半端仏師求道記
洛外は寂念寺、のみが木を穿つ音が響き渡る。仏師にとって日常の一部のはずのそれは、恒然に驚きと当惑とをもたらしていた。
のみは、先刻恒然が彫り終えたばかりの阿弥陀如来の顔に深々と突き刺さっていた。
「何をなさいますか!」
平安の世が過去となり久しい今、動乱は不安を呼び、人々が仏を求める心は強くなるばかりである。かくの如き時代に生を受けた仏師として、恒然は数え切れぬほどの仏像を生み出してきた。
しかし、その中の一つとして此度のような末路を辿ったものはなかった。
当惑に一抹の怒りを加えた声を聞き、のみを振るった老人はゆるりと振り向いた。
右大臣、藤原輔通。恒然とは先代からの付き合いであり、帝に献上する阿弥陀如来像の制作を依頼してきた男でもある。
輔道は恒然を静かに睨んだ。その瞳に燃える感情を図りかね、恒然は口を噤んでしまう。 甲高い声が寸の間の静寂を破った。
「やいやい何すんだい!」
「あび! ここには入るなと…」
果たしていつから隠れていたのか、齢十にも届かぬ少女が物陰から現れた。名をあび、という。一年前、飢えて倒れていたところを恒然に干飯を恵まれてから彼を慕っている。尤も、恒然からしてみれば泣き叫ぶあびの声が制作の邪魔になるが故の所業であったが。「先生の仏像をぶっ壊すなんて、贅沢な爺さんだぜ!」
あびの言葉もあながち的外れではない。齢二十を越えたばかりなれど、恒然は既に当代随一の仏師として名を馳せていた。
そんな恒然からしても会心の出来であった此度の阿弥陀像。それを破壊するのは確かに贅沢な暴力と言えようが、輔通は怯まない。
「空然ならかような半端物は彫らぬわ!」
亡き父の名は恒然から反論の余地を奪った。 伝説の仏師、空然。彼の技量は当代のあらゆる仏師を凌駕し、その被造物には一種の霊験が宿ると言われている。曰く、とある寺で盗みを働かんとした小悪党が、空然の不動明王を目にした途端改心したとか。
しかし、偉大過ぎる巨人の影は恒然の人生に影を落としていた。当代随一の称号を得てもなお、父と比較され続ける日々―むしろ、恒然自身が誰よりも己と父を比較し続け、埋まらぬ溝に苦しんでいた。
当惑は納得に変わり、越えられぬ壁への無力感だけが残っていた。仏師の道を選んでから幾度も味わってきた無力感である。
一方、空然をよく知らぬが故にか、あびはなおも輔通に食って掛かる。
「半端物なもんかい! 先生の仏像はなあ」
「仏像ではならぬのだ!」
輔通はピシャリと言った。
「空然曰く、像を彫るは仏師にあらず」 そして、カッと目を見開いた。
「仏師とは、仏を彫る者なり!」
「はあ?」
呆れたように溜息をつくあびとは対照的に、恒然は雷を受けたような衝撃を受けていた。
「全てを捨て、空然が辿り着いた真理ぞ」 そういい捨て、輔通は去っていった。
***
「気にすることないって先生。先生なら仕事なんていくらでもあるだろ?」
背中に寄りかかるあびの慰めにも答えることなく、恒然は輔通の言葉を反芻していた。 仏像ではなく、『仏そのもの』を彫る。そもそもの心構えから父とは水を開けられていたことを思い知る。しかし、それを知ったからとてどうすればよいかはとんとわからない。 まして、此度の阿弥陀像献上の期限―輔通が去った後、期限が延長されたという旨の書状が届いた―までに父と同じ境地に至れるとは到底思えなかった。
寒々とした絶望感から目を逸らすように、恒然は父の生前の姿から手掛かりを見出そうと試みていた。だが、恒然は己が父のことを碌に知らぬことを痛感する。
仏師空然が『全てを捨てた』という表現は何の誇張もなく、人生の大半を独り工房に籠って過ごしていた。故に、恒然は父から彫刻の手ほどきを受けることはおろか、まともに会話することすら数えるほどしかなかった。 だが、或いはそんな父の姿こそが真理へと至る道程ではないか?と恒然は思い至る。父に追いつき、超える。その為には少なくとも父と同等の修練を積む必要があろう。
そう考え、恒然は立ち上がる。支えを失ったあびがこけたが、恒然は振り返らなかった。
