!!!!!」
ようやく丘の上の者たちも気づき、対応へと移る。しかしその場にいた侍女たちがパニックに陥り、護衛のはずの男爵領の兵達も右往左往するばかりで役に立たない。そんな中で、二人細く笑む者達がいた。男爵と、レオルグである。本来一番慌てなければならないはずの二人は、妙に落ち着いていた。
「ニーナ様、侯爵、ご安心を! ここは私が!!」
「何を浮き足立っている! 女たちは下がれ! 護衛隊は前へ、陣形を組め!!」
自信満々といった様子で、レオルグは腰に差した剣を引き抜く。何気に一応様になっていた。そしてその横では男爵が声を張り上げ慌てふためく部下たちへと指示を飛ばす。その指示も実に的確な内容だった。
それもそのはず、これは彼ら二人にとっては茶番であり、結果の決まった脚本付きの舞台なのだから。後は主役が舞台に上がるだけ。
「俺に続けぇ~」
大声を出し慣れていないのか、若干裏返った声を上げつつレオルグが威勢よく飛び出す。その後に続く部隊――というのが彼らの描いた脚本だったのだが…………
「こら、何をしている! 女は下がれ、 ええい邪魔だ! 護衛部隊早く前へ来んか!!」
脚本を知っているのは親子二人だけ。他の者は知らないので当然アドリブとなる。そして彼らが演じたアドリブは、みんな揃って右往左往するばかり……というものであった。
「何ともお粗末なことだな……」
「実践慣れしていないんでしょうねぇ~」
そんな様子を冷ややかに見つめるレイオスと、シルファ。二人は背後にラウルを庇う位置で様子見を決め込んでいた。
ちなみにキリュウは既にニーナを連れてこの場を脱している。騒ぎが起こった直後に。つまり役を演じるのに夢中になっていた二人の役者は、目的の客のいない所で演じ続けるただの道化なわけで……
こうして舞台は観客のいない所で幕を開ける。ただし、真の脚本を描いたのは男爵でもレオルグでもない、別の者であった……
◇◇◇
「やぁ、せい、ふん、とりゃ!!」
丘の中ごろで奇妙な掛け声をあげて剣を振り回すレオルグ。威勢だけはいいが、まったく腰の入っていない素人丸出しの剣筋だった。そして相対しているのは兄貴と呼ばれていた、ならず者集団を率いていた男だったのだが……
「おい貴様、たしかゴーウェンとかいったか。なんで倒れない? 予定と違うぞ!」
声を潜めて苛立ちの入り混じった声音で問い質すレオルグ。そして、その問いの相手は今まさにレオルグと殺し合いをしているはずの男だった。
「いや~ なんかこんな弱っちい相手に倒されるのは俺様のプライドが許さないというか、なんというか……」
そう言ってゴーウェンは下卑た笑いを浮かべる。しかしその目はまったく笑っておらず、冷たい光を宿していた。
「よ、よわ……」
その事には気付かず、言われた内容に何やらショックを受けた様子のレオルグ。そんなレオルグの様子を、男は気にした風もなく淡々と眺める。
「それにさ、お前を男爵の目の前で痛めつけてやったら報酬を増やしてくれるんじゃないかって思ってたり……」
「な、なな……」
「どうだ? いい考えだろ!」
そう言い放つと同時、手にしていた三日月刀を振りかぶって見せる。
「ひ、ひぃぃぃ」
心底怯えた表情で、手にしていた直剣を取り落してしまうレオルグ。
「くくくく、はぁはははは」
その様子を心底楽しそうな笑い声をあげて見つめるゴーウェン。その周りにはいつの間にか男たちが集まり、げらげらと下品な笑い声をあげていた。
「ぼ、僕をたすけろ!」
ようやく背後に付き従っているはずの者達のことを思い出し、レオルグは背後に向けて命令を下だす。しかし返事は返ってこない。恐る恐る後ろを振り返るが…………しかし当然そこには誰もいない訳で…………
「な、なんで…………?」
レオルグはただ情けない声で、そう問うことしかできなかった。
◇◇◇
「やっぱこうなったか……」
男達にすっかり囲まれたレオルグを冷めた目で見つめる一人の男。彼は真の脚本を知る者、娼館にいた二人の男の内の一人、年若い青年の方であった。
