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005)設計課技術職 田乃崎の願い

あー。

また、雪下(ゆきした)課長と奥山(おくやま)係長の言い争いが始まった。


僕、田乃崎(たのさき)路哉(みちや)はこっそり顔をしかめた。


痩せ型でキツネ顔の雪下課長と、ポッチャリ体型、おっと、と。

全体的にふくよかなタヌキ顔の奥山係長。

対照的な二人の戦いは、ゲリラ豪雨のようにいつも突然やってくる。


ちょうど窓の外は、雷を伴うゲリラ豪雨。

七月に入ってから毎日のように、時間を変えては襲ってきている。


毎日やって来るからと言って、雷の不規則な閃光に慣れることはない。


気が散る。


僕は散漫になった集中力の全てを、女課長と女係長のやり取りへ傾けた。

いつも思うことだか、おっさん達の怒鳴り合いとは随分と様相が違う。


互いに冷静さを保ちながら、低いトーンで戦いが続けられている。

網入りガラスにぶつかる雨粒の激しさとは真逆で、相手の急所を狙って、静かにトゲを出し合っているみたいだ。


視覚的な美しさを先に崩したほうが、負けだという決まりでもあるのか、時折、互いに笑顔を見せる。


怖い。


奥山係長は営業課に所属していて、雪下課長のほうは設計課の僕の上司。


役職としては、勿論、課長の方が上だ。

だけど、奥山係長の雪下課長に対する態度に、へりくだったところは無い。


それには理由がある。

雪下課長はこの四月に転勤してきたばかりだし、奥山係長のほうが歳も上で、入社も一年先輩になるらしい。


元々、ウチの会社は営業職の立場が強い。

顧客を獲得するのは営業で、お客様がいなければ設計の仕事も成り立たないからだ。


営業と設計という立場の違いは、意見の対立を生じやすい。

二人に限ったことではなく、他の担当者同士でもよくあることだ。


お客様の要望や予算を優先したい営業と、法律や社内規定を遵守すべき設計とでは、埋まらない深い溝があるからだ。


だけど、あの二人の場合は会話自体が噛み合っていないように思う。

お互いが勝手に自分の意見を主張してるだけ。


急に静かになった。

奥山係長が営業職エリアに帰っていった。


あれ?

