019)被害者(2)
退院の日がきた。
「じゃあ、夏原さん。このファイルを会計へ出して、お支払いの手続きを行ってください」
病棟の看護師に書類を預かり、お世話になりましたと言って病室を後にした。
結局、犯人はまだ逮捕されていない。
会計を待つ間、ロビーの椅子に座って西島さんの姿を探していた。
自宅アパートまで送ってくれる段取りになっていて、ここで待つように言われていたからだ。
エントランスの自動扉が開くたびに、十二月間近の冷気が入り込んできて寒い。
風除けで設けられている二重の扉も、人の出入りが多いせいで意味を成していないようだ。
マフラーを準備しておけば良かったと悔やんだ。
「お疲れ様」
そう言って、横の椅子に腰かけて来た人の顔を見て、私は驚いて少し仰け反った。
「えっ。家永さん。どうしたんですか?」
ぎっくり腰の診察に来たのかしらと頭によぎったが、家永さんの手元を見た途端に、顔が強張った。
鞄に隠すようにして握られたナイフが、私の脇腹辺りに向けられている。
「ゆっくり立って。階段へ向かって」
小さいがはっきりと聞き取れる声だった。
家永さんはエレベーター横の扉を視線で示した。
火災時に、避難や消防活動に使われる階段だ。
四方をコンクリートの壁で区画されていて、あの中に入ってしまえば、周りから気付いてもらえるという望みは絶たれてしまう。
声が出せないほど緊張しているのに、頭の芯まで伝わるのにタイムラグがあるのか、家永さんってこんな顔だったっけと、呑気に観察している自分もいた。
家永さんの切れ長の目尻は吊り上がり、頬が膨らんでいるように見える。
細かく痙攣している口元から、揺るぎない決意が伝わってきて、やっと怖くなった。
言われた通りゆっくり立ち上がり、家永さんと連れ立つようにして扉へ向かった。
途中、西島さんが来ていないかと周りへ視線を向けようとしたが、家永さんに止められ、急ぐように指示された。
「私を襲ったのは、家永さんだったんですね。どうして」
階段を上るように言われた時、足を持ち上げる時間を少しでも稼ごうと、勇気を振り絞って言ってみた。
「復讐だ」
私が何をしたのか問い返す時間は与えてもらえなかった。
私は押されて、仕方無く階段を上っていった。
二階を過ぎた時点で私の息は上がっていたが、三階と四階の間の踊り場で、遂に足がもつれて身体が崩れてしまった。
入院中ずっと病室にいて、ほとんど運動をしていなかったからだ。
「何やってる。早く立てよ」
会社では紳士的な物腰しと、言葉使いをする人だった。
でも今、私を立たせようと乱暴に腕を掴み上げている家永さんには、穏やかさの欠片も見当たらない。
家では奥さんや息子さんに、暴力を振るっていると聞かされても驚かないだろう。
「待って。体力が」
家永さんを振り払おうとするが、腕にも力が入らない。
私の腕を引っ張る以上のことは、家永さんにもできないようだった。
ぎっくり腰になってしまうからだろう。
私達はしばらく踊り場に留まることになった。
「私が何をしたんですか。教えて下さい」
息が落ち着いてきた私は静かに尋ねた。
自分のほうへ向けられたナイフの刃先にも、少し慣れてきた気がする。
「俺を排除しようとしただろ」
家永さんも落ち着いていた。
「何のことですか?」
「飲み物に何か入れたりして。俺を会社に行けなくしたじゃないか」
後半は声が掠れていた。
「待ってください。それは私ではありません」
「新しい課の課長になるために。俺が邪魔だったんだって、分かってるんだ」
「そんなこと思ってません」
「お前以外に誰がいるんだよ。今年、昇格試験に受かったのは、お前だけじゃないか」
家永さんの血走った目が、私を睨み付けてきた。
飲み物への異物混入は八月だったと聞いている。
昇格試験の合否の連絡が来たのは、十月に入ってからだった。
冷静な判断力が残っていたら、時系列がおかしいと気付くはずなのに、家永さんには自分の導き出した答えしか見えていないのだ。
お前なんて呼ばれたのも初めてで、今更のように命の危険が身に染みてきた。
「それでも私は、そんなことしません」
私は毅然とした態度を見せた。
「そんなことしなくても、いつか自力で課長になってみせます」
夢中で口走ったけど、かなり恥ずかしい発言だ。
普段はそんな野望めいた気持ちなんて意識したことなかった。
でも私の中にも野心があったんだと気付かされた。
家永さんはそんな私をしばらく凝視した後、ふっと瞳から力を抜いた。
