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短編

二月に消えた夢

作者: nab42

 隣に寝ていた彼女の香りと温かさを背中に感じながら、僕は起きた。二月のまだ日が昇ってまもない朝に、彼女の存在はありがたかった。

 僕は寝返りをうつ。まだ目は開けずに、彼女の頭があるだろう場所に手を伸ばし、触った。

 おや、と思い、僕は目を開けた。

 想像とは違って、彼女の頭はそこになかった。そこには頭の分だけ凹んだ、牛柄の枕があるだけだった。

 もしかして布団の中に潜っているのかなと思い、布団を捲ってみた。だが彼女はいなかった。

 僕は彼女がいた証である温かいシーツに手を置いて、考えた。

 彼女はどこに行ったのだろう。

 僕は布団から出て、ベッドに座った。青いカーテンの隙間から日が射している。

 部屋にあるこたつテーブルの上には、彼女のバッグと、水の入ったペットボトルがあった。どうやら、帰ったわけではないらしい。

 僕はペットボトルを手に取り、水を飲んだ。少しだけ尿意を覚えたが、まだトイレに行くほどではなかった。

 彼女はどこへ行ったのだろう。コンビニだろうか。

 僕はベッドから離れ、玄関へ向かった。そこに彼女の靴はなく、玄関の鍵は開けられていた。


 六時間が経った。その間僕は二度トイレに行き、三度外へ出た。不用心だなと思いながらも、玄関の鍵をかけずに。

 そして、僕は携帯電話に電話をかけた。しかし、なぜか繋がらなかった。

 少し気がひけたが、バッグの中を調べた。そこからは彼女が使っている赤い携帯電話が出てきた。かわいい熊のストラップも付いている。

 僕はそれを手に持って、もう一度電話をかけた。しかし彼女の携帯電話は音も鳴らなければ、震えもしなかった。どうやら電池がなくなっているようだった。

 僕は念のためにメールを送ることにした。


 今、どこにいる?


 メールはきちんと送信された。だが、きちんと届いたかどうか確かめようがない。

 僕は不安な気持ちで、ベッドに寝転がった。ジーンズとベルトの金具のせいで、寝心地は悪かったが、考え事をするには悪くない姿勢だった。

 事故にあったのだろうか。それとも事件に巻き込まれたのだろうか。……答えは出てこない。携帯電話の中身を見れば何か分かるかもしれない。しかし、いいのだろうか。恋人とはいえ、盗み見るという行為はよくないことだと思う。

 少しだけ、『浮気』というワードが僕の頭をよぎった。しかし、そんなふうに考えることはどうしてもできなかった。バカップルと言われてもいいくらい、僕らはお互いに夢中だったし、二人でいるのが他の誰といるよりも心地よかった。もちろん喧嘩はしたが、それが尾をひくことはなかった。そして、最近僕らは喧嘩していない。彼女がいなくなる理由なんて……。

 僕は大きく息を吐いた。

 やはり、どうしても分からない。彼女はどこにいったのか。

 僕は起き上がり、ベッドに座った。朝と違うのは、気温と日差し、こたつテーブルの上にあるペットボトルとバッグの位置。そして、僕の心配の大きさくらいだった。その他のものは全部変化していないような気がした。

 十五分くらいそのままでいただろうか。複雑にでもシンプルにでもいいからと、どうにか結論を出そうとしたが、結局、納得いくものは出てこなかった。そして僕は意を決して、携帯電話の中身を見ることにした。

 だが、そのためには外に出て、充電器を買わなければならない。僕と彼女の電話会社は違う。

 僕は、今日で四度目の外出準備を始めた。彼女が選んでくれたダッフルコートを着て、首に白い手編みのマフラーを巻いた。

 コンビニへは僕の住んでいるマンションから徒歩で二分のところにあった。もちろんもう少し歩けば別のコンビニがあるが、特に好みがあるわけでもないので、僕はいつもそこに行っている。彼女もよくそこに寄ってから、僕の部屋へと遊びにきていた。

