表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/20

009)設計課技術職 夏原主任の憂鬱

夏原(なつはら)さん。X通り側の耐力壁(たいりょくへき)が足りないみたいです」

隣りの席の真名部(まなべ)君から報告があった。


彼には新しい物件のCAD入力をしてもらっている。


最近になってやっと、こういった報告もできるようになった。

それまでは壁の耐力が足りないと知りながらも、何も言わず、そのまま作業を終了する子だった。


真名部君で指導する子は何人目になるだろう。


心を病んだりして、一年耐えられずに辞めてしまった子達も含めたら八人目か。


新入社員の教育は、どの子も手探り状態で進めてきた。

社会人経験が無い上に歳の差もあるから、こちらの常識が通じずに驚かされることも多い。


社会という色で濁っていない彼らの考え方は、個性に富んでいる。

Aパターンの時はBで対応するとか、決まった攻略ルートが存在せず、成功経験のあるルートでも、その子に合わせて加筆修正が必要になることばかりだ。


特に真名部君は何を考えているか、心が読みにくい。

無口な上に、自分の想いをまとめるまでに時間がかかる子だというのもある。

想いをまとめるのに時間がかかるということは、リアクションを起こすまでにも時間がかかるということだ。


物事に対して早く方針を決めたい、簡単に言うとせっかちな私は、その間が待てない。

彼が何か言う前に決定して指示を出してしまう。


意志疎通が望むほど進んでいない原因は、そんな自分にもあると反省はしている。

反省はしても、反射的に言葉が出てしまうことが多く、盆休み前のこの時期になっても、師弟関係と呼べる間柄が確立できているとは言えない。


「よく気付いてくれたね。報告ありがとう」


真名部君達の世代は褒めて育てられることに慣れている。

むしろ、それが当たり前だと思っているはず。

だから私は事あるごとに褒めるように心がけている。


外線電話をワンコールで受けた。

頼まれた部数を間違えることなくコピーできた。

大きな声で挨拶した。


そういった、素通りしてしまうほどの、当たり前過ぎる現象も丁寧に褒めてきた。


褒めることで真名部君と信頼関係が築けると、楽観視している訳では無い。

彼にとっての、当たり前の環境を整えることから初めているつもりなのだ。


馬鹿にされていると、逆に本人が誤解しないか心配になるくらいに褒めても、何の反応も無い。

環境整備すら上手くいっているのかどうか、だんだん分からなくなっている。


「どの程度足りないの?」

「パネル二枚分ですね」


「だったら、物入れとトイレの向きを変えてみて。そうしたら、このラインに壁が取れないかな」

真名部君のモニターを見ながら、モニター上の図面をなぞるようにして指し示した。


「やってみます」

こうやって考え方を指導している時は、まだ気が楽だ。


CADのシステムは、日々次々に更新されてくる。

先月までできなかった機能ができるようになったり、複雑な手順を踏まなくても、クリック一つの工程で済むようになったり。


使う側のアップデートも必須になる。

CADの進化に合わせ、仕事のやり方も年々進化させていかなくてはいけない。


この先はもっと進化のスピードは加速していくし、いずれAIも導入されるだろう。

十年後は今の仕事の手順など、全く必要無くなっている可能性もある。


今、必死になって覚えさせている常識や手順も、いずれ不必要な知識になるかもしれない。

そう考えてしまうと辛い。


若さは新しい技術にもすぐに順応できる。

昔、夏原さんからあんなことを教わったけど、無意味だったなと、いつかこの子達に、あの時間を返せと恨まれたり、馬鹿にされたりすることを想像してしまう。


人気(ひとけ)の無い商店街で、止まったままのアナログ時計を見ると、自分のことのように思えて悲しくなるのは、未来の自分と重なるからだろうか。


午後六時の終業チャイムが鳴った。


「僕、帰ります。お先に失礼します」

真名部君がすくっと立ち上がって、私に挨拶した。


「お疲れ様」

無理に笑顔を作って見送る。


残業を強制は出来ない。


確かに今日が期限の作業ではないが、やりかけた仕事くらい、切りの良いところまで終わらせてから帰りたいという気持ちが、あの若者には欠片も無いらしい。


どんな業界でも同じだと思うが、特に新人の時は仕事に対して情熱が必要だ。

熱い気持ちは周りにも伝わるからサポートも得やすいし、覚えも早くなる。


いずれ情熱など無くても、惰性で仕事をこなせるようになってしまうが、新人の頃から仕事に対して情熱が持てない子は、そもそも、その業界に興味が薄いのではないだろうか。


突き放してしまえば楽になる。


毎日持ち上がる彼への落胆の気持ちが、私に冷たい対応を促す。

そして私は、毎日自分の中の黒い感情を宥める。


そんなことはない。

真名部君はまだ、仕事に対して、気持ちの入れ方を知らないだけなのだ。


仕事への気持ちの入れ方か。


