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神秘の泉  作者: hiko
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第1話 遭遇のち事件

「……もういいのか?」


「…………」


「そうか」


 短いやり取り。聞かれた方はただ黙ってうなずきを返すだけ。しかしこの二人の間ではそれだけで十分だった。

 黒髪の男が二人。一人は三十後半といったくらいの年嵩の男。もう一人はちょうど少年から青年へと変わったばかりといった頃合いの青年だった。


「ならば行こう。余り遅れるわけにもいかんからな」


 そう言うと年嵩の男はひらりと自分の愛馬にまたがる。男の動きに合わせて首元で束ねた黒髪が馬の尻尾のように跳ねた。その体躯は大きくよく引き締まり、左目からは鋭い眼光が覗く。右目は縦に走る刀傷によってふさがれており、無造作に伸びた無精ひげも相まって精悍な印象を醸し出す偉丈夫であった。

 対してもう一人の青年は少し小柄で細身、目立ち鼻は整っていてどこか上品な印象を持つ、中性的な顔立ちの青年だった。


(父さん、母さん、イリサ……)


 青年は後ろを振り返り、今後にしてきた嘗ての故郷へと目を向ける。その景色を瞳に焼き付け、青年は彼を待つ愛馬へと跨る。そこにはまっすぐに前を見据える力強い瞳があった。


◇◇◇


 麦畑や菜園が広がる田舎道をゆっくりと三台の馬車が通り過ぎてゆく。前二台は飾りなどの装飾のない、大きくて丈夫な実用的な馬車。一方最後尾にいる一台は豪華な装飾が施された、見るからに高級そうな馬車であった。

 周りには護衛と思わしき兵士が数人、馬に跨り辺りを警戒している。ただ彼らは長閑な田舎の風と風景に、緊張感を根こそぎ奪われてしまっていた。一人の護衛が欠伸をすると、つられるように隣にいた護衛も欠伸をする。何とも平和な光景である。

 そんな中で、馬車の様子を伺い見る複数の視線。その多くに明確な敵意や憎悪といったものが含まれていた。


「呑気なもんだ。俺たちが汗水たらして働いてるっていうのに、貴族様は優雅にお散歩か?」


「どうせ暇なんだろ。俺たちと違って働かなくても食っていける連中だ」


「豪華なもん食って、下らない遊びで時間つぶして、ついでに金も食いつぶす……」


「クソッタレの貴族どもが……さっさと行けば良いものを……」


 声を潜めて次々と吐き捨てるのは、近くで作業をしていた若い農民達だった。日に焼けた健康そうな肉体を持つ大柄な男もいれば、小柄な細身の青年もいる。彼らに共通するのは貧相な衣服を身にまとっている事と、明確な敵意を馬車に向けていることだけであった。


「ジュラ、止めなって……みんなも……」


 一人、農民らしからぬ風貌の青年が他を窘めるが、聞いている様子のものは皆無である。肩を落とし、どこか心配げな様子の青年の見つめる先で、馬車は変わらず、ゆっくりと進んで行く。

 貴族と農民。支配者と被支配者。これらの関係が良好なものだった例は歴史を紐解いてみても驚くほど少ない。そんな例にもれず、この地では横暴な領主の一方的な搾取に、領民たちが日々、不満を募らせていた。


◇◇◇


「この地ではあんなに幼い子供までが働かねばならないのですね……」


 ゆっくりと進む馬車の中、愁いをおびた表情で窓の外へと目を向ける一人の少女。その向かいの席には、身なりの綺麗な男性が座り、少女同様外へと視線を向けていた。


「土地が変わればその風習や生活も変わる。領民の意識も、貴族と領民の関係も」


 そう答える男性は、この地の隣に領地を持つ大貴族。クロイツェル伯爵領領主、ラウル・クロイツェルであった。彼は優しき心を持った愛娘に、一つの現実を突きつける。


「上に立つ者が愚かであればその犠牲となるのは民草だ。我々はそのことを常に肝に命じておかねばならない」


「……はい」


 娘の反応から自分が伝えたいことがきちんと伝わっていることを確認し、ラウルは再び外へと眼差しを向ける。ふと、真っ向から睨みつけてくる大柄な青年と目があった。意志の強さが感じられる力強い眼差し。しかしその眼差しは今、深い憎悪に染まっていた。


