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018)被害者(1)

「ファイルを・・・」

自分の声とは思えないかすれ具合に驚いて、言葉が続かなくなった。


病室の天井を眺めながら唾を呑み込む。

天井材に使用された吸音板は、虫食い穴が開いたような模様をしている。

ここ数日の自分の心の中みたいだと思った。


「無理しないで。ゆっくりでいいですよ」

岩見(いわみ)署の西島(にしじま)と名乗ったその女性刑事は、私に水を飲むよう勧めた。


制服ではない紺色のスーツ姿のせいで、どこかの企業にお勤めしていると言われても違和感が無い雰囲気がある。


ふと、収納棚と一体となったデスクの上に、小さなフラワーアレンジメントが乗っているのが目に入った。

私の好きなガーベラの花が使われている。


西島さんが持ってきてくれたのだろうか。


先ほど、人の気配で目が覚めると、西島さんが私の顔を覗き込んでいた。


私と同い年だと自己紹介した後で、病室の戸口近くにいるグレーのスーツ姿の男性に掌を向けた。


「あちらは同じ署の安久津(あくつ)です」

気配を消すようにして立っていた五十代くらいの男性が軽く頭を下げた。


西島さんは腰掛けていても小柄だとわかる体格だか、男性のほうはかなりの長身だ。

威圧感を与えないための配慮なのか、安久津刑事は私のほうへ近寄ってくる素振りを見せなかった。


私は一週間、意識不明の昏睡状態だった。

襲撃を受けたことによる負傷より、低体温症のほうが深刻だったと聞いている。


あの日の私は汗をかいていた。

保管庫は社屋の北側に位置しているし、普段は空調も入らない。

日中もほとんど室温は上がらなかっただろう。


襲われたのが月曜日の夜九時過ぎで、発見されたのは、水曜の早朝だったという。


火曜、水曜は設計課と営業課は定休日だ。

私の不在自体、誰にも気付かれなかった。


意識が戻ってから更に一週間は、会話をする気力が湧かなかった。


十一月半ばになり、病室の窓から見える遠くの山の紅葉(こうよう)が進むに連れて、身体は回復していくのがわかる。


だけど、無差別では無く、私を狙った犯行だと聞かされてから、身体の状態とは逆に心のダメージが進行していった。


顎への一撃を受けたあの瞬間がフラッシュバックするたび、現実と認識するのが辛かった。


危害を加えられるほどの恨みを、自分は誰かに持たれていたのだ。

怒りや怖いという気持ちもあるが、それよりも惨めだった。


自分を美化するつもりは無いが、ズルなどしないで、真っ直ぐに生きてきたつもりだ。

自分よりも他人の気持ちを優先する方だし、なるべくなら、人を傷付けたくないと考える。


謙遜して見積もっても、人の二倍は仕事をしてきた。

間違いなく善人の部類に入ると思う。


そして、間違いなく私より悪人は存在するはずなのに、何故私なのか。

自分の人生を根こそぎ否定された気分だった。


「大丈夫ですか?」


喉を押さえている私へ、西島さんが声を掛けた。

水を飲んでも、まだ喉が貼り付いている気がする。


意識を取り戻した直後は、ざっと事件の説明を受けただけで体調を崩してしまった。


その時の女性刑事も西島さんだと思うが、目覚めた直後の出来事は、所々記憶から抜け落ちていて自信が無い。


本格的な聴取をされるのは、今日が初めてだった。


「ファイルを保管するために、あの部屋に行きました」

看護師の用意してくれた経口補水液を飲み干すと、いくらか話しやすくなった。


「棚にファイルを収納しようと、棚を整理していたら。何か音がしたような気がしたので、振り向きました」

「犯人は見ましたか?」

西島さんの問いかけに、私は額へ手を添えて目を細めた。


「見たような気もしますが、わかりません。振り返ったのと、ほとんど同時に殴られて、そのまま意識を失ったんだと思います」


「そうですか」

「凶器は何だったんですか?」


「ファイルです。ファイルの背表紙の角が、夏原(なつはら)さんの顎の下へ直撃したんです。その弾みで後ろへ倒れて。収納棚で、更に後頭部を強打されたんです」


負傷した後頭部辺りが、ズキンと傷んだ気がして頭へ手を添えた。


「夏原さんの事件には関係無いことだから、聞き流してもらって大丈夫なんですが。九月の末頃、同じ設計課の家永(いえなが)さんと菱山(ひしやま)さんの頭上に、観葉植物が落ちてきた事件があったんです。その犯人が捕まりました」

