020)(最終話)受難のその先
「夏原さん、どうぞ」
真名部君から差し出された缶コーヒーを受け取り、私は社屋屋上の手摺に身体を預けた。
頭上の青い空と眼下に広がる街並みを眺めながら、それぞれに缶の口を開ける。
あれから四ヶ月ほどが過ぎて、随分前に冬は終わっていた。
遠くに見える川沿いを、ほんの数日前までピンク色で彩っていた桜の木も、今は街路樹となって景色に溶け込みつつある。
今期始めには、事件絡みも含めて大規模な人事異動があった。
まず、林田支店長が逮捕者を二人も出したことについて引責辞任したため、新しい支店長が着任された。
雪下さんには、異物混入事件を握り潰していたことへの懲戒処分が下された。
家永さんの事件は彼一人の責任とされ、監督責任などは追及されなかったが、導因となった事件を公にしなかったことが、管理職として、素養の足りなさを指摘されたらしい。
降格の上、他支店へ転勤となった。
設計課には、本社で次長をしていた神宝さんが次長兼課長職で赴任して来られた。
私も課長職へ昇進し、神宝次長と二人三脚で設計課を立て直して行くことになった。
私の事件を皮切りに、一部のメディアやSNSで、会社の不祥事が次々と取り上げられた。
その中には事実無根の内容もあったが、新しい事業部の発足は来年度へ見送られた。
家永さんの裁判も判決が出た。
家永さんは殺意があったことを否定しなかったので、殺人未遂罪で起訴され、執行猶予無しの懲役五年の刑が言い渡された。
本人が反省していることと、私の身体に後遺症が残らなかったことで、減刑される見方もあったが、二度に亘る襲撃と、犯行動機が身勝手な解釈によるものと判断されたために減刑はされなかった。
家永さんは裁判で、飲み物への異物混入と鉢植えを落としたのが、私の仕業だと思い込んでいたと証言した。
『僕がいなければ、新しい設計課の課長になれると夏原さんが考えて、僕を襲っていると思いました。いつしか、やられる前に殺ってやると思うようになりました』
酷い話だ。
新しい課の課長になるのは夏原が相応しい、そんな噂があったなんて、私自身知らなかったが、家永さんはその噂を耳にするたび、立場が無く、悔しい思いをしていたらしい。
もし本当に、先を越されてしまったらと、徐々に気持ちが追い詰められていったと言う。
自分を攻撃しているのが、私だと思い込むことで、自分を正当化していったとも話していた。
許されないことをしたと反省しておりますという言葉を聞いても、同情する気にはなれないが、家永さんへの怒りは徐々に薄らいでいる。
家永さんは上告しなかったので、刑が確定した。
異物混入事件の犯人も明らかになった。
月元さんだった。
雪下さんへの動機は只の嫌がらせのつもりだったらしいが、家永さんには、家永さんがいなくなればいいと思って犯行を繰り返したらしい。
正に、新しい課の次期課長の席を狙ってのことだった。
彼女にしてみれば、今年課長の昇格試験に受かるのは当然の流れだったらしく、ライバルとなり得る家永さんを標的にしたらしい。
月元さんは自供により逮捕されたが、証拠不十分で不起訴になっている。
彼女を自供に追い込んだのは、西島刑事だと聞いた。
月元さんの思考回路も不思議だ。
もう何年も昇格試験に落ちているのに、今年は絶対に受かると思えた根拠は何なのだろう。
新しい事業部ができて、役職に就く者が増えるからチャンスと考えたのだろうか。
どちらにしても、月元さんは懲戒解雇となり、今後の昇格も幻に終わった。
解雇される前に、こっそり私物を取りに事務所へ顔を出した月元さんと、私は鉢合わせした。
その日は設計課の定休日だったので、出社していたのは私だけだった。
月元さんはどうかしていたという主旨の言い訳を、一方的に何度も私に聞かせてから、やっと気が済んだのか口を閉じた。
本人は気が済んだかもしれないけど、とばっちりを受けた私にしたら納得できるものではない。
だけど何も言えなかった。