「そうだな。夏原さんなら、小細工しなくても、いずれ認められるよ」
家永さんは深く息を吐いて、天を仰ぐように顔を上に向けた。
「だとしても、もう遅い。もう引き返せない。夏原さんには、自殺してもらうしかないんだ。仕事に復帰する気力が持てないからってことで、屋上から飛び降りてよ」
「何でそうなるんですか」
「いいから立つんだ。立たないなら、ここで殺すよ」
その覚悟を秘めた言い方にぞっとした。
「一旦、冷静になってください」
私は自分の気持ちを静めるためにも言った。
「家永さんの姿は病院の防犯カメラに映ってます。私が屋上から飛び降りたとしても、疑われますよ。逃げられません」
「心配しなくても大丈夫だよ。悩みの相談に乗っていたとか。何とでも誤魔化すから」
悪人面をして笑う家永さんは、自分で無茶苦茶なことを言っていると、分かっていないのだろうか。
「警察はそんなに甘くないですよ」
言いながら、今日に至るまで逮捕できなかった警察には、あまり期待できないかもしれないと思ってもいた。
「ああ、もういい。ごちゃごちゃ言うから。ここで殺すことにするよ」
家永さんは子供がダダをこねるように叫んだ。
「ちょっと待ってください。こんな所で殺したら、それこそ言い逃れできないじゃないですか」
家永さんが捕まった後の心配をしているかのような発言だが、この状況を何とかしたい一心だった。
「夏原さんを殺して俺も死ぬ。それでいいだろ」
家永さんが乱暴に言い放った。
何がいいのか。
「夏原さんの言う通りだ。ここで殺してしまったら、言い逃れできなくなる。そしたら、俺も死ぬしかない。夏原さんのせいで、俺は死ぬんだ」
「勝手なこと言わないで」
「じゃあ、立ってよ」
突き付けられたナイフが首に当たりそうで、じりじりと身体を水平移動させて必死に避けた。
「仕方無ないな」
暗い瞳で低く呟いた後、家永さんは深い息を吐いた。
「分かったよ。俺が死ぬよ。俺の人生は、もう終わってる。どうせなら目の前で死んで。夏原さんの心に大きなダメージを残してやる」
家永さんはそう言って、突然ナイフの刃先を自分の喉元へ向けた。
「ちょっ、ちょっと。やめて、やめなさいよ!」
私は力を振り絞って立ち上がり、ナイフを持つ家永さんの手を両手で掴んだ。
家永さんと私の身体が揉み合うようにして壁を転がった。
傷が治りきっていない後頭部が壁に打ち付けられて、私が怯むと、家永さんは冷めた瞳で私の顔を見据えてきた。
「邪魔するなら。やっぱり、君から殺す」
家永さんの左手が私の口を押さえ、頭が壁に押し付けられた。
もの凄い力に、後頭部へ激痛が走った。
痛いと叫びたくても口は塞がれている。
家永さんを睨む瞳から涙が流れた。
悲しいからでは無い。
悔しいし、痛いからだった。
殺される。
かもしれないが現実になるんだと、諦めそうになるほど、家永さんの表情に迷いは見られなかった。
家永さんは躊躇うことなく、右手のナイフを私の首へ突き立てた。
だめだ、死ぬと思ったその瞬間、階段を跳ぶように駈けてくる誰かの影を見た。
あっと言う間に、家永さんは腕をひねりあげられて苦しんでいた。
「真名部君 ⁉」
ナイフが床に転がっている。
私は自分の首にナイフが刺さっていないことを、手で確かめていた。
真名部君は家永さんの腕を掴んだまま、ゆっくりと家永さんの身体を床へ倒していった。
きれいな姿勢を保ったままで、身体のどこにも力が入っているようには見えない。
それなのに、家永さんは抵抗できない様子だった。
「真名部だって ⁉ 何でお前がここにいるんだ」
うつ伏せにさせられている家永さんが吠えた。
「今日、退院されると聞いたから」
たどたどしく答えた真名部君の足元に、花束が落ちていた。
「ロビーで、二人の姿を見かけたから、後をつけてタイミングを窺っていたんです。僕、思い出したんです。あの日、夏原さんが先に帰ったと、家永さんから聞いたってことを」
「もういいよ。何でもいいから、離せよ。痛いだろ」
家永さんが左手をバタバタと動かした。
「離せません。全部聞いてましたから。夏原さん、警察を呼んで下さい」
真名部君に言われて、私は我に返った。
展開に付いていけず、思考停止に陥っていたようだ。
急いで鞄からスマホを取り出して、西島さんに電話を掛けた。
「夏原さん、どこにいらっしゃるんですか?随分前から、待っているんですよ」
緊張感の無い西島さんの声が、コンクリートの壁に響き渡った。
〔020 最終話へ続く〕