 僕はコンビニに入って店内を見回した。客は僕だけだった。

 僕は彼女の携帯電話に合った電池付きの充電器を手に取り、ついでにハムサンドと野菜サンドをレジへと持っていった。今日は水しか摂っていないなと思うのと、お腹が空いているのに気付いたのはほぼ同時だった。

 僕は財布から一万円札を出して、それを買った。十円玉数枚は、募金箱に入れた。

「ありがとうございました」

 僕は店員のその言葉に軽く会釈をした。彼女はいつも、「ありがとうございます」と、そのマニュアルに向かって返していた。僕もそれに倣おうと思っているが、どうにも恥ずかしくてできない。

 僕は鍵をしないままのドアを開け、またすぐに部屋へと戻ってきた。そして、どこに充電器の差し込み口があるのだろうと、くるくると赤い携帯電話を回した。

 それが見つかると僕は充電器を入れ、電源ボタンを押した。

 メイン画面はしばらくして、出てきた。そこには随分前に彼女に送った、虹の写真が表示されていた。

 すると画面が切り替わり、メール受信の表示が出た。同時に童謡「森のくまさん」の着信音が鳴った。

 僕はそのメールを開いた。

 

 今、どこにいる?

 

 書いてあるのはそれだけだった。

 さて、と僕は後ろめたさを感じながらメールボックスを探した。操作方法に少し手間取りながらもなんとか探し当て、僕はそれを開いた。

 そこにあるのはメールがひとつだけだった。

 僕はそれを開く。しかし、それはさっき送った「今、どこにいる?」というメールだった。

 なぜ、他のメールがないのだろう。昨日も、一昨日も僕はメールを送った。そして、昨日、彼女がこの部屋にいたとき、彼女は誰かからメールを受け取っていたはずだ。

 ぼくは疑問に思い、一つ前の画面へと戻った。

 やはりおかしかった。そこには受信フォルダしかなかった。彼女は友人、知人、家族、僕、それらすべてのメールを一つのフォルダで管理していたのだろうか。

 僕は続けて電話帳を開いた。

 しかし、そこには誰の名前も、誰の連絡先も入っていなかった。あるはずの僕の名前さえもなかった。


 僕がそれからどこへ行ったのかは、誰もが分かるだろう。僕は彼女が住んでいた、彼女の実家へ行った。

 だが、そこにも彼女の姿はなかった。そこにあったのは、見たこともない三階建ての建物で、表札には知らない会社の名前がでかでかと書かれていた。

 じゃあ、次に僕が行くところはどこだろう。誰か分かる人はいるだろうか。僕には分からなかった。僕は焦りと動揺でどうにかしてしまった。知らない道を方向も分からないまま歩き始めた。

 結局僕は、しばらくの間どこかへ歩いて行って、なんとなく自分の知っている道を見つけたときに、部屋へと帰ろうと思っただけだった。

 しかし部屋へと戻っても、僕の冷静さは戻ってこなかった。何が起こっているのか分かっていなかったし、何をすべきなのか、行動の選択肢も作れていなかった。

 そうすると過去の事を蒸し返すようになった。もしかして自分は間違えて、違う家へと行ったのではないか、あの会社の隣が実家だったのではないか。……だが、そんなはずはない。そんなはずはないのだ。

 僕はダッフルコートのポケットから自分の携帯電話を取り出し、見つめた。誰からの連絡も入っていなかった。

 連絡? 