かける言葉が浮かばない自分を情けなくも思った。
今後を労るにしろ、恨みにしろ、何かぶつけられればいいのに。
スリムな黒いパンツに細く長い足。
何故かいつも、彼女はその足の爪先を頼りなさそうに内側へ寄せている。
常に強気な態度しか見せないのは、内に秘めた心細い気持ちを隠そうとしているだけかもしれないと、その足先を見るたびに感じていた。
だけど、月元さんという人物に寄り添うことは、今はできない。
そういう自分を許そうと思う。
『二十四時間、仕事ができた時代が羨ましい』
いつだったか、月元さんとそんなことを話した。
『私だったら、二十四時間戦えるのに』
その想いを共有できるのは月元さんだけだった。
残業が悪のように言われ始めて、私達のような働くことに生きがいを感じている者には、肩身の狭い世の中になった。
プライベートを充実させることに重きを置く人生が正解で、会社に使われるだけでは、自分を労っていることにならないと。
私だって、社畜になりたいわけではないし、なっているつもりもない。
多様性が叫ばれるのであれば、残業をしない選択と同じように、仕事に打ち込みたい人にも光が当たる世の中になったらいいのに。
それには、仕事好きな人にばかりしわ寄せが来ない体制作りも必要だ。
「私がこんなことを言う資格は無いけど。夏原さんの、今後の活躍を心から応援するわ」
最後にそう言って、月元さんは会社から去って行った。
月元さんが去った後、工事課で事務をしている緒野さんが私のところへやってきた。
「夏原さん、私。今月で会社を辞めることにしました」
「えっ!」
「心理カウンセラーの資格に合格したんです。民間の資格ですけど。来月から、クリニックで雇ってもらえることになりました」
緒野さんは少し恥ずかしそうにした。
「これからは夏原さんみたいに、私も専門職で生きていきます。いずれは、独立起業を目指します!」
「やりたいことが見付かったのね。おめでとう。応援するわ」
宣言した緒野さんの瞳からは、既に輝かしい未来を見ているのが伝わってくるようで、眩しく感じた。
三月末、笑顔で退職していく緒野さんの姿を見送った。
「あんなことがあっても、会社の時間は普通に流れるんですね」
真名部君は遠くの景色へ視線を向けながら、呟くように言った。
「そうだね」
私も景色を眺めたまま答えて、コーヒーを飲んだ。
しみじみ平和だと思う。
「僕、もう少しこの会社で頑張ってみようと思います」
「そっか」
「あの時教えるっておっしゃった、夏原さんが、ここの仕事をどんな風に考えているか、話してもらえますか」
真っ直ぐに見つめてくる真名部君の視線が痛くて、私は首筋に手をやった。
自分の考えを言わなくてはいけなくなった気恥ずかしさがある。
「聞いたら、続けたくなくなるかもだけど。約束だから言うわ」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「私のやってることは、事務仕事の延長だと思ってる」
私の言葉を聞いて、探るように見ていた真名部君の視線に驚きが混じった。
「設計と事務では、仕事内容が全く違うと思いますけど」
素直な問いだった。
「確かに。事務ができるからと言って、設計の仕事ができるかと言うと、そういう訳じゃない。でも、設計の仕事は事務仕事もこなせないと円滑に進まないわ」
「それは分かります」
「建築家って言うのは、本来0から空間を生み出すものだと、私は思う」
「そうですね。僕もそういうイメージです」
「だけど、ウチの会社はプレハブ建築だから、0から生み出すことはできない。規格化された枠組みの中で、建物を考えなくちゃいけない」
真名部君が眉間を寄せているが、構わず続けた。
「ウチの規格に合わせた間取りを考えることや、規格化された手順で工事が進むような収まりを考えることになる。建築家が本来の力を発すべき、自由な発想が求められる場が無いのよ」