「あの男……」


◇◇◇


「ジュ、ジュラ……今誰かこっち見てなかった?」


 怯えたように呟く弟の姿に内心で溜息を漏らす。書を読み漁るのが趣味のこの弟は、頭は良いが臆病なのが偶に傷だった。


「気のせいだろ」


 ジュラも男と目があったような気がしたが、言ってわざわざ弟を不安がらせても、良いことなど何もない。


「それよりケーニッヒ。あの紋章何処のか分かるか?」


 そう言って指さすジュラの指の先には、去っていく馬車の扉部分に描かれた、翼を広げる隼の紋章が。


「確か……隣領の侯爵家の紋章じゃないかな」


「隣領?」


「クロイツェル侯爵領だけど……ま、まさか乗ってるの侯爵じゃないよね?」


 またも怯えだすケーニッヒ。そんな弟のことをいったん無視して、ジュラは先ほどの男の姿を思い浮かべる。

 クロイツェル侯爵と言えば、ここら辺りで最も大きな領地を持つ大貴族だ。おそらく先ほどの男が侯爵その人だろう。なんとなくだがそんな気がする。


「そっか。侯爵か」


 そう呟く彼の瞳は、先ほどまでよりさらに深い憎悪と敵意に染まっていた。


「はぁ」

 兄の瞳に宿る憎悪に気づき、ばれないように溜息を吐く。兄の身に起きたことを考えればその憎悪も無理はないと思うが、けれどもケーニッヒにはそれが何時か兄の身を滅ぼすのではないかという不安があった。


(何も起きなきゃいいけど……)


 なんとなくだが嫌な予感を感じてしまい、慌てて頭を振るケーニッヒであった。


 異変が起きたのはそのすぐ後だった。


「ニコル!」


 突然女性の悲鳴が響き渡る。続いて甲高い馬の嘶きと、慌てて落ち着かせようとする御者の声。


「駄目、止めなさい! お願い止めて!!」

 そして再び女性の悲鳴。


「あ、あの馬鹿!!」


「うそ……」


 ジュラの、そしてケーニッヒの見つめる先では泥の塊を馬車に投げつけている少年の姿が。

 ニコルは何も言わない。ただその瞳に涙を溜め、泥を拾い、手早く固めては投げつけている。何度も、何度も……

 土塊が馬に当たり、その度に馬が嘶きと共に暴れようとする。さらにケーニッヒの見つめる先で、その一つが侯爵家の紋章に当たってしまう。


「さ、最悪だ……」


 侯爵家の紋章を汚して――それも泥を投げつけて――無事で済むわけがない。ニコルも……そして自分たちも。

 慌てて護衛兵が馬車との間に身を割り込ませる。そしてその身で泥の塊を防ぎ、文字通り泥を被った。

 ケーニッヒも、他の誰もあまりの事態に動くことが出来ない。悲鳴を上げたニコルの母親でさえも。ただ一人の例外はケーニッヒの横にいたはずのジュラだった。

 彼はいつの間にかニコルの元へと走り込み、彼を背後へと庇う。ジュラが睨みつける前では、護衛兵が腰の剣へと手を掛けたところだった。

 緊迫した空気が流れる。胸と左肩の所に泥の跡が残る護衛兵と、鎌を持ったままのジュラ。異様な雰囲気を発するジュラに気圧された護衛兵が、思わず剣を抜こうとした時、ゆっくりと馬車のドアが開いた。


