N-8 敗戦国の王子
アルテタが出て行った後、クープランはドアを見つめていた。
ぬるくなった紅茶を片手に。
ゼマンはまだ戻ってこない。
背後にはエレムの書物が棚に詰まっている。
エレム神は農耕と戦の神で、
未開の土地を現族民やその神と戦争し、奪い、広げ、開墾した。
酒好きで女好きの気性の荒い神様だとされている。
敗戦するまではエレムがナーゲンの主教だった。
だが現在の主教はエミル、平穏と繁栄の神
エミルの中でも祖エミルはかなり穏やかな教義だ。
"奪わず与えよ"
"平穏を乱すな"
"罪人にも慈悲を与えよ"
"愛するものを愛すように皆を愛せ"
クープランには特定の信仰はなく、
ただ、観察者としての意見があった。
エミル信仰は戦争も内乱も抑止してくれる、
実際ナーゲンは重い税率を課しているが争いごとは
本当に少ない。
だが、本質はそこにない。
"しない"のではなく
"出来なく"なるのが前提。
教義が平穏無事と友愛を是とするからだ。
信仰と教育の課題だがエミルの影が見えて話題にすることも憚られる。
信者が大半になった現状、既に廃教とすることは出来ない。
エミル教国からは"善意"の寄付を"国が"受けている。
だが、抗うものもいる。
強い意志を持って生を望むものが育たないと
ナーゲンは早晩食い潰されるだろう。
王の首まで届かなくとも、膝まで、腰までくらいは、
他国の息が掛かった貴族がいてもおかしくない。
高い税率を領民に課し、その殆どは国に納めなければならない。
当然、民は飢える、死ぬ、減る。
収める税も木端貴族ではギリギリだ、自身が農民してる領主すら多い。
だが下級貴族にも高く売れるものもある。
特権だ。
貴族の身分が欲しい他国の者は、生きるか死ぬかの木端貴族に迫るだろう。
"お前の若い美しい娘と結婚してやろう、そしてお前は隠居しろ"
"今後5年は働かずに済む、お前の民が飢えることも無いだけの財を渡す"
"さあ、どうする?"
そういう下級貴族がたくさんいるのがナーゲンだ。
そうやって貴族が貴族ではないものになっているのがナーゲンだ。
国に責めるだけの威信は既にない。
敗戦するというのはこういうことだ。
ナーゲンはもう身動きを取ることさえ重い枷がついて回る。
やがてドアが開いてゼマンが入ってきた。
そして顔を掻きながら言った、
「お茶が冷めてしまいましたね」
クープランが窓の外を見ると少し紅くなり出していた。
飲み干したまま空になったティーカップをテーブルに置き、
アルテタが手を付けなかったティーカップに手を伸ばして、
それを味わった。
「冷めても美味しいよ」
ゼマンは少し笑って
「シスターレヴィーネに直接言ってあげて下さい、
きっと喜びますから、
途中まで彼女が伴をします」
クープランは頷いて立ち上がり、縮こまった体を存分に伸ばした。
「そろそろ出発してください、お気をつけて」
ゼマンは立ったまま、王子を待った。
クープランはゼマンの開け放したドアを通って礼拝堂に出て、
エレムの像の前に立ち止まって、少しだけ跪いて祈った。
その間、ゼマンはずっと側に立っていた。
祈りもすぐに終わって立ち上がり、
背後を見ると、出口にレヴィーネを見つけて笑顔で彼女に近づいた。
クープランはシスターレヴィーネの淹れたお茶にお礼をつげた。
「ちょっと考え事してたら紅茶冷めちゃったんだ、
でも冷めてもおいしかったよ」
レヴィーネはお茶のお礼を聞いて手を口を隠しながら微笑を浮かべた
「冷めても美味しい秘密があるんです、
ゼマン様も考え事してよく紅茶のこと忘れちゃうから
工夫してるんです」
そう言ってクスクス笑いながら外へと歩き出した。
出口に残ったクープランは石像を振り返り、
ゼマンに手を振った。
「行ってきます」
王子は外へと飛び出した。




