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014)設計課事務職 柏居の決意

柏居(かしわい)さん。ちょっといいかな?聞いて欲しいことがあるんだけど」

家永(いえなが)課長代理が真面目な顔で話かけてきたのは、九月月初に開かれた支店全体会議の後だった。


会議の後は各々で物件の打ち合わせをする担当者も多い。

メンバーのほとんどが、しばらくは席へ戻って来ない、そんなタイミングだった。


「最近、よく吐き気がするんだ。自分の席でコーヒーを飲んだ後に」


私は優しい笑みを作った。

深刻な話じゃ無さそうでほっとする。


「コーヒーが体質に合わなくなったんですね」

課長代理と同じアラフォー世代からよく聞く症状だと思った。


「そうじゃなくて」

課長代理は辺りに視線を配ってから、少し顔を近付けてきた。


「誰にも言わないでくれよ」

私はわかったと言うように、唇を結んで小さく頷いた。


「誰かに、何かを入れられてるんじゃないかって思うんだ」

私は息を呑んだ。


課長代理と私は、一瞬だけ無言で瞳を合わせた。


謙虚という概念を今だけ無視して言わせてもらうと、私はかなりモテるほうだ。


私の気を惹こうと、打ち明け話を装って作り話をしてくる男性は少なくない。

だけど、この場合は違う。


家永さんは例え私にアプローチするとしても、こんな回りくどい方法は使わないと思うし、何よりも目に怯えの色が浮かんでいる。


何年か前にどこかの会社で、同僚の飲み物に劇物を混入した女が逮捕された事件があった。

きっと、課長代理の頭にもそのニュースがよぎっているんだろう。


「気のせいじゃないんだ。実際にトイレで吐いてるし。席を外して戻って来た後に、缶に残っていたコーヒーを飲むと、決まって何かこう、胃がせりあがってくるような感じがするんだ。昨日と先週、同じことがあった。もっと思い返してみると、盆前にも胃の調子が悪い時があった。あれももしかしたらって、今は思ってる」


