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マチネとソワレ

気候が夏を迎える準備を始める六月。凪いでいた水面に一石が投じられる。

劇団星ノ尾に、演劇雑誌の取材の依頼が舞い込んだ。公演中の『青い靴』が好評を得て、口コミや個人のSNSに多数取り上げられたのがライターの目に留まったという。2ページの記事とはいえ、発行部数は業界でもトップの雑誌『マチソワ』の依頼だ。集客や知名度のアップには申し分がない。だが、団長は大きく頭を悩ませていた。それは主役を務める、自らの娘でもある海里の存在。私情を挟みたくはなかったが、海里を多人数の好奇の視線に晒したくはなかった。

役者として海里は生きていきたいと言ってはくれたが、元来の性格は人見知りで大人しい性格だ。中学の頃は他人を避けるように過ごしてきて、海里に演劇で役を与えて、ようやく人前に立つ楽しさを知ってくれたところだと思う。今、注目を浴びることが彼女にとっていいことなのかどうか。それが、わからない。

「何を言ってるの、お父さん。」

父親としての想いを海里に伝えたところ、一蹴されてしまった。

「いや、今はあえて団長って呼ぶね。団長は星ノ尾にとってのチャンスを父親としての私情で潰すつもり?」

「だが…。心配なんだよ。」

いつになく不安気な色を滲ませる父親の声に海里は叱咤する。どうやら今日は立場が逆のようだった。

「私は平気。というか、私が星ノ尾の足枷になりたくないんだけど。そこのところの配慮はしてくれているの?」

腕を組み考え込み、そしてゆっくりと瞼を開けて海里を見た。

「…本当に、大丈夫なんだな?」

「うん。」

海里の毅然とした態度に団長は腹をくくったようだ。

「わかった。何かあったら、必ず相談しなさい。」

そう締めくくり、劇団星ノ尾は雑誌のライターにOKの連絡を入れることにしたのだった。

その日のうちに劇団員に雑誌『マチソワ』の取材が入ることが周知された。劇団内部は浮足立ち、歓声が沸く。

「海里ちゃん、インタビューとかされちゃうんじゃない?やだー、有名人じゃん!」

海咲がはしゃぎながら、海里の肩を叩いた。海里は「どうでしょうね」と苦笑する。そして父親兼、団長が手を叩いて劇団員たちの視線を集めた。

「次回の公演で雑誌のカメラマンさんが来る予定です。緊張せず、いつも通りを心がけて取り組みましょう。」

はい、という声が重なって今日は解散となった。

父親と共に自宅に帰り、海里は自らの部屋に行く。部屋着に着替え、携帯電話を手に取った。そしてカチカチとメールを打つ。送信先は時生のスマートホンだ。

『雑誌の取材が劇団に入ることになりました。』

送信すればわりとすぐに返信をくれる時生だったが、今日はいつになく海里の携帯電話が鳴るのが速かった。

『すごいじゃん。』

時生のメールの文章は短い。メッセージアプリならそこから話が広がっていくのだろうが、メールだとそっけなく感じてしまう。時生は面倒に思わずにマメにメールをくれるのが、救いだった。すかさず、二通目のメールが時生から送られてくる。

『おめでとう。雑誌、絶対買うわ。楽しみ。』


雑誌の発売を楽しみにしてくれる時生を待たせたのは、およそ一か月後のことだった。雑誌『マチソワ』の7月号には劇団星ノ尾が見開きで二ページほどの記事になって発売された。