「少年よ。その敵意の理由は何であろうか?」


 現れたのは四十前後の男性。燃えるような紅い髪が特徴的であった。


「お、お館様。危険です! お入りください」


 慌てたのは周りの護衛達。この男こそがクロイツェル侯爵領領主、ラウル・クロイツェルその人であった。

睨みつけるジュラのことは無視し、侯爵はその視線をひたすらにニコルへと向ける。


「そうか、答えぬか」


 少しだけ待ち、少年が答えないのを見て取った侯爵は、その目に怒りを宿した。


「許せんな……」


 それだけを呟くと、侯爵は踵を返し、馬車へと乗り込む。


「出せ。その子らに構うな」


 侯爵を乗せた馬車がそのまま走り去るのを、農民たちは誰一人声を出せずにただ黙って見送った。


◇◇◇


「申し訳ございません、お館様!」


 街道から少し離れた森の中、一人の男性がそう言ってラウルの前に膝を付く。ラウルよりも少し歳若い感じの、護衛部隊の長を務める男性であった。


「気にするなレイオス。まさかあのような幼き少年が、あんな行動に出るとは誰が想像できよう……」


「いえ! そんなことは理由になりません!!」


 自分の失態だとばかりに、胸元と左肩を泥で汚した騎士風の男は首を振る。


「まったく、相変わらず不器用というか……私は全く気にしていない。そなたも気にするな」


「しかし……」


「子供のやったことだ。目くじらを立てることではない。ましてや実害は何一つとしてなかったのだ。もうそれで良いではないか……」


「は。申し訳ありません」


「ふぅー。さて、ただし気になることはある」


「子供の取った行動の理由ですか……」


 謝罪は終わりだとばかりにラウルが話題を変える。レイオスもそれはちゃんと感じ取っており、膝を屈した体勢からまっすぐに立つ体勢へと姿勢を変える。


「おそらくこの地の領主に関係するのだろうが……」


「シューミッテ男爵領領主、オルト男爵ですか……」


「あるいはその子息レオルグ・オルトか……」


「どちらもあまりいい噂を聞きませんからね……」


 実の所、ラウルが怒りを覚えたのは子供に対してではなく、あんな子供にああいった態度を取らせた何者かに対してだった。


「キリュウらが戻れば何かしら情報を得られるだろうが……それはそうとレイオスよ」


「はい?」


 急に声を潜めたラウルに、訝しげな表情のまま顔を寄せるレイオス。


「お前、ホントはあんまり悪いと思ってないだろ?」


「あ、分かります?」


「当たり前だ。何年来の付き合いだと思っている?」


 護衛部隊を率いる長とその主。しかしその肩書きを除けば、二人の関係は年の近い友人同士であった。


◇◇◇


「いったい何てことをしでかしてくれたんだ!」


 怒号を飛ばす男達。その矛先は幼い子供とその母親に向けられていた。彼らは如何しようもないほどの恐怖心に犯されていた。ニコルの取った行動が自分たちにまで類を及ぼすのではないかという恐怖を……

 一方男達ほど取り乱してはいなかったが、女たちもまた不安に苛まれていた。そんな彼女達は一人の青年を囲み、その言葉に耳を傾けていた。


「侯爵の乗る馬車への攻撃……と取られてもおかしくはないです。というよりまず間違いなくそうとられると思います」


 彼女たちにとって、貴族とは恐怖の対象だ。気まぐれに彼女達を傷つけ、暇つぶしに命を弄ぶ。そんな存在にこちらを責める明確な理由を与えてしまった。


「古い慣わしでは、紋章への攻撃は敵対の意志を示す事だったそうです。これから僕たちがどうなるかは……」


 ケーニッヒは沈痛な表情で答える。集落一の物知りと呼ばれる青年は、現状を最も良く理解する一人だった。


(相手は大貴族だ。面目もプライドもある。農民からそんなことをされて放っておくわけがない……)


 但し、彼はラウル・クロイツェルという人物については、名前以外ほとんど何も知らなかった。この時ケーニッヒが、もしくは他の誰かがラウル・クロイツェルについて、もしくは隣の侯爵領についてもう少し詳しく知っていたなら、彼らの不安や恐怖がただの杞憂であったことに気づいたかもしれない。

 しかしそれも無理からぬこと。この地を治める男爵家は領民達が領外へと出ることを固く禁止し、立ち入る商人達も厳しく監視することで、他領の情報を決して領民達に与えないようにしていたのだから。