仕事への情熱が当たりのように備わっていた私には、それをどうやって教えれば良いのか分からない。

仕事への情熱どころか、知識を身に付けることにすら貪欲でない子を、どうやって導いて行けば良いのだろう。


新人教育は、こんな風に毎回違う問題が立ちはだかる。

自分は無力だ。

今まで教育を任された子達に、本当に教えたいことを教えられた子は一人もいない。


「夏原さん。まずい事に気が付いてしまいました」

足早に寄って来た田乃崎(たのさき)君が、こそこそと言った。


まずいと聞くだけで胃がチクリと痛む。


堀市(ほりいち)様邸なんですが、確認申請に添付した図面が、お客さまに承認していただいた最終図面と違ってます」


家を建てることを、役所の建築主事(けんちくしゅじ)などに確認してもらうための申請行為を『建築確認申請』と言う。

提出する申請書には、建物の図面も含まれている。


申請書類を確認してもらい『確認済証』を交付してもらわなければ、建物の着工はできない。


堀市様邸の確認済証はとっくの昔に交付されている。

既に建物の完成が近い時期だ。


「違ってるって、どういうことなの?」

「最終段階の打ち合わせで、一階北側の部屋の収納を無くして、部屋を広くしたんですが」


堀市様邸では当初、田乃崎君のサポートとして、私も担当者の一人に加わっていた。


最終打ち合わせの頃は、田乃崎君のほうが、お客様と人間関係ができていたから、私はあまり関与しないようにしていたのだ。

ほとんど打ち合わせにも出席していなかったから、その経緯は知らなかった。


「確認申請に添付した図面が、変更前の状態のままになってるんです」


よくあることではある。


建設途中でも、お客様からやっぱりここを変更して欲しいなどの要望が出るから、対応できることには対応する。

その結果、申請時の図面と異なるという事態が起こる。


問題は、その変更によって建築基準法に違反することにならないかどうかだ。

『建築確認申請』は新築する建物が、建築基準法に違反していませんと、建築主(けんちくぬし)が宣言する書類でもある。


「採光と換気の面積は大丈夫だった?」

私は即座に考えられる懸念を口にした。


部屋を広くしたということは、建築基準法で定められた採光と換気の必要面積が増える。

計算結果によっては、現状の窓の大きさでは足りなくなる可能性があるのだ。


田乃崎君ももう、その辺りまでは自分でも思い至るはずだ。

「はい。そこは大丈夫でした」

私はほっと胸を撫で下ろした。


考えてみれば、部屋を広くした時点で、採光や換気計算をし直して確かめるのは、申請行為に関わらず、建築士としての基本だ。


「じゃあ、何がまずいの?」

建物が完成するまでに『軽微な変更届』を提出すれば済む話ではないか。


月元(つきもと)主任です」

私はあっと声には出さずに、顔を曇らせた。


堀市様邸の確認申請書類作成は、月元さんが担当した。

月元さんは予定に無い作業が増えることが大嫌いな人だ。

大した手間のかからない作業でも、快く引き受けてくれるとは思えない。


「最終打ち合わせは、申請書類提出の前でしたから、タイミング的に差し替えは充分可能でした」

きっと彼女は、そこも突いてくるだろう。


自分達で月元さんの代わりに書類を作成するのは簡単だが、それはそれで(かど)が立つ。

しょんぼりする田乃崎君と一緒に、私もため息を吐いた。


私達はこっそりと月元さんの様子を伺った。

いつも以上に、不機嫌な気配を身にまとっているように見えるのは気のせいだろうか。


「あっ、ちくしょう」

月元さんがモニターに向かって叫んだ。


不機嫌なのは、気のせいでは無いらしい。

CADシステムが更新されたばかりの時は、手順が変わって誰でもイライラする。

きっと、それが原因だ。


「伝えるのは明日にしよっか」

私と田乃崎君は頷き合った。




翌日、堀市様邸の『軽微な変更届』の件は、何とか月元さんを説き伏せるのに成功した。

想像していた以上の言葉の攻撃を私達二人は浴びせられたが、最後には了承して、すぐに作業にかかってくれた。


ウチの会社は実務での大変さ以上に、人間関係での苦労が多いと思う。

営業との調整や工事課への説明、設計課内にも月元さんのような人がいる。


「夏原主任。ちょっと来て」

雪下(ゆきした)課長に呼ばれ、設計課は今、月元さんよりも、もっと厄介な人を抱えていたことを思い出す。


課長と役職の付いた人は、こうして部下を呼び付けることを、何とも思わない人が多い。

課長を経験した人がその上の地位へ行くから、必然的に課長以上の役職の人達も同じ傾向になる。


在り来たりの光景だが、合理的におかしいと、私はずっと理不尽に感じてきた。


物件を何件も抱えているプレイヤーの私達のほうが、物件から手の離れた課長職より物理的に忙しいのは明らかではないか。


そんな忙しい部下の元へ足を使って歩み寄って来る手間を惜しむどころか、手を止めさせて呼び付けるなんて、人としてどうなんだろう。


そんな愚痴を心の中に渦巻かせながらも立ち上がり、課長席へ向かった。


春田(はるた)アパートなんだけど」


