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007)設計課派遣社員 伊津の癒し

午後七時半過ぎ。

地域の花火大会の日だからだろう、残っている社員はいつもより少ない。

早く帰らないと渋滞に巻き込まれるからだ。


退社した者の机周りは照明が落とされているので、明かりが灯っている場所には、残業中の社員がいますという目印になっていた。


設計課の一番端の席に座る私から、空席を三つ挟んだ向こうで、夏原(なつはら)さんが真名部(まなべ)君を指導している。


新人社員は八月に入った昨日から、残業が解禁になった。


早速残業か。

そんなにやる気のある子には見えないが。


いつも不思議に思う。


どこも同じLEDランプを使っているはずだ。

寒々しい白色なのに、夏原さんを包んでいる光は、他の場所より温かく感じられる。


雪下(ゆきした)課長が設計課の連中を引き連れて、飲みに行ってしまったから、今課内で仕事をしているのは、私とその二人だけだ。


夏原さんは前の三月まで、中途入社の田乃崎(たのさき)君の教育を任されていたし、田乃崎君の前にも、別の新入社員の教育担当をやっていた。

何しろ一年置きくらいに新入社員が入ってくるから、その度に教育担当に任命されているのだ。


夏原さんは人が良すぎる。

頼まれたら何でも引き受けてしまう。

断ることが出来ない。


前任の設計課長にも何から何まで頼られて、と言うより押し付けられて、いつも残業ばかり。

新人の面倒なんて、他の人にやってもらえばいいのに。


そんなんだから、夏原さんと同じ主任の月元(つきもと)さんにも、格好の批判材料を与えてしまっているのだ。


月元さんはシワの目立つ顔のせいで、実年齢より老けて見えるが、三十五歳の夏原さんと四歳しか違わない。

どちらも一級建築士で、同じ女性だということ以外に共通点は皆無と言っていい。


「夏原さんが新人の面倒を見ているせいで、私の方にばっかり、重い物件が回ってくるのよ。あの子は、大変な物件を持ちたくないから、新人を引き受けてるんじゃないの?」


月元さんの言い方はいつも辛辣だし、考えが足りたい。

本人は気が付いていないようだか、物事の捉え方に偏りがある。

筋肉質の見た目そのままに、心も硬い筋肉で出来ているみたいだ。


普段の夏原さんの仕事っぷりを見ていれば、月元さんが言うような狙いなど無いとわかるだろうに。

自分の大変さを周囲に知らしめたいがために、事実を見ようともしない。


月元さんがどれほど自分の重責をアピールしようが、夏原さんのほうが、厄介で大きな物件、例えば、大型の住宅や、賃貸アパートなんかを引き受けているのが事実なのだ。


だけど、月元さんが、夏原さんをライバル視してしまう気持ちもわからなくは無い。


月元さんのほうが、夏原さんより入社が二年早かった。

ただ、入社時の月元さんは契約社員で、正社員になったのは入社から五年目。

その年に一級建築士を取得したからだった。


夏原さんのほうは正社員として入社後、二年目に一級建築士を取っている。

夏原さんは月元さんより正社員歴が長く、試験に合格したのも一年早い。


そんな経緯もあり、二人の関係を普通の先輩後輩と言い表すには、本人達、特に月元さんからすると微妙に複雑なのだ。


お客様から夏原さんへの感謝コメントが、社内で回覧されることが何度かあった。

要望を適格に新しい家へ反映して貰えたとか、説明しなくても想いを察してくれた、など。


「夏原さんは、お客さんの当たりくじを引くのが上手いだけよ」

月元さんはそう言って、夏原さんの努力を運で片付けようとしていた。


批判的な言動が、自身の劣等感をさらけ出していることに気が付いていないのだろうか。

聞かされるこちらは、腹立たしさを通り越して恥ずかしくなる。


夏原さんのほうは、月元さんを先輩として立てているし、変に刺激しないよう気を付けているのがわかる。

夏原さんは相手が誰であっても、その人を尊重するのだ。


私は夏原さんが入社して一年後に、CADオペレーターの派遣社員として、この会社にきた。

もう、十年以上前になる。


出勤初日、社員食堂でお昼を食べる席も自由に選ばせて貰えなかった。


「何で、あなたがここに座っているのよ」

後に知ることになる『女帝』からの洗礼を受け、途方に暮れた私に、夏原さんが笑顔で呼びかけてくれた。

「伊津さん。こっち、空いてますよ」


些細なことだったけど、どんなに救われたことか。


勝ち組意識の強い組織の中で、派遣社員の私と普通に話しをしてくれるのは、今でも夏原さんだけ。

十歳年齢は違うが、年下とは思えないほどデキた人だ。


どれほど忙しい時に質問しても、ちゃんと調べて答えてくれるし、私が間違っている時は、変に気を使わずに意見を言ってくれる。

それは私を同じ設計課の人間として対等に扱ってくれている証拠だ。


夏原さんが居なかったら、とうの昔に辞めていただろう。