「えっ、観葉植物。犯人?」

聞き流せる内容では無かった。


「そんなことがあったんですか」

「ご存知なかったんですね。課長の雪下(ゆきした)さんは、大っぴらにしたくなかったとおっしゃってましたから、関係者に口止めしていたんでしょう。犯人は総務課の平川(ひらかわ)という新入社員でした」


平川君とは絡んだ記憶が無い。

真名部(まなべ)君の同期というカテゴリの認識でしかないように思う。


支店全体の歓迎会の時に自己紹介をしていた姿が蘇ってきたが、ハキハキとしていて、他人を傷付けるような子にはとても思えない。


「菱山さんと平川は同じ(むね)のアパートに住んでいたんです」


ウチの会社が建てた賃貸アパートを、(むね)ごと会社が借り上げ、地元出身以外の独身社員の寮としている。

社員がお隣同士というのも珍しくない。


西島さんの話しによると、九月に入った頃、元から盗み癖のあった平川君は、菱山君が会社を休んでいるとは知らずに、菱山君の部屋へ侵入した。


部屋にいた菱山君の気配に気付いて、すぐに逃走したが姿を見られてしまったと思った。


菱山君のほうは、寝起きでメガネもかけていなかったから、逃げたのが平川君だとは分からなかった。

何も盗られていないと思い警察にも届けなかったらしい。


十一月初め、ちょうど私が襲われた直後、平川君は他の家に忍び込んで逮捕された。


菱山君も存在を忘れていた菱山君の小銭入れを持っていたことから、菱山宅侵入が発覚したのだった。


観葉植物落下事件については、私の事件の後、既に警察へ情報が入っていた。

警察に問い詰められた平川君は、自分の犯行を素直に認めたと言う。


平川君は供述で、菱山さんは自分とは余り面識が無いから、今は気が付いていないようだが、あの時の侵入者の姿が、いつか自分と結び付いてしまうのではないかと思った。


菱山さんを襲うために鉢を落としたけど、殺そうとかそんなつもりは無く、頭を強く打って記憶が飛べばいいくらいに考え、犯行に及んだと言っている。


「そうは言っていますが、本当のところはどうでしょうか」

西島さんが少し憎々しい感情を顔に表した。


確かに。

記憶が飛べばいいなんて曖昧な動機で、鉢を落とす選択を取るなんて危険過ぎる。


「階段の防犯カメラのスイッチを切ったり、重量のある陶器製の鉢に入った植物と、置き場所を入れ替えたりするなど。数日前から始められた、わりと計画的な犯行でした」


「あの。平川君が、私を襲った犯人という可能性は無いんですか?」


平川君に襲われる心当たりは全く無いが、どこで恨みを買っているか分からない。


「それはありません。平川自身も否定してますし、アリバイも確認できてますので」

少しほっとした。


ほとんど係わりの無かった子に恨みを買っていたのだとしたら、この先、自分の何を信じて生きて行けばいいのか分からなくなる。


植物落下事件は九月末。


家永さんが自宅勤務になったのもその頃だった。

ぎっくり腰が悪化したと聞いていたが、落下事件があって自宅勤務にしたのかもしれない。


「平川の起こした事件は、別の事件だと思って下さい。ですが、もう一つの事件は、夏原さんの事件と関係があるかもしれません」


「もう一つの事件?」

私の知らない事件が、他にも起こっていたことに小さな衝撃を受ける。


「雪下さんと家永さんの飲み物に、何かを混入されたことが、度々あったらしいんです」

「何かと言うのは?」

毒物ですかと聞こうとしたが、口にするのが怖い単語だった。


「分かりませんが、雪下さんは異臭がしたとおっしゃっていますし、家永さんは嘔吐など、体調不良になったとおっしゃっています。夏原さんには、そういったことはなかったですか?」