私が黙っているから、信じてもらえていないと不安になったのか、課長代理は小声でまくし立てるように言った。


「何か、変な臭いとかは無かったですか?」

「それは、気が付かなかった。缶だから、口が広くないからかも」


臭いが鼻に来る前に飲み込んでいたら、何か異臭がしても気が付かないものかもしれない。


「しばらくは何も飲まないほうがいいですよ。飲み物を残して、席を立たないようにするとか」

私は早口で言った。


そろそろ何人か戻ってくるだろう。


「いや、犯人を捕まえたい」

課長代理は決意を秘めた表情を見せて、首を振った。


「柏居さんの席からは、ちょうど俺の席が見えるよね?合図をしたら動画を撮影して欲しいんだ」


私の席から通路を挟んで、課長代理の席は真横に見える。

確かにポジションは最高だと思う。


「そう言う訳で」

事務室入り口に、夏原(なつはら)主任と真名部(まなべ)君の姿を見付けた課長代理は、少し不自然に声を張り上げた。


須山(すやま)幸一(こういち)様邸の図面、明日までにコピーお願いします」

私は大きく頷いて見せ、全て了解ですと答えた。


須山邸の図面のコピーは、朝の内に頼まれていたことだったから、取り敢えずのようにコピーを始めたけれど、胸のざわつきを抑えるのに必死だった。


課長代理の話を聞いて、設計課が社内の誰かに攻撃を受けていると確信した。

課長代理には言わなかったけど、前にも同じことがあったからだ。


正確に言えば、課長代理に聞くまで、あれが同じ出来事だと認識できていなかったけど、状況が余りにも似ている。


あれはゴールデンウィーク前の、事務処理が溜まって忙しい時だった。


席に戻ってきた雪下(ゆきした)課長が、飲み物を飲もうとして突然叫んだことがあった。


「やだ、なに⁉ 変な臭いがするんだけど」


立ち上がった課長を無視することもできず、私と田乃崎(たのさき)君が近寄って行った。

「どうされましたか?」


「ちょっと、臭い嗅いでみてよ」

課長がコーヒーの入った自分のマグカップを私達に差し出した。


鼻を寄せてみると、確かに漂白剤のような刺激臭がした。


「さっきまでは、何ともなかったんですか?」

田乃崎君が、鼻に意識を集中させたままの顔を課長に向けた。


「知らないわよ。コーヒー入れてすぐに、営業部長に呼ばれたから、飲んでなかったもの」


その時は、漂白済みのコップをしっかり洗わないで使ったんだろうぐらいに思っていた。


私と田乃崎君で新しいコーヒーを入れるように勧めると、課長もそれ以上は追及しなかった。


私の思い違いじゃない。

この会社に、人を傷付けようと企んでいる悪い奴がいる。


でも、こんなこと誰にも話せない。

話した相手が悪人かもしれないし。


コピー機の前で吸い込まれていく図面を眺めながら、犯人の可能性のある人物は誰だろうと考えていた。


まずは、雪下課長と家永課長代理と私の三人は除外するとして、設計課に恨みを持つ者を思い浮かべてみる。


営業課の誰かか、工事課の誰かか、設計課内の誰かか。

疑い始めたら、他の課だって疑える。


でも、机の上の飲み物に何かを入れるんだったら、階の違う総務課なんかは除外できる。

滅多に来ない人がいたら、それだけで注目されてしまうから。


営業の人達は、人によって程度は様々だと思うけど、設計課メンバーを嫌っていると思う。


営業担当に言わせると、設計課のメンバーは営業の気持ちを考えないし、上から目線でモノを言うらしい。


成績を残している営業マンほど、設計担当と接点が多いから不満も溜まる。

奥山(おくやま)係長や山池(やまいけ)さん、泉田(いずみだ)君辺りか。


工事担当はどうだろう。

工事担当者が設計課に対して、攻撃したくなるほどの強い怒りを持つのは想像できない。


逆に設計課メンバーのほうが工事課の人に対して苦手意識が強いし、憎しみを感じる時もあると思う。


後からなら何とでも言えると、よく雪下課長も憎々しげに漏らしている。

課長だけじゃない。

田乃崎君や月元(つきもと)主任からも、工事担当へのぼやきを聞くことは多い。

業務でやり込められているのは、いつも設計課のほうなのだ。


やっぱり、工事課の誰かというのは可能性が低い。


設計課内はどうか。

そっと、設計課メンバーを見渡してみる。


攻撃的な恨みを抱えていそうなのは、月元主任と伊津(いづ)さんだ。


でも月元主任はあれで、気が小さいところがあるし、伊津さんは社員とは一線を引いているから、あんなことまでするか疑問だ。


夏原主任は候補から外して良いと思う。

と言うよりも外したい。


もし、撮影した動画に夏原さんが犯人として映っていたら、人類という種族全てが信じられなくなってしまう。


「柏居さん。コピー、まだかかりそうですか?」

真名部君が図面を数枚抱えてやってきた。

「急ぎだったら、先に使っていいわよ」

私は急いで脇へ退いた。


「すみません。すぐ済みます」

真名部君を少し下がった所から眺めながら、この子は違うよねと考えていた。


入社以来、数えるほどしか話したことはないし、普段の口数も少ないから何を考えているか分からないのは確かだ。


だけど、恥ずかしそうに寄って来て、私がやっている雑務を手伝ってくれるし、夏原さんから言われた作業を素直に行ってるところを見ると、心が汚れているようには思えない。


最近は誰かに言われなくても、気遣いができるようになってきた。

もう少し笑顔が出せるようになれば、コミュニケーションも進むのではと思う。


コピーを終えて戻って行く真名部君を目で追いながら、田乃崎君のほうがああ見えて、実はやるタイプかもしれないと頭に過った。


田乃崎君を疑ったすぐ後で、田乃崎君よりも、適応障害で休みがちな菱山(ひしやま)さんのほうが怪しいという考えが浮かぶ。

事件のあった日、彼は出社していただろうか?

調べてみる価値はありそうだ。


結局、皆怪しくなってきた。


「何か、疲れてそうね」

頭を回転させながらコピーを取っていたせいで、ぐったりした私は席でぼっとしていた。


夏原主任に声を掛けられるまで、自分でも気が付かなかった。

「大丈夫です。すみません」


「これ。全体会議で支店長が言ってたリスト。まとめ、お願いします」


この上半期内で完成した物件の内、お客様へ建物を引渡す時に、設計担当が立ち会った件数を明確にするよう申し渡しがあった。

本社に報告するらしい。


夏原さんは早速、自分の分を提出してきた。

いつも仕事が早い。


他の担当者はきっと、私が催促するまで持って来ないだろう。


夏原さんは朗らかだし、優しい。

男女問わず人気があるのは当然だ。


いつか課長になるんだろう。

その時は雪下課長とも、歴代の男性課長達とも違う課長像を見せてくれそうだ。


でも、私は女性が男性と同じように働く必要なんて無いと思っている。


時代錯誤と言われるかもしれないけど、生活費は男性に稼いでもらって、女性は子育てや家事に専念することが幸せだと思う。


雪下課長のように、結婚して出世もしてなんて、考えただけでも目が回る。


「男は敷居を跨げば七人の敵ありって聞いたことない?」

いつかの飲み会で、雪下課長が唐突に話し出した。


私も含めてそこにいた皆、初めて聞く言葉だったから曖昧に頷いていた。


「男が世間に出て活躍すると、多くの敵ができるっていう、ことわざみたいなもんなんだけど」

課長は酔っていたけど、口調はしっかりしていた。


「あれ。男を女に置き換えたら、七人の敵どころじゃ済まないわよ。男は世間で活躍したって、義理の両親や妻から批判されることは無いし。同じ職場の女子から生意気だなんて言われることも無いじゃない?女が世間で活躍したら、敵は十人どころじゃ済まないわよ」