こんな、冷たい人達ばかりが集まっている会社。


今日の飲み会だって、誰も私を誘おうとしなかった。

派遣は同じ課の仲間だなんて思ってないのだ。

あいつらのフォローを、私がどれほどしてきたかわからないのに。

まあ、誘われたところで行くつもりは無いけど。



前の設計課長はダメな奴だった。

だけど、四月に新しく来た、あの女課長はもっとヒドイ。


「今度来た課長は、僕らの図面のチェックをしないつもりだな」

四月半ばの課内ミーティングで、家永(いえなが)課長代理がぼそっと呟いた。


その日は雪下(ゆきした)課長が不在だった。


家永さんは歴代の課長に取り入って、上手く自分の立場を築いてきた人だ。

陰では誰よりも、課長達に対する文句が多い。


家永さんが自分と同い年の女課長をどんな風に迎え入れるか、個人的には興味があった。


「責任者のくせに、部下の図面を確認しないなんて。ありえないわ」

月元さんが会議室の外にまで聞こえそうな声で吠えた。


図面のミスは怖いもので、すぐに表面へ現れ出ることがない。

図面を作成している者はそれが正しいと思って書いているから、自分で間違いに気付くのは難しいのだ。

第三者によるダブルチェック、トリプルチェックが重要になる。


「課長も異動されたばかりで、手一杯なのかもしれないから、しばらくは、自分達でクロスチェックしますか?」

前向きな意見を言ったのは夏原さんだ。


「だけと、担当者同士のチェックでは限界がありませんか」

そう言ったのは水野(みずの)さんだった。


水野さんは私と同い年の契約社員だ。正社員と同じように担当物件を持っている。


「確かに。営業や工事が、設計担当者ではなく、課長に報告する事柄も多いからな」

家永さんが同意した。


押さえておくべき重要な内容ほど、課長しか把握していないことがある。


「それを担当者へ、逐一通知するタイプの課長にも思えないしな」

家永さんがそう続けると、その通りだと、そこにいた一同はため息を吐いた。


「ここは、課長代理が課長に代わって、皆の図面をチェックしてもらえないですか?」

私は思い切って口を挟んだ。


家永さんは課長代理として、課長と同じ会議に出席する事が多い。

担当者同士でクロスチェックするよりは、精度が上がるのではないか。


そうでないと、私が困る。

責任者が未チェックの図面を工場へ送りたくない。


家永さんも誰かの為に、仕事を引き受ける人間では無いから、無理だろうと思いながらの、半分やけくその発言だった。


「俺は無理」

家永さんは提案した私に冷たく視線を投げ、予想通りの答えを返してきた。


私の意見だったから、深く吟味する価値も無いと判断したに違いない。


「やっぱり当分、担当者同士でクロスチェックしよう」


家永さんは、他の者が私と同じ意見を言い出すのを阻止するように、急いでミーティングを切り上げた。


あれからもうすぐ四ヶ月が経つ。

ここへきて、数々の物件で問題の発覚が続いている。


雪下課長は問題が明らかになってから初めて中身を認識して、何でこんなことに気が付かなかったのかと、部下へ文句を付ける。

自分が責任を果たしていないことは、綺麗に棚の中へ仕舞ったままだ。


意識してやっているのかは知らないが、叱る時に一段階大きな声になるのも不快だ。


設計担当者が質問に行っても、即答出来ない事柄だと分かると、プライドが許さないのだろう。

急に忙しくなった小芝居を始めてその場から去って行く。

あの女のダメ上司ぶりを挙げ連ねたらキリがない。


だけど、ダメなやつと言うだけなら仕方ないと諦めることもできる。

私が一番許せないのは、CADオペなんて必要無いと、私の前で平気で公言して、あからさまに部外者扱いすることだ。


他の誰もその意見に賛同しないばかりか、反対意見のほうが強いため、今のところは派遣切りに合わすに済んでいる。


設計の担当者達が課長に賛成しないのは、私の味方をしてくれてのことと思えたら、少しは幸せだろう。

残念ながらそれは違う。


私が居なくなったら、自分達の作業の負担が増えるからだ。

単純な理由だ。


今夜だって、家永課長代理と田乃崎君がそれぞれ担当している物件の、工場への変更処理作業を私がやっている。


あのぼんくらな前任の課長でも、担当者が起因の変更処理は担当者にさせていた。

責任を持たせる意味もあったのだろう。


だが、あの女は違う。


そんな雑用は、暇なCADオペにさせればいい、課長代理と田乃崎君は、私との大事な飲み会に参加しなければならないのだからと、言わんばかり。



先週、水野さんが辞めていった。


水野さんは二級建築士を持っていて、設計課には三年ほど在籍していた。

正社員雇用の希望が通り、支店の中では正式に決まっていたことだった。


ところが、本社の設計部長へ話が伝わった段階で、支店の決定は無かったことにされてしまった。


「あの人は、自分より立場が上の人への返事は、イエスしか知らないようだから。期待しても仕方ないわよ」