***
それからの恒然の行動は速かった。あびや僧侶達の反対を押し切り、恒然は寂念寺の裏手の深山に一人籠り、制作に没頭していた。
「足らぬ、足らぬ」
ぶつぶつと怨嗟の如く呟く姿は、ざんばらの髪や肉の削げ落ちた体も相まり、他者が見れば幽鬼の類と勘違いしてもおかしくない。 これほど一心に打ち込んでなお、恒然の力量は山籠もり前に比して明確な成長を見せてはないかった。それも道理。元々恒然は『彫刻師としては』十分に一流の水準に達していたのである。或いは伸びしろなど既に消え失せているのかもしれない。
否! と恒然はその考えを必死に打ち消した。修練が足りぬだけだ。いつかきっと亡き父に追いつけるはず、と。
そして再びのみを振るわんとしたその時である。ポトリ、と恒然の手がのみを落とした。
「え」
思わず漏れた声は恒然自身にすら辛うじて聞こえる程度にか細かった。そして、傾く視界、倒れ伏す身体。
最後に食事をしたのはいつだったか。恒然の肉体は命を内に留める力を失いつつあった。 待ってくれ! と恒然は叫ぼうとするが声にならない。真理に辿り着く前に死にたくない。しかし、瞼は重くなるばかりであった。
***
「あ、やっと起きた」
恒然は口に何かを押し込まれる感覚で意識を取り戻した。目を開けるとと、そこには「馬鹿だなあ。飯があるのに倒れるかね」 恒然が死にかけていたことには気づいていないのか、軽い口調で少女は言う。あびが恒然に膝枕をしながらふやかした干飯を食べさせていた。
「ほら、水もあるよ」
あびは水筒を恒然の口につける。肉体が生気を取り戻していくのを感じた。
あびが何故自分を慕い、決して楽ではない寺の雑務をこなしてでもその側にいようと努めるのか。恒然は真に理解したことはなかった。だが、今ならわかる。
腹が減った者に飯を呉れてやる、至極当然の行為である。しかし、それは命を繋ぐというこの上なく尊い営みでもあるのだ。それを行う恒然の姿にあの時のあびは― そして今、恒然はあびに―見出したのだ。
「あび」
と恒然は呼びかけた。応じるあびの笑み、その後ろに日輪が輝いていた。
***
数日後、恒然は輔通の邸宅を訪れていた。己の被造物が内裏の貴族らに、そして帝に受けた評価を知るために。
輔通は厳格な表情を崩さぬまま目を閉じた。
「合掌、しておった」
輔通が包みを解いた瞬間のことであったという。溌溂とした生命力すら感じる阿弥陀如来―であると同時に、とある少女の似姿でもある―に、人々は吐息を漏らし、自ずから手を合わせていた。
加えて、輔通は御簾の後ろ、寡黙な帝が呟いたのを確かに聞いたという。
「『美事』、と」
息苦しさを覚えて初めて恒然は自身が呼吸を止めていたことに気づいた。その胸中に渦巻くのは喜びか畏れ多さか、恒然自身にも判然としない。
ふと視線を上げると、輔通が僅かながらも目を細めてこちらを見ていた。
「大儀であった」
恒然は総身の震えを押さえるように拳を握ると、深々と平伏した。
しかし、手放しで褒める輔通ではない。
「まあ、まだまだ空然には及ばぬがな」それでも、不思議と恒然の心に焦燥の炎は灯らなかった。
「そちも全てを捨て、道を究めることだ」
「お言葉ですが、私は何も捨てませぬ」 途端、輔通の顔が険しくなる。だが、恒然は語り続けた。
「仏とは人の営みに、心に宿るもの。それが私の至った真理」
恒然は顔を上げ、輔通を見据える。
「なれば、ただ人として生きる日々の中にこそ、仏を彫る手掛かりがございましょう」
「青い、甘すぎるわ」
輔通は憮然として言った。
「それでは空然は超えられぬぞ」「超えるつもりはございませぬ」
輔通の表情が苛立ちから驚きへと変化した。「私の道と父の道は別物にございます。私は、
私の道を究めて参りたく存じます」
恒然は輔通を見つめたまま言った。しばしの沈黙の後、輔通は口を開いた。
「何とも半端なものよ」
恒然は反論しようとしたが、輔通の顔を見て口を閉じた。
「精々、励むがよい」
輔通は眉一つ動かさず言った。しかし、恒然はそこに輔通の微笑みを見た気がした。
恒然は今一度平伏し、輔通の前を去った。
「先生!」
門の外にあびが待っていた。輔通はその手を取り、力強い足取りで歩き出した。