彼はすっぽりと頭まで覆われたフード付きのコートをその場に脱ぎ捨てる。下から現れたのは奇妙な出で立ち。見ただけでは年齢その他は伺えない。なぜならその顔は白く塗られ、その上から赤い塗料で奇妙な紋様が描かれていたからだ。分かるのはせいぜいその髪が黒色だということ、後はボロボロの薄汚れた服を着ているということぐらいだろうか。
「さて、俺も自分の仕事をするかな」
そう言って男は真っ赤に塗られた唇を舐める。そして…………おもむろに暴れだした。
「おい」
そう声をかけ、隣にいた男の横っ面を殴りつける。潰れた声で悲鳴を上げ倒れる男。しかしそれを見ることなく男は次の行動へと移る。左足を軸にして体を一回転。そのままの勢いで近くにいた別の男の横腹を蹴りつけた。
「ぐぎゃぼ」
奇妙なうめき声をあげ、体をくの字に曲げそのまま崩れ落ちる男。
「おい、貴様何を……」
「何のつもりだ!」
ようやく周りが反応するが、男は何も答えない。そればかりか容赦なく周りにいる男たちを殴り、蹴飛ばし、投げ、叩き伏せる。よく見るとその男と似たような格好をした者達が男と同じ行動を取っていた。すなわち片っ端から周りにいる男たちを殴り飛ばし、蹴飛ばし、投げ、叩き伏せる。たちまち場は混乱に陥る。
「何をしている!」
「落ち着け!」
ようやく背後の不穏な騒ぎに気づいたゴーウェン達が止めに入ろうとするが、その瞬間レオルグが彼らの手を逃れて脱走を企てる。
「ったく、どこの連中だ!!」
そう苛立たしげに呟きながらゴーウェンとその取り巻きがレオルグを追う。今回ゴーウェンは素行の悪い者、町から爪はじきにされている者、前科を持つ者、そして自分と同じ傭兵仲間を片っ端から集めた。
できるだけ多くの人数でというのが依頼主からの依頼だったし、ゴーウェンにとっても人数の多いのは歓迎するべきことだった。その中に血の気の多い者でもいたのだろう。ゴーウェンの認識はその程度であった。
「急げ、急ぐんだ! ええい何をしている!! 早く助けに行かんか! その身を犠牲にしてでもレオルグと儂を守るのがお前たちの役目だろうが!」
囲いから抜け出してこちらへと走ってくる息子に声をかけ、続いてようやく混乱が収まってきた護衛の者達へと命を下す男爵。内容も、言い方も酷い物だったが、それでも護衛の者たちはそれに従ってレオルグの下に駆けつける。それだけでなく、一部の者達はちゃんと男爵の前で壁を作っていた。
逃げるレオルグ、追うゴーウェン達、迎え撃つ護衛達。レオルグを挟んでならず者集団と護衛の部隊が対峙し、そして激突した。
「おらぁ、死ね!!」
「じゃまだ、どけぇ」
「ひるむな! 迎え撃て!!」
怒号が飛び交い、血しぶきが舞い散り、肉が裂け、骨が砕け、たちまち美しかった丘の中腹が血に染まっていく。容易く命を刈り、そして刈られていく……………たちまちその場は地獄《戦場》となった。
両者の間にいたレオルグはひとたまりもなかった。刺され、蹴られ、押しのけられる。しかし逆にそれが幸いした。集団からはじき出され、結果命を失うようなことにはならなかったからだ。ただし本人はそれを幸運とは思っていないようで……
「痛い、痛い、痛い痛い痛いイタイイタイ……なんで僕が、なんでこの僕がこんな!!!!」
右腕は折れ、左肩を刺された無残な姿となり、高価な衣装は今や血と砂と泥にまみれ、顔は鼻水と涙と血で汚れ、それでもレオルグは生きていた。それが彼の幸運。そして彼の背後に忍び寄った者、それが彼の不運。
「見苦しい。男が戦場で涙を見せるな!」
その言葉と共に、レオルグの腰が砕かれんばかりの勢いで蹴りつけられる。
「ぎゃぁぁ…………ぶへ…ぐぼ……ぐぎゃ?…ごふ!!」
そのまま丘の斜面を転がり落ちるレオルグ。途中で気絶することが出来たことが、彼の二つ目の幸運。そして二つ目の不幸の始まり。
「さて、残るは……」
レオルグを蹴り飛ばし、どこか一仕事終えた感が漂う顔を化粧で染めた男。最初に動いた黒髪の男だった。彼が見据える先には未だ入り乱れるゴーウェン達。けれど真実彼が見据えているのはその先、丘の頂にいる男爵と、そして侯爵たちだった。彼は落ちていたレオルグの剣を拾うとそれを左手に、そしてこの時になって初めて腰に差した曲刀を右手で抜いた。