義理のご両親や旦那さん、社内の人間、そういった人達が、女性である課長の前に立ちはだかってきたということだろう。


女性が男性と肩を並べて仕事をすると言うことは、外敵だけで無く、身内に潜む障害にも心を配らなくてはならないのだと、妙に納得がいった。


夏原主任にも雪下課長のように、いつか十人以上の敵を相手にする日が来るんだろうか。

でも夏原主任が相手なら、敵も手加減をしたくなるような気がする。




「警戒されているのかな」


数日後、私と家永課長代理は、普段余り人が来ない談話スペースで向かい合って座っていた。


あれから課長代理は、飲み物を残して何度も席を外した。

その都度、合図をもらった私は目立たないように動画を回していた。


何も起こらなかった。


「そうかもしれないですね。私達が、チームを組んでいることがバレてるんでしょうか」

課長代理は腕組みをして、しばらく考え込んだ。


「あれから、俺に恨みを持っていそうな人物をピックアップしてみたんだけど」

「候補がいたんですか?」


「三、四人かな。でもその中の誰かだという確信も無いんだ。こっちが知らない内に憎まれてる可能性もあるし。そういう目で見たら、誰も彼も疑わしくなってしまって」


雪下課長の事件は、課長代理には伝えていない。


本当は話したほうがいいんだろう。

もしかしたら、二人に恨みを持つ共通人物が浮かび上がるかもしれないからだ。


でも伝えたら、課長代理は雪下課長に話すと思う。

そしたら事が大きくなって、収拾が付かなくなりそうなのが怖い。


課長は容赦無く、大々的に犯人捜しを始めそうだからだ。

ズルいと言われても、私はそのトリガーになりたくない。


「あと一週間、様子を見たい。もう少しだけ協力して欲しい」

分かりましたと答えながら、もしかしたら、このまま何も起こらないかもしれないと考えていた。


課長の時も一度だけだったみたいだし。

犯人の気が晴れていたら、このまま終わるかもしれない。


希望的な予測だったけど、結局その後二週間何も起こらなかった。




九月も月末が近付いて忙しくなっていた。


「柏居さん。家永さんがギックリ腰になってしまったらしくて、今、接客スペースで休んでる。多分、ご家族の方を呼んで、帰ることになりそうだよ」

青白い顔で報告してきたのは、常に万全の体調とは言えない菱山さんだった。


メガネが歪んでいるように感じるのか、しきりにフレームを触って位置を直している。

青白い顔色は昔からだから、今は彼の体調についての心配は必要無い。


課長代理と菱山さんは午前中から、一階でお客様と打ち合わせをしていた。

私は接客スペースへ向かった。


事務員は課長の秘書の役目も負っていると私は考えている。

確認して報告しようと思ったのだ。


階段を降りた一階のホールでは、受付の女性が二人がかりで掃除をしていた。

こんな時間に珍しいと思いながら通り過ぎた。


接客スペースは、パーティションで幾つかに区切られている。


人の気配のあるブースを覗くと、椅子に何とかお尻を乗せているという感じの課長代理が、前屈みのまま頭を少しこちらに向けた。


私を見て、情けなそうに笑顔を作る。

「大丈夫ですか?」


家永さんは軽く首を降った。

よく見たら、額にうっすらと汗が滲んでいる。


「打ち合わせが終わって、階段を上ろうとした時、上から観葉植物の鉢が落ちてきたんだ」

「え?」

「驚いた弾みで、ギックリ腰をやってしまった」

いててと、腰を擦る。


「鉢は、どこかに当たったんですか?」

「いや、大丈夫。床に落ちただけ。菱山君も一緒にいたから、菱山君こそ一時、呼吸がヤバかったけど。少ししたら落ち着いたようだったから、柏居さんに伝言を頼んだんだ」


菱山さんはそんなこと、一言も言ってなかった。

大変だったなんて、気付いてもあげられなかったことを悔やんだ。


「ご家族には連絡されたんですか?」

「うん、さっき」

そう言って、家永さんはふつりと黙った。


何を考えているか想像が付く。

私と同じことだろう。


犯人は諦めていなかったんだ。

背中に寒気が走った。


「雪下課長に報告します。飲み物の件も」

家永課長代理は黒目だけで私を見て、そうだねと頷いた。


横顔が悔しそうに見えた。


翌日から、家永さんは自宅勤務になった。


〔015 へ続く〕

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