課長のデスク上には、敷地全体と建物の外形が記載された配置図が広げられている。

いつも乱雑に置いてあるファイルや書類の束は左右に退けられ、かろうじて、図面が置けるだけのスペースが作られていた。


春田アパートは営業の山池(やまいけ)君から、直接私に担当して欲しいと依頼があった物件だ。


もちろん、担当して良いという課長の許可は得ていたが、物件の詳しい内容は課長にはまだ伝えていなかった。


何故今このタイミングで、春田アパートの図面を課長が見ているのか、謎だ。


元々課長は、自分から物件に首を突っ込んでくる人では無い。

こちらが報告や説明をしても、さも面倒そうな顔を繕いもせず、部下の話も耳に音を入れているだけという態度を見せる人なのだ。


「ここの既存のブロック塀は残すの?何で?」

課長は、隣りの敷地との境界線に元々建っているブロック塀を指して言った。


「現場で確認したら、ブロック塀の上に境界杭が打ってあったので、隣地の許可が無くては、壊せないと判断しました」


境界杭は敷地の境界ポイントを示す杭だ。

勝手に移動したり撤去したりできない。


「お隣りと協議すればいいじゃない」

そんなこと、言われなくても分かっている。

ムッとした気持ちが少し顔に出てしまった。


「営業にも確認したのですが、まだ隣地の方と連絡が付いていません。連絡が取れ次第、方針を決める予定です」


「何だ、そうなの。分かったわ。そう言うことは、ちゃんと報告しなさいね」

はいと素直に答える気になれなかったが、一応、はあと意欲の無い返事を返した。


「それから、熱源はどうするの?前面道路にガス管が通って無いから、プロパンガスにするんでしょ?」


建設予定地の前面道路にガス管が通って無い場合で、ガス給湯器やガスコンロを設置する時は、新たに都市ガスのガス管を道路に敷設(ふせつ)するか、プロパンボンベを敷地内へ設置してエネルギーを確保することになる。


「オール電化の予定です」

熱源を全て電気にする場合は、ガスの供給は必要無い。


「最初から電気と決めないで、プロパンガスも候補に上げなさい」

不愉快そうに言う課長の真意が分からなかった。


「それはちょっと難しいと思います」

そう言った私に、課長は鼻筋の通った顔をつんと上げ、冷たく睨んできた。

気圧されないように、私はみぞおちに力を入れて続けた。


「太陽光発電設備を設置する計画を勧めていますから」


太陽光発電設備設置に関しては、全社を上げての取り組みだ。

課長に文句を言われる筋合いは無い。


「太陽光を勧めてたって関係ないわよ。色んな選択肢があったほうが、お客様のためでしょ」


その時ふいに思い出した。


以前にも課長は、プロパンガスかどうかを妙に気にしていた物件があった。

その物件は最初からプロパンガスで計画していたから、課長の言動も気に留めるほどではなかったが。


あれは堀市様邸だった。

春田アパートの建設地は堀市様邸と近い。

プロパンガスは建設エリアによって納入業者が決まっている。


思い当たるのは業者からの紹介料だけどと、私は首をひねった。


紹介料をもらうことは別に違法では無いが、そういったことは営業職の特権だと思っていた。

設計課長が紹介料をもらうのは珍しい。


「いいわね。次の打ち合わせでプロパンガスの話もするのよ」

不自然なプロパンガスのゴリ押しは、紹介料狙いだと、私の中ではほぼ確定していたが、ここは気付かない振りをして、真っ向から逆らうのはやめておこう。


「営業と調整してみます」

さっさと頭を下げて立ち去った。


押し寄せた課長への嫌悪感が心に満ちてきて、どんよりとした気分になった。




給湯室でコーヒーを淹れていると、家永(いえなが)課長代理がやって来た。

自分は缶コーヒーを手にしている。


「さっきのプロパンガスの話だけど。あのエリアの業者が、課長のご主人の友人だとか。そう言うことらしい」


家永さんは独り言のようにそう言って、コーヒーを飲み干した後、缶を分別箱へ捨てて去って行った。


「馬鹿馬鹿しい」

言葉に出してしまってから、辺りに誰もいないのを確認した。


周りの皆は私のことを優しいと言うが、自分ではそんなに優しいほうでは無いと思っている。


例えば、人に親切をしてお礼を言われても、私にとってはお礼を言われるほどのことをしていないから、お礼の言葉に気付かずに無視してしまっている時が多々あるようだ。

その程度、結局、私の中での当たり前程度には優しいのかもしれない。


だけど、こうやってくだらないことに付き合わされるなどの理不尽に直面すると、心の中にどす黒いものが溜まっていくのが分かる。


優しい人というのは、そう言った世の中の不条理に対しても、心穏やかな人を指すのではないだろうか。


私には、際限のない優しさの持ち合わせは無い。


雪下課長に対しても、汚れた気持ちが鬱積している。

あの人のせいで、毎日違う色で心が汚れていくのだ。


〔010 へ続く〕

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