「さて、行こうか」
まるで散歩にでも出かけるような口調。そして彼は走り出す。最初の障害はゴーウェン達。見るとすでに状況はゴーウェン側に傾きつつあった。それもそのはず、彼らはこれで中々に名の通った傭兵集団なのだ。
ただしそれは、相手が女子供でも容赦なく殺し、斬り刻む残虐な戦闘集団にして、どんな依頼も金次第で受ける傭兵団であるという悪名ではあったが……
「おらおらおらどうしたぁ!」
人を斬る感触に快楽を感じ、心地よい血の匂いに酔いしれる。格下の護衛兵相手にわざと時間をかけていたぶりながら、そんな至福な時を味わっていたゴーウェン。しかし突然冷や水を浴びせられたような悪寒に襲われ、慌ててその場から飛び退いた。唸りと共に振り抜かれる曲刀。つい先ほどまでゴーウェンの首があった場所を婉曲した刃が走り抜けた。そして返す刃でそのまま袈裟斬りに斬り下ろしてくる。
「くっ!!」
何とかそれも躱すゴーウィン。しかしそのまま体勢を崩し、尻餅を付いてしまう。
「貴様……」
慌てて飛び起きながら仕掛けてきた男を睨みつけるゴーウィン。相手は顔に奇妙な化粧を施した黒髪の男だった。
男は視線をゴーウェンに添えたまま、無造作に左手を振りぬく。ゴーウェンにいたぶられていた護衛兵が声もなく崩れ落ちた。幸いレオルグの剣は片刃の直剣だった為、峰打ちであり、護衛兵は気絶するだけで済んだ。
「御優しいことだな」
ゴーウェンもまた男に視線を据えたまま、背後に忍び寄っていた別の護衛兵を背中越しに突き刺す。
「長々といたぶる趣味はないんでね」
男は挑発するように片口を吊り上げて見せる。
「余裕だな。この状況で」
「そうでもないさ。実は……」
そう言いながらも男は笑みを崩さない。実際追い詰められているのはゴーウェンの方だった。
彼は今まで数多くの死線を潜り抜けてきた。その都度、どんな手を使ってでも生き残ってきた。彼に正々堂々などといった考えはない。例え卑怯な手段を使ってでも、生き残った方が勝ちなのだ。少なくともゴーウィンはそう考えていた。
だから今回も同じ。目の前の男はゴーウィンよりも強い。そう長年戦場で鍛えた彼の勘は告げていた。ならばやることは一つ……
「なぁ、お前何が目的だ? 俺と手を組まないか? いい儲け話がたくさんあるんだぜ……」
話しながらゴーウィンは視線を送る。その視線に答え、彼の仲間が静かに背後から男に近づく……その数四人。いずれも腕に覚えのある猛者で、ゴーウェンと共に死線を潜り抜けてきた相棒達であった。
「ほう……儲け話。例えば?」
興味をひかれたように男が問い返してくる。背後に忍び寄る気配には気付いた様子はない。
「それはな……冥土で教えてやるよ!!」
一斉に五本の剣が突き出される。どれも無骨だが切れ味鋭い業物ばかり。肉を切り裂き、骨に突き刺さる…………はずだった……
「は?」
そう声を上げたのははたして誰だったのか。肉を裂く音も、男の悲鳴も聞こえない。聞こえたのは剣と剣がぶつかり合う甲高い金属音だけだった。
「残念、はずれ」
声が聞こえた方へと目線を下げる。体を低くかがめ、両手を前後に伸ばした姿勢の男と目があった――瞬間、ゴーウェンの腕にすさまじい衝撃が奔り、甲高い破壊音が轟いた。彼の目の前で手の中の剣が砕け散る……男が身を起こしざまに体を一回転。そのままの勢いで両手の剣を振り抜いたのだ。
「あ、あぁぁぁ手が、テガァ……」
「腕が、おれのうでがぁあああぁぁぁ」
結果的に剣だけで済んだのはゴーウェンにとっては幸運だった。他の二人は手首と、肘から先を斬り飛ばされ、もう二人はゴーウェン同様剣を失ない、呆然と立ち尽くしている。そんな彼らの真中で、男が残念そうに口を開いた。
「勿体ないなぁ。割と良い剣だったのに」
見るとその男の剣も左手に持った方が半ばから折れていた。しかし右手に持った剣には傷一つ入っていない。