「ありません」

「そうですか。他の設計課の方々も無いとおっしゃっていました」


「あの。それが、私を襲った犯人と同じ人物の仕業だと?」

「現在、それも視野に入れて捜査中です」


「雪下さんと家永さんは無事なんですか?」

「大丈夫です。今回、襲われたのは夏原さんだけです」


それなら良かったと口に出しながら、心では真逆のことを考えている自分に愕然とした。

人の不幸を望む気持ちが自分の中にあったことに驚いている。


自分だけが襲われたのではなかったら、少し気が楽になるとでも思ったのだろうか。

そんな自分を嫌悪した。


「こんなことをお聞きするのは心苦しいですが、襲われる心当たりはありませんか?」


西島さんに言われて少しムッとなった。

そんなことは、私のほうこそ聞きたい。


意識が戻ってからずっと、周りの人達を犯人に見立てて、その動機に思いを巡らしているが、今まで私を支えてきてくれた人達を悪人のように考える自分が嫌になっていた。


私は無言で、自分を抱き締めた。


「異物混入と、同一犯かどうかはまだわかりません。ですが、直接攻撃を仕掛けるというのは、それだけ犯人の想いが強いということです」


「雪下さんや家永さんよりも、犯人は私を強く恨んでいるということですか?」

真っ直ぐ見返した私を、西島さんも決意のこもった瞳で見返してきた。


「自ら手を下そうと思うほどには、恨んでいるんだと思います」

そう言う西島さんの言葉へ被せるようにして、安久津さんの声が静かに響いた。

「夏原さん。それは犯人の勝手な思い込みです。夏原さんに責任はありません。犯人の気持ちを汲み取って、あなたが自分の言動を悔やんだり、悩んだりする必要は無いんですよ」

そう言われて、私の頬を涙が流れた。


皺の多く刻まれた威圧感のある顔で、何人もの凶悪犯を追い詰めてきたと容易に想像できるのに、発せられた言葉の優しさに気が緩んでしまった。


「今日はこのくらいにしましょう。西島、失礼するぞ」


西島さんは立ち上がり、少し申し訳なさそうにお辞儀をした。

安久津さんと一緒に出て行こうとして、不意に足を止めて振り向いた。


「そのお花は。後輩の真名部さんから、夏原さんへ渡して欲しいと預かったものです」


「そうなんですか」

私は少し驚いた。


こんな気遣いのできる子だったんだ。


「ええ。総務課の方にお聞きしたんですが。夏原さんが襲われたと聞いた時、泣いて心配されていたそうです。あの夜は、夏原さんは先に帰ったと思っていたと話されていました。では、また明日伺います」