今日はどっちが勝ったんだろう。


「田乃崎君」

バトル直後の雪下課長に呼ばれて、急いで課長席へ向う。


奥山係長と揉めていた物件に僕は絡んでいないはずだか、嫌な予感しかしない。


「君。ユニットバスのメーカー。何でヤーミッツなの?」

机の上に広げられた仕上表(しあげひょう)と呼ばれる図面を叩いて、課長が甲高い声で噛みついてきた。


仕上表にはキッチンやトイレなどの設備関係の品番や、メーカーなどが記載されている。

A2版の紙図面だ。


奥山係長へぶつけられなかった鬱憤が、雪下課長の全身から爆発しているのを感じた。


どの物件のことですかと、聞きたいところだか、更にイライラさせることがわかっているので、ここは押し黙るに限る。


自分の担当した物件が判別できないからと言って、僕をダメな奴認定しないで欲しい。


ハウスメーカーと呼ばれるウチの会社が建てる住宅は、自由設計、いわゆる自由な間取りで、お好みのスタイルやデザインが可能だと謳ってはいる。


だが実際のところは、どのお宅もほとんど似たような間取り、似たような仕上げ。

玄関収納などの住宅に付帯する家具も、設備も、二、三種類の中から選択されて決まってゆく。


選択肢が二、三種類になるのには理由がある。

ウチの会社が大量に生産、または、設備業者から大量に買い付けるなどの条件で、原価を抑えている品が常にあるのだ。

お客様は図面作成時点で、お値打ちな品の中から選ぶのを勧められる。

安く提供できるのだから、お客様にもメリットはあるのだ。


結果、個性に乏しい図面が出来上がる。

だから、図面を見せられただけでは、どのお客様のことを聞かれているのか判断できない。

文字ばかりの仕上表なら尚更だ。


「君は、都合が悪いと何も答えないのね」


都合が悪いも何も、頼むから、その手をどけて、お客様名を見せてくれと、心の中で懇願しながら、図面右下辺りへ目をやった。


雪下課長の細い腕の横から『堀』と言う文字が見えた。

堀市(ほりいち)様だ。堀市様邸だ。


「お客様のご要望です」

僕は即座に答えた。


この約一年で学習した、説教被害を最小限に抑えられる魔法の言葉だ。

のはずだが、雪下課長には効果が無いことのほうが多い。


「お客の要望が何だって言うのよ。このメーカーの浴室は使わないって、決まったでしょ」

「取り決めがあった頃には既に、工場まで図面が回っていましたから」


「私が言ってるのは。工事までに、何で変更しなかったかってことよ」

なら、最初からそう言ってくれ。


だが、どうして変更しなかったか思い出せない。


繰り返しになるが、だからと言って、僕をダメな奴認定しないで欲しい。


僕達は常に四、五件の物件を抱えている。

他の物件とごっちゃになるし、細かいことをいちいち記憶しておけない。


「あの、課長」

涼やかな声色で僕の横に立ったのは、前年度末まで僕の教育担当だった夏原(なつはら)主任だ。


「堀市様邸のユニットバスの件でしたら。在庫が残っている間は、使用するという通達が出ていました。ですから、変更をかけなくても良いと、私が田乃崎君に指示しました」


僕と課長との話の内容で、どの物件の何について責められているのかを察知して、更に僕の窮地を自ら救いに来てくれた。

本当にデキる先輩だ。


僕の真横に立っている夏原主任を視界に入れることは叶わないから、主任の凛とした立ち姿を想像した。

長い髪を一つにまとめて、あらわになっている首筋は、きっと今日もキレイなはずだ。


「ただ、その後。工事の着工が遅れてしまい、その間に在庫が無くなったのだと思います。据え付け工期直前で、工事課から連絡を受けるまで、気が付きませんでした。申し訳ありません」


うつむく主任の仕草に合わせて、僕も神妙な表情を作り、頭を下げた。


「わかったわ。夏原主任の責任ということね。南里(みなみざと)工事課長には、あなたから説明してください」

突き放すように課長が言った。


雪下課長がこの支店に赴任してきて、三ヶ月しか経っていないが、既に何度も浴びせられている、私は関与しませんよ宣言だった。

上司にがっかりする瞬間その一だ。


夏原主任、申し訳ありませーん!

席へ戻るまでの間、僕は何度も心の中で叫んだ。


南里工事課長が怒り出したら、一度死んで来いと言う口癖を、少なくとも三回は聞かなければ解放してもらえない。


南里課長に報告することを想像しただけでゲンナリする。

あの人のせいで、関西出身の五十代のおじさんが苦手になった。


工事課長の口癖については、職場環境改善の観点から、社内環境改善委員会の呼び出しを何度も受けていると聞いているが、委員会の効力は未だに感じられない。


たった一つの小さなミスについて始まった説教が、大抵、とうの昔に引渡しの終わった物件のことにまで遡る。


南里工事課長だけが特別な訳ではない。

いや、あの尋常では無い説教の長さについては特別だが。


基本的に工事課の人間は、僕達設計課の人間を目の敵にしている。


住宅を建てるという目的の中で、最後の工程を担っているのが工事課だ。


工事課にしてみれば、お客様との打ち合わせ不足による変更や、図面の間違いによる軌道修正など、営業マンや設計士がやらかした間違いのツケを、日々、工事の現場で支払わされている。