私の言おうとしていることが少し見えてきたのか、真名部君は驚いた表情を見せた。
「そうなっているのが、ここの設計の仕事。発想力より、図面や書類を滞りなく作成することが優先される仕事。私はそう思ってる。他の人がどう思ってるかは知らない。建築家として誇りを持って設計課の仕事をしてる人もいるかもしれない。だけど、私は自分のことを建築家だと思ったことはないわ」
真名部君は明らかに衝撃を受けていた。
「そういう前面に出ない建築士も、世の中には必要なんだよ。建築家としては表に出ない。だけど、見えない所で必要な仕事をしてる」
「夏原さんは、建築家になりたいと思わないんですか?」
「今のところ、この仕事が自分に向いてるから。いつか、建築家になりたいと思ったら、転職するわ」
言ってしまったら、清々しく笑うことができた。
真名部君はしばらく沈黙した後で、低い声を出した。
「僕の母親は、夏原さんの言う建築家です」
初めて家族の話を聞かされて驚いている私から、真名部君は目を反らした。
「いつも生みの苦しみを抱えている感じで。そんな建築士の母親を見てきたから、僕の選んだ道も、同じように大変なことが待ってるんだと思って。そうならないように身構えていました。母親のように、辛い思いをしたくなかったから」
真名部君のお母さんは、都心のほうで設計事務所に勤めていらっしゃると、誰かから聞いていた。
「建物に興味の無い僕には、とても務まらないとも思って、会社を辞めようと考えたんですけど。建築士でも違う生き方があるなら、随分気が楽になりました。もう少し頑張れそうです」
真名部君のお母さんだって、楽しいと思えることもあるから、辛そうに見える仕事を続けているんだと言いたかったけど、真名部君が晴れ晴れとした顔で空を見上げているのを見て、今は話さなくてもいいかと思い直した。
「真名部君は真名部君の楽しいを、この仕事で見つけられるといいね」
だけどと、私は付け加えた。
「どんな仕事だって、働くのは楽しいことばっかりじゃないよ。プレハブ建築は、数をこなすためのシステムでもあるから。一人の技術者が同時に何物件も抱えないと、今度は会社が成り立たない。残業もお願いすること、あるだろうし」
若者には釘を刺しておく必要がある。
心を鬼にして言うと、真名部君はさっと顔を曇らせた。
「何とか、効率良く仕事ができるように、工夫するしかないですね。これからは物件も担当することになりますし」
私はおっと思った。
残業が嫌だとは言わなくなった。
「でも、これからも合気道は続けたいから、稽古の日は残業しないで帰ります」
「合気道、続けるんだ」
病院で家永さんを制圧したのは合気道の技だった。
「はい。また、いつでも夏原さんを助けられるように」
生意気だと返そうとしたが、真名部君の汚れの無い笑顔を見たら一緒に笑ってしまった。
「あの時は、ありがとう」
私は心を込めて言った。
あの時の真名部君は本当に格好良かった。
でも、それは言わない。
私の心の中にしまっておくんだ。
「あっ!いたいた!」
声がしたほうを向くと、屋上へ出る扉の前で、田乃崎君と柏居さんが手を振っていた。
「夏原課長!神宝次長が呼んでますよ」
「奥山課長も夏原課長を探してましたよ」
田乃崎君が叫んだ後で、柏居さんも叫んだ。
役職を付けて呼んでいる。
冷やかしで、わざとやっているのだろう。
昼休みは終わっていたらしい。
「今行きます」
私も叫んで、真名部君と一緒に走り出した。
春の風が、私達の間を吹き抜けていった。
〔完〕
お読みいただき、ありがとうございました。
何年も やめていた執筆活動を再開した昨年(2023年)末、また書き始めようと思い立ち、書き上げた初めての作品です。
他の投稿サイトへ投稿済みの作品ですが、加筆修正して投稿しました。
評価していただいた方、本当に感謝しております。
何かを感じていただけたら嬉しいです。
ありがとうございました。
また、お会いしましょう!