最終章|内閣官房報告書:“命令のなかった戦場”
日時:2029年5月25日 15:00 JST
場所:永田町・内閣官房 地下第3会議室(通称:灰色会議室)
■1|議題「再発射阻止に係る対応の妥当性について」
議長席に座る**杉浦英司・内閣官房副長官補(事態対処・危機管理担当)**は、
資料の束を静かに机に置いた。タイトルは、硬質な白抜き活字で記されていた。
『再発射に関する対応及び命令発出過程に係る検証報告書(案)』
― 通称:「命令なき戦場」報告書
■2|責任者不在の意思決定プロセス
杉浦は報告書を読み上げた。
「…自衛隊法第76条による防衛出動が行われず、
武力攻撃事態認定も回避されたため、当該行動は**“準有事”として処理された**」
「当時、首相官邸における“発射命令権限者”は、
複数省庁との事前調整中につき、発令を見送った」
黙ってうなずくのは、内閣法制局からの参与。
その口から出たのは、次の一言。
「正確には、“命令が出なかった”のではなく、“命令を出せなかった”ということです」
■3|「自衛」の定義をめぐる法務省抗議文(抜粋)
会議室に提出された資料の一枚に、法務省刑事局の意見書があった。
「自衛権の発動は“明白かつ現在の危険”に限定され、
TELの位置が判明していても、発射される“意図”の証明がなければ、先制攻撃とは見做される」
「結果がいかに壊滅的であっても、意図の証明なき攻撃は違憲性を孕む」
その言葉に、誰も反論しなかった。
そこにいた全員が理解していた。
この国では、“撃てる”ことより“正しく撃てるかどうか”が優先されるのだと。
■4|参考資料:「命令不発の時間軸」
報告書には、次のような表があった。
時刻内容担当省庁備考
05:43TEL起動確認内閣官房危機管理監に報告
06:11米軍より攻撃要請外務省口頭通報のみ/記録なし
06:27防衛省・統合幕僚監部による「照準完了」通知防衛省閣議前につき対応見送り
07:02首相官邸にて対応協議開始官邸意思決定主体未確定
08:03ミサイル発射北朝鮮都市圏郊外に落下、死者8名
08:17首相談話発出:「再発射に対して厳重に抗議する」官邸実効対処はなし
※注記:「誰が命令責任を負うか」の議論に終始し、実際の命令発出はなかった。
■5|記録から削除された発言
ある委員が手元のメモから、記録に載らなかった発言を読み上げた。
「“撃たなかったこと”は結果的に都市を犠牲にしたが、
**“撃っていたら憲法を殺していた”可能性がある――**と、ある補佐官が述べた」
報告書には載らなかったその一言に、室内の空気が凍りついた。
■6|報告書の結語:戦えぬ国の現在地
杉浦副長官補が最後に読み上げた“報告書末尾”には、こうあった。
「今回の事態は、自衛隊法・内閣法制・国際法・政治決定の交錯の中で、
“反撃可能であったにもかかわらず、法令遵守のもと撃たなかった”という実例である」
「その結果として、軍事的には“敗北”であり、法的には“成功”であった」
「この二つを矛盾なく同時に抱える国家を、我々は今後も維持できるのか――
それが次の国会で問われるべき課題である」
エピローグ:官邸地下通路にて
会議解散後、杉浦は官邸地下通路を歩きながら、ひとりつぶやいた。
「“撃てなかった”ではない。
我々は、**“撃てる能力を持ちながら、制度の壁で見殺しにした”**のだ」
「この国の主権とは、“撃てないこと”そのものだったのかもしれないな」