「うん、さっすがぁ」
今度はそう言って満足げに笑う。ゴーウェンはこの時初めて気付いた。男がまた年若い青年だという事に。顔は相変わらず白と赤の化粧ではっきりしない。しかし男の声は声変りを迎えていない少年のような声音だった。そしてもう一つ……
「こいつ……化け物か……」
仲間の一人が恐ろしげに告げる。男はなんと返り血一滴たりとも浴びていなかったのだ……
「あれ? あんまし時間残ってない? もしかして……」
唐突に何かに気づいた様子で、男は自分の頬に手をやる。良く見ると、うっすらとだが汗で化粧が流れ始めていた。そのままの姿勢で男は身動き一つ出来なくなってしまったゴーウェンに問いかける。
「まだやる?」
ゴーウェンにできたことは、首を左右に全力で振ることだけだった。
◇◇◇
「なぁ、俺たち一体何しようとしてんだ?」
「さぁ、でもあそこさ行くよりかはいいべ」
ケーニッヒに言われたとおり、ならず者集団の後ろについて行ったジュラ達この地の農民達。
彼らは遊び半分で攻撃してくるならず者を抑えながら、その後ろ付いて行く。
そんな彼らの見る先では、いつの間にかならず者集団が仲間割れを始めていた。驚いたことに、少数の化粧をした者達側が優勢な様子であった。
「なんが、けっだいな化粧さやっとるね?」
「んだんだ。ちぃとばかし気味悪いさね」
なぜ彼らがこんな時なのにおしゃべりしていられるかというと、戦場となっている丘の中腹までは未だ距離があったことと、ならず者達の襲撃も散発的な物だったからだ。
それに加えて、彼らの先頭にはジュラ、ライオス親子が陣取り、ほとんどこの二人だけで襲撃を防いでしまっている。
特にライオスの戦いぶりはすさまじく、重そうな大剣を縦横無尽に振り回し、相手を圧倒する様はどう見ても農民には見えない。それこそどこかの狂戦士さながら
だった。
そのすさまじさは思わず息子のジュラが引いてしまうほどの激烈さで、しまいにはならず者たちの方から近づかなくなってしまったほど。
「なんだ、張り合いのない」
「お、おやじ、あんた何もんだ?」
この時初めてジュラは父親を恐ろしいと感じたらしい。
ここに至るまでにあった決意や、緊張感は何処へやら……特に怪我人を出すことなく彼らが丘の麓に辿り着いたとき、それは起こった。
「な、なんだ……」
「地震か?」
大きな地響きを上げて地面が揺れ動く。立っていられないほどの衝撃が駆け抜け、突然彼らの足元が消失した。
◇◇◇
「な、な、な、なんだこれは? いったいなにがどうしてこう……なるのだ」
頭をかきむしった跡が生々しく残る男爵。まるで一気に老け込んでしまったかのようだ。
レオルグが蹴り落とされた時には半狂乱に陥り、賊であるはずの五人が男を取り囲んだ時には、あろうことか大声を上げて応援していた。
そして今、賊五人の間を何事もなかったかのような足取りで通り抜け、こちらへと向かってくる男の姿を見るに至り、男爵は意味のない呟きを繰り返すようになっていた。
「夢だ。これは夢なんだ。そうだ。でなければこんな……そうだ夢なんだ。そうに違いない……」
不思議なのはこの間、侯爵の護衛二人が侯爵を逃がすそぶりを見せなかったことだ。相変わらず護衛二人が侯爵を守るような立ち位置で突っ立っている。しかしそのことに男爵は気付くかない。気付く余裕がなかった。
そして……ゆっくりと歩を進めていた男が徐々に足を速め、いきなり全力で走り出す。上半身を前に傾け、両手の剣の切っ先は地面へと向いている。上り坂になっていることを全く感じさせない驚くべき脚力で、その速さはまるで疾風の如く…………
「いかん!」
この時初めてレイオスが動いた。侯爵の下を離れ、男と男爵との間に走り込もうとする。
「レイオス隊長!?」
驚きの声を上げるシルファを無視して、レイオスもまた疾駆する。
何もできずにただ突っ立っていた護衛兵の間を化粧の男が駆け抜ける。男が駆け抜けた後には、ゆっくりと地面へと倒れてゆく護衛兵達の姿が。幸いその身から血は流れていない。
「男爵様!」