西島さんはそう言って、引き戸の向こうへ消えて行った。


私はアレンジメントへ手を伸ばした。


頑張れば、片手に乗せられる程度の大きさでしかない。

だけど嬉しくて、自然に顔がほころぶ。


よく見ると、花に埋もれるようにメッセージカードが添えられていた。


  どうか、早く

  回復なさってください


私と真名部君は、良い師弟関係ができていたとは言えない。


先日も辞めたいと言い出した彼を引き止めてしまった。

そんな私が疎ましくなり、真名部君が私を襲ったのかもと、実は考えたりもしていた。


私はカードに向かって、ごめんなさい、ありがとうと呟いた。


お花を胸の上に置いたまま、私はぼぉっと虫食い天井を眺めた。


西島さんから異物混入事件を聞かされて、極めて複雑な気持ちになっていた。


意識が戻ってからの自分への葛藤とは違う。

犯人を腹立たしく思った。


雪下さんや家永さんと、私を同列に考えるなんて酷すぎると思ったからだ。

そして、こんなことを思う自分は、何て傲慢で、小さい人間なんだと落ち込んでもいる。


もう、疲れたよ。


天井を見るのはやめて、アレンジメントへ視線を移した。

オレンジと黄色のガーベラが、大丈夫だよ、そんなこと無いよと、私を励ましてくれている気がした。




翌日は退院のタイミングとその後について、西島さんと話し合った。


体力の回復しつつある身体は、例え犯罪の被害者であろうとも、ずっとこのまま入院し続けることはできない。


安久津さんはやっぱり、戸口に立ったままで、私達の会話に時折口を挟むスタイルを取っていた。


西島さんが言うには、昏睡状態だった頃のほうが、もう一度襲われる可能性としては高く、意識が戻ってから一週間以上も経った今は、危険性は低いらしい。


犯人は、私に顔を見られたと思っていたかもしれない。


だけど、意識が戻ってしばらく経っても逮捕されない今は、見られていなかったと安心しているはずなのだ。


「ですが、それは犯人が目的を諦めた場合です」

西島さんに言われて、顔色が変わるのが自分でも分かった。

「脅かすつもりはありませんが、夏原さんの身の安全のためにはっきり申します」

私は頷くのが精一杯だった。


「加害者が何を目的として、夏原さんを襲ったかに因りますが。元気になった夏原さんが会社に戻ってくるのを、阻止しようと企むことも考えられます」


飲み込んだ唾が、ゆっくり胃の中へ流れて行く。

西島さんの言葉の一つ一つが、私の中で気がかりに変化して広がっている。


「設計課内の人間関係をお聞きしても良いでしょうか」

私はこくりと頷いた。


伊津(いづ)さん、柏居(かしわい)さんのことは、どのように感じていらっしゃいますか?」

「どうして、その二人なんですか?」

「あの夜、二人は一旦会社を出たことが入退出システムで記録されています。ですが、その後も社内にいたことが、防犯カメラで確認されましたので」


そう言えばあの夜、あの二人は事務室にいなかったように思う。

どこか違う場所を整理しているのだろうと、気にしていなかった。


「伊津さんも、柏居さんも。私にとって大切な仲間です。嫌われていると、思ったこともありませんでした」


二人が疑われているなんて信じがたい。

もし、どちらかに襲われたのだとしたら、私はもう会社には行けないだろう。


「同じことは真名部さんにも言えますが。真名部さんは外部のゴミ箱へ、ゴミを捨てに行ったと」

「それは覚えています。私がゴミ捨てをお願いしました」

「本人もそうおっしゃっています。戻る時にシステムへ鍵をかざすのを忘れたと、おっしゃっていました」


「伊津さんと柏居さんは何て言ってるんですか?」

「二人共、別々の倉庫で作業していたとおっしゃっています」

「アリバイが無いということですか」

「二人が容疑者というわけではありません。私達は社員の方全員に確認を取っているだけですから」

そうは言っても、全社員の中で、私を襲う理由のある者は限られるはずだ。


「先ほども申しましたが、犯人が捕まるまでは気を付けてください。知り合いだからと言って、気を許さないでくださいね。感染症対策で、一般人の病室への入室は許されていませんが。侵入しようという意思のある者の侵入は、食い止められない可能性もあります。夏原さんの病室前には、引き続き、制服警官を常駐させます」


お願いしますと、私は頭を下げた。


「退院後はどうなるんですか?」

体調にもよるが、今のところ月末辺りの退院を予定している。


「しばらくは、自宅勤務を選択していただけますか?ご自宅付近のパトロールを強化します」

「警護はしてもらえないんですね」

寂しい口調になった。


怒りたかったが、西島さんに怒るのは違う気がした。


「申し訳ありません」

西島さんが苦しそうに顔をしかめた。


「私達も全力で捜査しています。不安だと思いますが、あと少し、辛抱してもらえないですか」

安久津さんの声がやんわりと届いた。


「分かりました。よろしくお願いします」


〔019 へ続く〕

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