「も…もし…もし兵を連れて戻ってきたら……」


 一人の女性が呟いた言葉は瞬く間に広がって、農民達を恐慌状態に陥れる。


「そげなことなったなら、おら達どうなるんだべ!」


「そんなの決まってる。みんな殺されるんだ!」


「いやよ! そんなの!」


 たちまち集落中が大騒ぎになる。それを止められる人物は今この場にはいなかった。


「やられる前にやるべきだ!」


 結果、こういった意見が出てくるのも無理からぬ事だったのかもしれない。


「ばかな、勝てるわけがない!」


「ならこのままじっとして踏みにじられるのを待っていろというのか!!」


 人とは元来攻撃的な生き物なのかもしれない。

 動物の雄達は自分の子孫を残す為、ライバルである同種の雄と縄張り争いを繰り広げ、雌を巡って争う。

 一方雌の方は、子を守る為ならば、自分よりもはるかに強い種相手でも攻撃を仕掛け、時にはその身を犠牲にしてでも子を守ろうとする。

 人もまた同じなのかもしれない。母親は子を守る為ならいくらでも強く在れる。父親は家族を守る為ならどんなことでもやってのける。

 その手段として争いを選び、結果として滅ぼし、滅ぼされた。そんな事は歴史上散々繰り返されてきたのかもしれない。


(無茶だ、無謀だ。絶対無理に決まってる!)


 だが誰しも強く在れるわけではなかった。ケーニッヒは元来の臆病な性格と、こんな時なのにはっきりしている思考の為、彼らが突き進もうとしている道が地獄への一本道に思えた。そして少数ではあるが彼と同じ意見を持った者がいた。


「早まってはならん。そんなことをしたらそれこそ奴らの思うツボだ」


 皆が高ぶり声高に叫びあう中で、その声は静かに、しかしはっきりと響き渡った。


「それこそ反逆罪だのなんだのと喜んで罪状を並べ上げ、奴隷のように働かされるだろう。それどころか、本当に奴隷にされかねん」


 そう口にするのは一際大きな体を持つ、一人の農民であった。


「ライオスさん……」

 他の農民達から一目置かれる存在であり、ケーニッヒやジュラの父親でもあった。


「耐え、凌ぐべきだ。まだ本当に何かをされると決まったわけではない」


「そんな……奴らがこのまま何もしないはずがない!」


「そうだ! こうなったら俺たちで貴族どもを倒すしかない!」


 ライオスの言葉で多少は落ち着くかと思いきや、依然として攻撃的な姿勢を崩さない農民達。そのほとんどは血気に逸る若者達であった。


「倒してどうする? もし万が一そんなことが出来たとしても、他の貴族が黙っていると思うのか?」


 なおも落ち着いた口調で翻意を促すライオス。同じように若い者達を宥める年嵩の農民達がちらほらと見え始めた。けれども、それでも若者たちの勢いは収まらない。


「それでも、動くべきだ!!」


「そうだ! 黙ってられるか!」


 負けじと年嵩の者達も声を張り上げる。


「女子供はどうするつもりだ! 放っておくつもりか?」


 最早意見の違う者同士で取っ組み合いが始まりそうな勢いであった。

 そんな中で、頭を抱え、苦痛に呻くような表情で何事か必死に考える青年がいた。ケーニッヒである。


(何が正しい? どうすることが正しい?)

 彼は他の者たちのように自分の意見を言う事も、主張することも出来ずにいた。


(耐え凌ぐ? それでは何も解決しない。ずっとこのままだ……なら貴族を倒す? 無理無茶無謀! そんなことが出来るならとっくに誰かがやってる。よしんば出来たとして、その後は? 父さんの言うとおり他の貴族が黙ってない)