部長の決定に、何も抵抗しなかった雪下課長を批判した私に、彼女が言った。


水野さんの正社員採用に待ったがかかったのは、年齢が理由だった。


逆にわからない。

技術者にとっては年齢を重ねたほうが、技術が洗練されていくものではないのか。


部長や課長より年上だから、扱いにくいと判断されたのか。


事務職なら四十歳過ぎても、正社員雇用されている。

社会経験が有り、社会常識を一から教える必要も無いし、子育ても一段落し、育児休暇の権利を主張されることもない。


そう言った、企業に都合が良い理由なら、技術職も事務職と同じはずなのに。


お子さんが成長されたから、これからは本格的に仕事がしたいと、意欲に湧いていた彼女の気持ちも折れてしまった。


「ここに契約社員で残っても、理不尽な扱いを受けるだけだから、辞めるわ」


辞めると聞いても雪下課長は顔色一つ変えずに、そうと、答えただけだったそうだ。


今、設計課には適応障害の診断を受けた社員が二人いる。


その内の一人、高見(たかみ)さんは完全に自宅療養に入っていて、もう一人の菱山(ひしやま)君は、体調が悪い時に休みを取るスタイルを選択しているが、ほとんど会社には来ていない。


そこへ更に、水野さんが抜けることへの危機感を、課長が全く抱かなかったとしたら、本当にどうかしている。


今だって、私が残業しているのは工場への変更処理作業のためだけじゃない。

体調不良で休んだ菱山君のカバーをしているのだ。


派遣の首を切ると息巻く前に、責任者として、自分の課の現状をしっかり把握するべきだ。


花火を見ながらビアガーデンを楽しむとか、発想が昭和のおじさん管理職ではないか。

部下達のプライベートな用事があるかもなどとは、少しも考えないのだろう。


私の気持ちだけでなく、部下の気持ちも推し量ることの出来ない人間が、普通に管理職になっている。

ここはそういう会社なのだ。



今日も目標としていた仕事を終えることが出来なかった。

強制的な時間制限を設けられると、自分の希望通り、切りの良いところまで作業を進めるのは難しい。


午後八時には、社屋の鍵が締まるシステムになっているのだ。

時間を決めないと、日を跨いでまでも残業する者がいるからだろう。


皆がロックシステムと通称で呼んでいる、鍵が締まるシステムは、時間になると、私達に貸与されている入館証では解錠出来なくなるのだ。


決められた時間までに社屋の外へ出なかった社員は、会社内に閉じ込められる。

そうなったら、警備会社に連絡して解錠してもらうしかない。


その後は支店の上層部へ連絡が入り、次の朝礼で全社員の前に立たされ、謝罪するという苦しみが待っている。

だから何としても、八時までに会社から出なければならないのだ。


とにかく慌てて撤収した夏原さんと一緒に、駐車場まで並んで歩いた。


真名部君の姿は無い。

私達に合わせることもなく、一人でさっさと帰ったのだろう。


「真名部君は、飲み会へ行けないほど忙しかったの?」


雪下課長が真名部君を誘わないとは思えない。

尋ねる私に、夏原さんは口元を歪めた。

「飲み会へ行きたくないから、あの子は今夜、残業したの」

私も苦笑いで返した。


分かりやすい。


真名部君は目がクリクリとして、女の子と言っても通りそうな可愛い顔立ちをしている。

愛想が良ければ、事務のお姉様方にちやほやしてもらえるのに。

無愛想とまでは言わないが、表情の乏しい子だ。


こちらが笑顔で話し掛けても、ニコリともしない。

人をバカにしているのだ。

バカはお前のほうだと、横顔を見る度に心の中で唸る。

尊大な態度を人に向けていることに、いい加減気付けと言いたい。


会社内で女子社員を味方に付けることが、どれほど仕事のし易さに影響してくるかが分かっていないのだ。

この先、苦労するのはあんただから、そんなこと教えるつもりは無いけど。

何の努力も、歩み寄りも見せずに、自分に都合の良いものを与えてもらえると思ってたら大間違いだ。


「真名部君は残るかな?」

どっちでも良かったが、言葉に出してみた。


今年、ウチの支店には営業課に三人、工事課と総務課にそれぞれ二人ずつ、設計課に一人の計八人の新入社員が配属された。


六月末にその内の二人が退職していった。

若手が辞めると聞いても驚かなくなった。


「どうかな。ここを辞めても、建築業界に残ってくれるなら、まだ指導する甲斐もあるけど」

夏原さんはそこで一旦言葉を切った。


「この子の血にも肉にもならないことを教えてるんじゃないかと、ふと思う時があって。時々虚しくなる」


夏原さんは私と二人きりの時には、こうして弱音を吐く。

気を許している私にだから見せられる弱さなのだ。

私は夏原さんのためだったら、いつでもサンドバッグになれる。


顔をこちらに向けた夏原さんは、寂しそうに笑っていた。


〔008 へ続く〕

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