レイオスが警告を発する。この時になってようやく狙いが自分だと気づき、けれども何もできない男爵。レイオスも間に合わない。
男と男爵の距離が、互いの顔がはっきりと認識できるぐらいまで近付いた時、男は唐突に左手に持っていたレオルグの剣を男爵めがけて投げつけた。
「ひぃいぃぃぃぃぃぃぃ!」
呻りを上げて飛んでゆく折れた剣。その剣が男爵へと突き刺さる寸前――横から飛来した何かが、かろうじて男の投げた剣を打ち落とした。
飛んで来る剣に自分の剣を投げつけるというレイオスの神業。レイオスはそのまま男爵と男の間へと滑り込み、背に男爵を庇う。
「レ、レイオス殿……助かった。良くやってくれた」
安堵の表情を浮かべ胸を撫で下ろす男爵。一方レイオスは厳しい表情を崩さない。
そしてそれは起こる………………
レイオスの犯したミス。それは男爵を守るためとはいえ、侯爵の下を離れてしまったこと……
「ま、待て、まさか……」
男が身をひるがえした時、レイオスの表情が驚愕へ、そして焦りへと変わる。次に男が狙ったのは侯爵だった。いや、狙いは最初から侯爵だったのかもしれない。
レイオスが引きずり出されたことで、今や侯爵と男を遮る者はシルファただ一人…………
駆ける男と追うレイオス。しかし男の方が速かった。そしてレイオスの手にはもう剣がない。
「きゃぁぁぁ」
シルファが悲鳴と共に弾き飛ばされ、そして――
「親方様!!!!!!!!!!!!」
レイオスの、男爵の見ている前で、男の曲刀が深々と侯爵の体に突き刺さった。
「あ、あ、あ、あ………」
音もなく崩れ落ちる侯爵と、それを呆然と見つめるレイオス。シルファも、そして男爵もただ目を見開くばかり。
侯爵の背から覗く血に塗れた剣先。そして地面に広がる赤黒い血だまり。どう見ても致命傷……
「男爵、依頼は果たしたぞ」
化粧の男がそう言って笑うと、身をひるがえして逃走を始めた。
「な……に……を?」
身に覚えのないことに狼狽える男爵。その男爵へと激しい叱責が浴びせかけられる。
「どういうことだ!! 男爵!」
血相を変え、憤怒の表情で男爵を見据えたのはレイオスだった。
「いや私は……なに…も」
殺気さえ籠っているレイオスの視線にさらされ、男爵はそれだけ言うのがやっと。
「レイオスさん!!」
侯爵に駆け寄り、傷を確かめていたシルファがレイオスを促す。レイオスは侯爵へと視線を向け、次いで男爵を睨みつけ、一瞬だけ逡巡した後、男が逃走した方へと視線を向ける。そして――
「くっ……そううううぉぉぉぉぉぉぉぉお……」
雄叫びと共に地面に右手を叩きつける。レイオスの土色の瞳が徐々に色を変えてゆき、黄金色に染まる。それに合わせて髪の色もまた茶色から黄金色へ――
「逃がさん!! 沈降する大地」
その言葉と同時、大地に立っていられないほどの振動が奔り、次いでレイオスが手を触れた場所から放射線状に地面が陥没していく。そしてその上にあった物すべてが呑み込まれていく……
「だ……だ、大地の高位神霊術師……」
大地を自由自在に操ることが出来る土の高位神霊術師。その属性色は黄色。男爵自身、風の神霊術師の端くれだったが、ここまで大規模で、ここまで強力な神霊術は見たことがなかった。何より髪の色が変化するほどの干渉力………
「これではまるで……」
こんなことが出来るのは血を濃く受け継ぐ公爵や、大公爵レベルでしかあり得ないのではないか。そう考えレイオスの姿を探すが、既にそこにはレイオスの姿はおろか他の誰の姿もなかった。
残された男爵とシルファ、ラウルの三人。逃げ遅れた侍女や数人の護衛兵達。そして……………
「お館様!?」
ニーナを近くで待機する護衛たちの下へと預けたキリュウが戻ってきた。
「いったい何があった?」
「それが……」
シルファに詰問するキリュウ。シルファは少し言い淀むと、男爵の方へと視線を向ける。それだけで何かを感じ取ったらしい。キッと男爵を睨み据えるキリュウ。
「事情は後ほどじっくり聴かせてもらおう」
低い、低い脅すような声音だった。男爵はただ黙って頷くしかなかった。