 ケーニッヒが未だ自分の意見を決めきれない中、しかしこの場の流れを決定付ける言葉が発せられてしまう。ケーニッヒの兄、そしてライオスの息子ジュラの口から……


「親父……忘れたのかユラがされたことを。ユラの父親がどうなったのかを。あんたの親友だろうが……」


 そのジュラの言葉は場の雰囲気を一変させる。


「そうだ……ユラも、その父である長も。あんな事になったのは、貴族のせいだ!」


「そうだ! ニコルがあんなことをしたのだって元を……」


 そこで言いかけた男がはっとなって口をつぐむ。他の者達も無言でニコルの方へと目を向けた。


「おまえ……だからあんなことを?」


 ニコルは何も答えない。ただその瞳に大粒の涙を溜め、拳を強く、固く握りしめていた……


「親父。まだ反対するか?」


 それが、ライオスに告げられた最後通告であった。同時に彼らの行く先が定まった瞬間。


「俺たちは貴族を倒す。俺たちの受けた苦しみを、怒りを奴らに思い知らせるために……」


 肩を怒らし、手に鎌や鋤、鍬等の武器を持って男達が飛び出していく。その様をライオスも、ケーニッヒも、そして女たちも黙って見ている事しか出来なかった。

 彼らの怒りは元来この地の領主である男爵へと向けられたもの。それがいつの間にか貴族全体への怒りへと変わり、さらに偶然訪れただけの侯爵へと向けられたのだった。


◇◇◇


 棚の奥底から嘗て自分が愛用した古い剣を引っ張り出す。鞘から抜き放つと幅広の両刃が鈍い光を反射した。古いがよく手入れされた彼の愛剣。男は背後から感じる視線へと向き直り、不安そうな妻を安心させるよう微笑んだ。


「そんな顔をするな。ジュラはしっかり儂が守る」


 そう言って長年連れ添った妻をそっと抱き寄せる。結果としてライオスの意見は通らなかった。しかしだからと言って放っておくわけにはいかなかった。この集落の中で、彼だけが戦場というものを知っている。だからこそ、彼にはまだできることがあるはずだった。


「全く、あいつには妙に人を引き付ける何かがあるんだろうな。自然と人が従ってしまう。カリスマ性ってやつか……」


 あの場の流れを決定づけたのはジュラの一言だった。そして男たちが出て行ったとき先頭に立っていたのも……

 そのことが嬉しくもあり、また残念でもあった。


「当然ですわ。だってわたくしたちの息子ですもの」


 彼の妻も誇らしげに告げる。その瞳に光る雫を浮かべながら……


「そうだな……そうだった」


 妻は元々こんな貧乏で苦しい生活を送らなければならないような身分ではなかった。それがライオスと結婚したが為にこんな苦労をしている。以前そのことを謝った時には珍しく妻が激怒したものだ。


「わたくしは、わたくし意志で、あなたと共におります! 私自身の手であなたの世話をできるのはわたくしにとっての幸せなのです! 苦労? 辛い? 苦しい? そんなものはこれっぽっちも感じたことはありません!! そもそもそんなこと言うこと自体……いいえ、考えること自体がわたくしに対する最大の侮辱です!」


 記憶の中からよみがえってくる妻の姿は、ライオスが初めて見た、そしてたった一度だけ見た彼女の激怒した姿だった。そして今、彼の腕の中で見せる涙は初めて見せる彼女の悲しみの涙だった。


「あの子に伝えてください」


 そう言って女性は妻としての顔から、母親としての顔へと変わる。


「あなたの怒りは正しいものです。大事な人を傷つけられたら怒っていいんです。あなたは正しい……と」


「――分かった」


 それは彼女なりの手向けなのだろう。もしかしたらもう帰ってこない息子へと向けた……


「全く親不孝だな。別れも告げずに行くとは…」


 彼らは自分たちの進んだ道を本当の意味では分かっていないのかもしれない。その道が近しい者達との別れに繋がる道だという事を。


「ケーニッヒ、母さんを頼んだぞ」


 ライオスは隠れて様子をうかがっていた、もう一人の息子へと声をかける。


「…父さん、僕も……」


「駄目だ」


 ライオスは息子の気持ちをバッサリと切り捨てた。


「お前に戦場は向かん。母さんの傍にいてやれ」


 無謀なほど勇敢で勇猛な兄、臆病だが冷静で聡明な弟。彼の自慢の二人の息子達。


「良く考えろ。お前なら俺や、ジュラが思いつかんような答えにたどり着くかも知れん」


 突然思いついた言葉だった。ふと脳裏に浮かび、気づいた時には言葉にしていた……


(今、この時に言うべき言葉だったのかもしれんな……)