 僕はそう思って、あることを思い出した。彼女と僕の共通の友人である響子のことだった。

 僕は寒さか、不安のせいで震える指をぐっと抑え、響子へと電話をした。

 一回、二回とコールが耳元で鳴る。三回、四回、そして五回のところで彼女は電話に出た。

「もしもし。どうした?」響子は相変わらず陽気で元気な声だった。

「響子? 俺」

「うん。分かってるけど。――どうした? 声震えてるけど」

 声が震えている。自分でも気付いていた。

「ああ。……美代がいなくなった」

「美代?」

「ああ。バッグと携帯電話置いて、消えた」

「……」

 響子は何かを考えているのか、何も言わなかった。

「……何か知らないか?」

「……」

 響子は何か知っているのだろうか。この沈黙は何なのだろう。

「あのさ」

「うん。何か知ってるの?」

「いや、……美代って誰?」

 響子は半分笑った声で言った。

「美代だよ。中学の頃からの友達だろ?」

「誰と?」

「響子とだよ」

「私と? 私、美代なんて子知らないよ」

 ぐらりと部屋が揺れ、回った。僕はベッドに手をついて、なんとか倒れずに済んだ。

「高二のときに、俺に紹介してくれたじゃないか」

「高二のとき? 誰か紹介したっけ?」

「したよ。そして、それからずっと俺の彼女じゃないか」

「彼女?」響子はなぜか笑った。「あんた彼女いたんだ」

 僕は拒絶するように電話を切った。

 僕には今がどこなのか、今がいつなのか、何が起こっているのか、全く分からなかった。それは本当に、本当に全くだ。呼吸とは何なのか、なぜ今が冬なのか、なぜ僕は困り、泣きそうになっていて、なぜ響子に電話をしたのかさえ分からなくなった。誰か、もしくは何かに隙を見せたら、僕は失神してしまいそうだった。僕が気を失わずに済んだのは、美代のことを考えているおかげだった。

 美代はどこだ。美代はどこへ行った。僕はそのことだけを考えた。それが息になり、冬になり、やがて響子に電話した理由になった。


 それからまた五年が経った。僕は今、あの頃と同じ部屋に住んでいて、彼女のバッグとその中にあった化粧品や財布、そして携帯電話をきちんと持っている。しかし、彼女の携帯はあの日のうちに使えなくなり、彼女へ居場所を尋ねることもできなくなった。僕はあのベッドの片方を空けて寝ている。だがもう温かさはない。時間は何も言わず流れていた。

 あれから僕は響子と会い、美代のことについて聞いた。彼女は美代のことを知らないと言い、僕はそれに反論した。だが、本当に響子は知らないようだった。彼女が持っていた中学と高校の頃のアルバムを見せてもらったが、確かにそこに美代はいなかった。僕はそれに驚き、急いで実家へと戻った。そして部屋にあったアルバムを見た。響子のものと同じで、そこに美代はいなかった。だが、美代は必ず存在していたはずなのだ。

 僕は一番後ろのページを見た。クラスメイトの言葉に埋もれずに、そこには美代からのメッセージがあった。


 卒業おめでとう。これからもよろしく。


 彼女はいったいどこへ消えたのだ。あの日のあの時間を、彼女は越えられなかったのか。彼女の家族も、越えられなかったのだろうか。

 僕は五年経った今でも、彼女を探している。そのせいで、僕の人生はうまくいってないのかもしれない。大学を辞め、この世界に居続けるために仕事を始めるが、それもすぐに辞め、また始め、すぐに辞め。次第に仕事がなくなり、今はもう何もできなくなっている。それでも僕は彼女を探している。ずっと探して、探して……。

 最近になってちらりと視界を掠めるものがある。ベランダにある一本の綱は、僕が用意したものだろうか。

 全く分からない。全く分からないが、たぶんあれも美代なのだろう。

 彼女はどこへ消えたのか。君が消えたのなら、僕も消えるべきなのかもしれない。

 美代。僕は君のために死ぬことはできなかったが、君のために生きることはできたんだ。君の消えた世界では、もうその夢が叶うこともないのだけど、それは本当のことだったんだ。

 毎年二月になると、僕は彼女のことをいつも以上に強く思いだす。消えた彼女は夏の太陽になり、過去から僕の背中を焦がして、僕の影を未来に作っている。

 もう僕にできることは少ない。この暗い影を踏みながら歩き、美代が正面に来るのを待つか、美代を使って首を吊るかだ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 最後の文章、直接的ですね。フワフワときてドスン、みたいな。 しっかし、不思議で、奇妙で、怖いこの小説が、明るい話に化けるらしいというのに興味津々です。長編期待してます!
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