僕らにイラつく気持ちは理解できるけど、(あと)工程の(さが)だから、仕方のないことだと思って貰えないものだろうかと、常々思う。


僕はそっと、工事課エリアへ目を向けた。

工事課の人達は、それぞれの持ち場の工事現場から、まだ戻って来ていない。


事務職の緒野(おの)さんが、ぽつんとPCに向かって仕事をしている。

最近急に髪の毛が伸びたと思ったら、エクステだと言っていた。

いつものことだけど、キーボードを叩く後ろ姿から、つまらなそうな気持ちが伝わってくる。


「ちょっと、田乃崎!女子ばかり見てんじゃないわよ」

隣の席の月元(つきもと)主任に吠えられ、急いで自分のPCへ目を移す。


月元主任は、この会社には珍しく化粧っ毛の無い女性だ。

だから、男性目線とか女性目線を意識しない人かと思っていたが、やたらと男女を意識した発言をする。

考え方も極端だし、友人にはなりたくない。


コピー用紙を取りに行っていた柏居(かしわい)さんが、台車を引いて戻って来たのを見て、僕は向かいの席に座っている真名部(まなべ)に呼びかけた。


真名部はこの四月に新卒で入社してきたばかり。


コピー用紙を運んで来たということは、コピー用紙を棚に移しかえる作業が発生するし、台車を所定の位置へ戻す必要も出てくる。

そういった雑用は新入社員が率先してやるべきだ。


目で柏居さんを指して、手伝うよう指示したが、真名部は、えっ何ですか?と言うような顔をしている。


真名部には先輩を立てるとか、気遣うというスキルが身に付いていない。

先輩を立てるスキルは、これからの社会では必須でない風潮になりつつある。


だけど、自分の所属するコミュニティのこれまでを、支えてきた人達に対する敬意として、気遣う気持ちを持つのは、時代が変化していっても大事なことだと思う。


人への気遣いは家庭や学校で育んでくることかもしれない。


だけど真名部のように、土台のできていない者は、社会に出てから意識して学習する必要がある。

気遣いから生まれるコミュニケーションは、仕事を円滑に進めるのに不可欠な要素だからだ。


雑用を率先してやると言うと、今の時代言葉が悪く聞こえるかもしれないが、仕事に本来雑用など無いし、新人の内に他人を手伝うことを学ぶことも仕事の内だと僕は思う。


「コピー用紙を片付けるのを手伝ってあげて」

真名部の横に座っている夏原さんが、優しく声を掛けた。


指示される前に動けないと、一人前の社会人とは言えないぞと、言いたい気持ちをぐっと抑える。


「田乃崎君!」


再び雪下課長に呼ばれた頃には、ゲリラ豪雨は止んでいた。

僕は大きく返事をして、跳ぶように課長席の前に立った。


「言い忘れてた。さっきメールで、再発防止カードが届いてたわね。部材の変更処理を間違えたなんて、どういうこと?」


これも堀市様邸だ。

堀市様邸に関しては、さっきのユニットバスもそうだが、スムーズに事が進まない事象が続いている。


業務がスムーズに流れないそういった物件は、どういう訳か、トラブルとまでは言えないようなゴタゴタが、結局、最初から最後まで繰り返しやってくることが多い。


再発防止カードは、人為的ミスを減らす目的で発行される社内書類だ。

営業、設計、工場、工事の各担当者と、その上司全員に書類が回る。


今回のミスは、設計段階で階段部分の床を支える柱が抜けており、図面が工場へ回った時点で指摘があった。

本来、あってはならないミスだ。


繰り返すが、だからと言って、僕をダメな奴認定しないで欲しい。


非構造部材の設定はCADオペレーターの伊津(いづ)さんが行っている。

CADオペレーターは僕達設計担当者と違い、CADの入力だけを専門に行う職種だ。


一般的にはCADと言う言葉は聞き慣れないかもしれない。


大昔はドラフターと呼ばれる製図板を使い、手書きで図面を仕上げていた。

それが今では、PCの中のCADというシステムに置き換わったと想像してもらいたい。


図面化の作業がCAD化されて、データの共有が可能になったことと、3D化が進んだことは大きなメリットだと、手書きの時代を生きてきた前任の設計課長が話されていた。


初めから3D化されたCADしか知らない僕ら世代にはあまりピンとこないが、特に構造耐力の検討を行う時などは、3D化により飛躍的に解りやすい作業になったらしい。


『構造耐力の検討』を簡単に説明すると、地震が起きても安全に暮らせる住宅を建てるために、柱や梁、壁の大きさや位置を決めることだ。


伊津さんにお願いしている非構造部材については、極端に言ってしまえば、その部材が無くても人命は守られる。


しかし、この世の中のほとんどの仕組みがそうであるように、必要のないパーツは存在しない。

家を構成するためには必要なピースであり、構造耐力上は必要が無くても、何かしらの役目のある部材なのだ。


今回、再発防止カードで指摘された柱も、階段を形造(かたちづく)るという役目がある。


ドラフターからCADに変わっても、設計士が法的規制や構造的に成り立つかを検討するのは、今も昔も変わらない。


また、設計士が考案した図を実際に図面化するのも、昔から誰であっても良かった。

CADが普及する以前にもトレーサーと呼ばれていた人達などが、図面化の手伝いを担っていたと聞いている。


勿論、僕達もCADは扱う。


ただ、イレギュラー事項も無く、単純な入力作業だけなら、CADオペさんに任せている。

作業を分担することで、法律の調査や細かい部分の納まりの確認などに時間が割けるからだ。


何だかCADオペさんを便利使いしている嫌な奴に聞こえるかもしれないが、合理的だし、CADオペさんに任せた部分も含めて、物件の責任は全て担当の設計士が負う。


だから、伊津さんの入力作業後の確認は必須事項となる。


しかし実際のところは、確認を取る時間が無いまま、工場へ図面が回ることが多い。

何かあったら工場の担当者が気付いてくれるだろうという、甘えた考えがこちらにあるのも否定はしない。


そう言った流れで、今回も工場への部材変更処理が発生した。


単純な変更処理のはずだったのだが、慣れない作業で部材の選択を間違えてしまった。

二次的な、言い訳しようのない僕のミスだ。


「すみません。単純な選択ミスです」

雪下課長に対し、僕は素直に頭を下げた。


「そもそも部材の変更処理なんて、担当者がやる必要あるの?伊津さんにやって貰えばいいじゃない」


「いや、でも。僕のチェックが甘かったのが原因ですし」

「伊津さんにも責任があるでしょ」


課長席から一番遠い席に座っているとは言え、伊津さんにも課長の声は届いているに違いない。

伊津さんがこちらの様子を窺っている気配を背中に感じる。


「これからは、そういう決まりにしましょう。そうだわ。さっきのユニットバスの変更処理から、伊津さんにお願いすればいいわ」


分かりました以外に、僕が言えた言葉があったなら誰か教えて欲しい。


席へ戻る間も戻ってからも、ヒリヒリするほどの強い視線を感じて、伊津さんを直視することは出来なかった。


〔006 へ続く〕

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