「後を頼む」


 ライオスはそれだけ告げると、家を出る時も、その後も……決して後ろを振り返らなかった。


 立ち去る父の頭上には紅い……紅い夕焼けが広がっていた……


「はたしてあの夕焼けは吉兆か、それとも……」


 立ち去る父の背を胸に刻みながら、ケーニッヒはひとり呟く。


「良く考えろ……か」


 残された者たちを見回しケーニッヒは頭を抱える。

 

何も知らない様子で無邪気に笑う幼い子供。

 周りの雰囲気にのまれて不安そうな表情を隠せない子供。

 子供をあやすことで自身の不安を和らげようとする母親。

 立ち去る夫の背を心配そうに見守る妻。

 黙って見送る残ることを選んだ一部の男達。

 付いて行く事を許されなかった年若い少年達。


「はぁ~」


 思わず溜息が漏れる。


「あの~…すみません」


 どうするべきか。再びケーニッヒが答えの出ない思考の迷路へと潜り込もうとした時、突然後ろから声をかけられた。


「は、はひ?」


 思わず裏返った声を出してしまったことに赤面しながら、ケーニッヒは声をかけられた方、すなわち自分の真後ろへと顔を向ける。


「少しお聞きしたいことがあったのですが……取り込み中ですかね?」


 そこにいたのは黒髪を後ろで束ねた一人の青年だった。青年と言ってもまだどこか幼さを残す年頃。十五、六歳といったところか……

 目立ち鼻はすっきりとしていてどこか上品な印象を醸し出す。穏やかな微笑みと、落ち着いた口調が相手に安心感を与える。そんな青年だった。


「あ、ぼくシュウエンリッヒと言います。シュウっ呼んでください。よろしくです」


 そういって頭を下げる青年、改めシュウエンリッヒの姿に、慌てて返事を返し頭を下げるケーニッヒ。


「ケ、ケーニッヒです。ど、どうも」


「あ、シュウエンリッヒとケーニッヒ……なんか似てますね?」


 そう言うとシュウエンリッヒは屈託のない笑顔で笑う。


「た、確かに…」


 思わず笑い返してしまったケーニッヒ。完全にシュウエンリッヒのペースに嵌ってしまっていた。


「それで、何かあったんですか?」


「それが……」


 勢いのまま説明を始めるケーニッヒ。一通りの説明を終えたところで、今度はケーニッヒが問いかけた。


「そういえばシュウ……さんはどちらからいらしたんですか?」


 ケーニッヒはこの青年を見たことがなかった。という事は近くの集落から来たのではないのかもしれない。となれば商人かその小間使いか……良く良く見てみれば、青年はどこか異国風の服装をしている。上等な――おそらくは絹だろうか――生地で誂えられた黒のズボンと、袖の広いゆったりとした同じく黒の上衣。腰帯にも複雑な刺繍が施されている。


(もしかしてどっかの良いとこの坊ちゃんか?)


 ここでようやくケーニッヒの思考に、目の前の青年に対する警戒心が生まれる。しかし……


「シュウでいいよ。あんま年違わなそうだし。来たのはあっち。クロイツェル侯爵領」


「え…」


 そのあまりにも不吉な地名にケーニッヒの表情がたちまち凍りついた。


「ま…さか…」


「一応これでも侯爵旗騎下の護衛だったりして?」


「うそ……?」


「ホント」


 そう言ってにっこりと笑う。先ほどまでと同じ人のよさそうな笑顔……しかしその笑顔がケーニッヒには急に恐ろしいモノに感じられた。


「だ――」


「はい、静かに」


 慌てて大声を出そうとしたケーニッヒだったが、その時にはもう口を手で押さえられていた。いつ近づいたのかも分からない早業。

 自分の警戒心が正しかったこと。そしてそれを抱くのが遅かったことを、この時になって後悔するケーニッヒであった。


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