発売日当日に雑誌を購入した時生は、海里と共に放課後の図書室で記事を読むことにした。

「すごい、綺麗に撮ってもらえたね。」

そこには舞い踊る瞬間の海里が記事のメインとして掲載されていた。

「素材が良いので。」

ささやかな胸を張る海里に「はいはい」と時生が笑いながら返すと「はい、は一回」と注意をされてしまう。

「いいなあ。僕も一ノ瀬さんを撮りたかったな。」

「私も写されるなら八尾先輩が良かったですけどね。」

当然ながら劇場内はカメラ、携帯電話等の撮影が禁止だ。特別な許可がない限り許されない。

「お。いいんだ?」

「もう私を一枚撮ってるじゃないですか。今更です。」

なるほど、と頷きつつ、海里にその写真を見せていなかったことに時生は気が付く。今度、見せてあげようと思った。今は雑誌の記事に集中しよう。

「インタビューもされたんだね。主役なら当たり前なのかな。」

時生は自分のことのように嬉しそうに目を細めて笑う。海里はその笑顔を横目で眺めながら、インタビューを受けた時間を思い出していた。


「初めまして、一ノ瀬海里さんですね。『マチソワ』ライターの清水です。今日はよろしくお願いします。」

ライターの清水は落ち着いた雰囲気の女性だった。そのおかげか海里は随分と落ち着いて、対応ができた。

「えーと、一ノ瀬さんは今回が初めての主役だとか。やっぱり緊張しました?」

「はい。でも…緊張を解してくれる人がいたので。」

海里の答えに清水は何かに気が付いたように、ややあと頷いた。

「それは―…、もしかして恋人とか?あ、嫌だったらここはオフレコにするから安心して。」

「ぜひ、オフレコでお願いします。」

素直に頭を下げる海里を清水は微笑ましく見つめながら、まるで友人のように楽しそうに話を促した。

「それでそれで?その緊張を解してくれた方って言うのはどんな人なの?」

「恋人ではないのですが、高校の先輩で。いつも妙に私を構ってくるというか…。」

思い出すのは時生と出会ってからの日々。海里の目色は優しく和らいで、春の陽だまりのような温度を保った。柔らかくなる雰囲気に清水は、ふふふ、と朗らかに微笑んだ。

「その人は、劇『青い靴』には影響した?」

「しましたね。私にとっての夫役は彼でしたから。」


「―…主役を務める一ノ瀬の瞳には劇に対する愛の色が滲む。今、注目を浴びる期待の若手女優だ。だって。すごいね。」

時生は声に出して海里のインタビュー記事を読んだ。海里は恥ずかしさに思わず、図書室の周囲を伺った。二人以外の人影はなく、ほっとする。

図書室は、埃がシェルパウダーを散らしたかのように空中を散らして窓の光に透けた。無数の書物がしんとして呼吸をし、自らを開き物語を紡いでくれる手を待っている。きらりと光るスポットライトを浴び、この静かな観客に囲まれて、まるで時生と海里の二人舞台のようだ。

「知人が雑誌の取材を受けるって初めてだよ。」

時生は自らのことのように嬉しそうに、雑誌の記事を眺め、指の腹でページを撫でる。

「あの…ありがとう、ございました。」

「ん?」

突然の海里の礼に、時生は何が?と首を傾げた。

「…『青い靴』の劇の成功には、八尾先輩も関わっているので。」

「そうかな。何かした記憶はないんだけど。」

海里は掌を使って、蝶々を作る。そのひらひらとした優雅な動きに時生は、ああ、と頷いた。

「蝶々。あれでリラックスしました。」

「それはよかった。」

今も持っている、と呟いて、海里は鞄から標本を取りだした。愛しそうに指でなぞり、掌で包む。

「もっと丁寧に作ればよかったな。ここ、傷がついている。」

時生も椅子を動かして向き合う。海里の掌を覗き込み、ふと息を吐いた。見れば、制作にあたってついてしまった小さな擦り傷が、バースマークのように刻まれていた。

「これがいいじゃないですか。この傷、掌によく馴染みます。」

その時の海里の表情には母性が溢れ、まるで聖母マリアのようだった。

「…なら、いいんだけど。」

垣間見た彼女の女性性に、時生は心臓が妙に高く脈打って困惑する。それからドギマギとしてしまって、うまく会話を続けられなくなってしまった。だが、海里は気にせずマイペースに雑誌を眺めていた。まるでアルバムを眺めているような気安い雰囲気だった。

最終の下校チャイムが鳴るまで図書室で過ごし、司書の先生に促されて昇降口に向かって廊下を歩いた。かつんかつん、と二人分の靴音が響く。七月のコンクリートの校舎は熱が籠って、外の方が若干涼しく感じられた。

「風が気持ちいいですねえ。」

海里は黒いサマードレス風のワンピースの裾を翻しながら、先を歩いた。

「うん。そうだね。」

とん、と飛び跳ねるような動きで、海里は歩いている。「どうしたの」と時生が問うと、「影しか歩いちゃいけないルールです」との答えが返ってきた。しばらく木の影や、ベンチの影。高校設立者の銅像など点々と影が続いたものの、校門をくぐれば視界は開けて影が少なくなって難易度が上がる。

「…。」

海里は難しい顔をして、どう攻略するかを悩んでいるようだった。時生は、くくく、と笑って自らの影の内側に手招きをする。

「一ノ瀬さん、こっちこっち。」

「…何ですか。甘やかすつもりですか。影以外はマグマですよ。」

えらく壮大な設定のようだ。

「いや、甘やかすって言うか…。ほら、ラッキーゾーン的な。」

「!」

しばらく海里は考え込み、地を蹴って時生の影を踏んだ。

「…お世話になります。」

「はい。どうぞ。」

影を踏む駅までの途中、コンビニに寄ってそれぞれ好みのアイスクリームを買い求める。

「チョコミントってめっちゃ歯磨き粉の味じゃないですか?」

時生が選んだチョコミントのアイスクリームを彩る青を眺めながら、海里は問う。

「よく言われるけど、それって単にミント感が強いものを食べただけだと思うよ。」

「全部、同じじゃないんですか。」

ふうん、と海里は感心する。

「じゃあ、今度、八尾先輩がおすすめのチョコミントを教えてください。」

「了解。」

柔らかく温い空気が二人を包む、夏の七月の放課後のことだった。


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