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青い靴

「一ノ瀬さんは、演劇部とかには興味がないの?」

新緑に雨が降る五月のある日。今日は図書室で二人、校舎裏の非常階段の踊り場で過ごしていた。海里は愛読書のようにいつも台本を読んでいた。

「ないですね。」

その台本から目を離すことなく、海里は時生の問いに即答する。その視線は台詞や感情の動きについてのアドバイスに向けられていた。時折、赤いサインペンを取って何かメモ書きをしている。真剣な眼差しは凛々しく、彼女の本気度が伝わってきた。

「そっか。」

時生は頷いて、手にしていた紅茶飲料のペットボトルを傾けて飲む。甘く香ばしい芳香とちょっとした渋み、ミルクの甘さを感じた。飲み物のチョイスは海里だった。互いに使えるお金の少ない高校生と言うこともあり、金額を折半して購入した。海里が「飲み物のシェアぐらいで狼狽える年でもないでしょう」と言い放ち、それならと時生は了承したのだった。時生としてはコーヒーの方が好みだが、海里がコーヒーのカフェインを受け付けず大体いつも紅茶になった。

「あ、私の分も残しておいてくださいね。」

やっと顔を上げたかと思えば飲み物の心配かと、少し残念に思う時生がいた。時生からペットボトルを受け取って、海里は口をつける。露わになる白い喉元が嚥下して動く姿が妙に生々しく感じた。そしてそのペットボトルを傾ける左手の手首につい目が行ってしまう。

「…何です?」

海里が怪訝そうに時生の視線を遮るように声を出した。

「何でもないよ、ごめん。」

「嘘。八尾先輩って遠慮なく人を見ますよね。理由は?」

こういう時、海里は逃げることを許してくれない。時生は、困ったな、と呟いて口元に手を当てて考える。彼女を怒らせない言葉は何だろう。

「…一ノ瀬さんがきれいだから。」

「気分は良いです。それで具体的に?」

第一声は成功したようだ。

「きれいと思う気持ちを具体的に表すって相当難しいんだけど…。強いて言うなら、花を見て愛でる気持ちと似てるかな。」

理由なく花の色彩や花びらの形、その香りを好ましく思う気持ちによく似ていると思った。美しく思う感情に明確な理由はない。

「つまり、海里さんは花のように麗しいと。」

そこまでは言っていない、との言葉を時生が飲み込んで頷くと海里は上機嫌になって頷いた。

「よろしい。では、従順な下僕にご褒美をあげましょう。」

「決して下僕ではない。」

時生の抗議を無視して、海里は鞄の中を探って一枚の紙きれを取り出した。

「これは?」

それは劇団星ノ尾の公演チケットだった。

「今度、初日を迎える劇『青い靴』のものです。普段ならお金を取りたいところですが、今回は特別です。」

ふふん、と得意げに海里は胸を張る。

「青い靴?赤じゃないんだ。」

「はい。脚本家の先生曰く、童話『赤い靴』のオマージュらしいです。」

ふうん、と呟きながら時生はチケットを眺めた。そして裏面の文字に、海里の名前を見つける。

「主役じゃん。」

主演の役者の名前、一番先に刻まれていた。海里は珍しく感情豊かにはにかむ。

「初めての主役なんです。中には親の七光りだとか、えこひいきだという言葉もありましたが、私、これでも頑張ったんです。」

よく見ると、先ほどまで手にしていた台本のタイトルが『青い靴』だった。この台本に「ガンバレ」と書き込んで怒られたのは記憶に新しい。読み込まれ、擦り切れた台本に彼女の頑張ったという真意を知る。海里は己の力で主役の座を勝ち取ったのだろう。

「そうか。楽しみにしてる。」

時生は微笑んで、チケットを大事にスマートホンのカバーにはさんだ。そしてそのままの流れで、自らのリュックからある物を探る。

「じゃあ、はい。お祝いになるかわからないけど。」

取り出したのは、あの春の日に採取した蝶々の樹脂封入標本だった。昨日、やっと完成した。

「蝶々。」

海里がうわ言のように呟いた。時生はそっと小さな海里の掌に置いてやる。海里はまるでガラス細工を扱うように両の掌で包んだ。

「…。」

「残念ながら樹脂の封入で鮮やかな色彩は消えたけど…、翅の模様はそのまま残ったと思う。」

どうかな、と時生は海里の顔を覗き込む。そこで初めて、海里の満面の笑顔を見せた。

「ありがとうございます。嬉しいです。」

「そ、そう。よかった。」

いきなりの笑顔という爆弾投下に、時生はドギマギと戸惑う。そして照れ隠しのつもりで、海里の演技にアドバイスをした。

「今の笑顔、がいいんじゃないかな。前に?マークを付けてた演技指導。」

「え?」

海里は幼い子供がするようにきょとんと眼を丸くする。そして一瞬にして頬と言わず、耳まで朱に染めた。唇をきゅっと結び、視線を標本に戻す。そして小さな声で呟く。

「ほ…、本当ですか。」

「うん。僕は演技ができないけど、これだけは保証する。」

時生が断言してみせると、海里はぎゅうっと標本を握った。

「じゃあ…。その、これ、お守りにします。」

「それは光栄だな。」

海里のツンデレで言う所のデレ部分を貴重に思いながら、微笑ましく感じる。劇の公演日は来週の日曜日。いつまでこのデレ期は続くのかなと、人知れず思う時生だった。結果として、公演日が近づくにつれて海里は神経質になっていき、そう長くはデレ期は続かなかったわけだけれど。


劇団星ノ尾、『青い靴』初日公演日。

時生は再び、劇場に訪れていた。差し入れにと思い、その手には飲み物のペットボトルが数本入った袋が下げられている。劇場の開場までまだ一時間ほどある。足音を立てぬように時生は練習スタジオに続く階段を下って行った。思い出せば、前もこうして緊張していたような気がする。苦笑しながらそっとガラスの扉から室内を伺うとメイクを施したり、衣装に着替えたりと役者とスタッフが忙しそうに動きまわっている。目を凝らせば、海里が最後にダンスの確認を振付師と行っているようだった。海里はすでに衣装に身を包んでいた。

長く美しい黒髪は僅かにウェーブが掛かり、ステップを踏むたびに波のように揺れる。青いシフォン生地の布が幾重にも連なったドレスはターンをする度にふわりと花の蕾が開くように広がった。その姿は初めて見た時に桜吹雪の中で舞っていた海里に重なった。

五分ほど感慨深く見守って、時生は差し入れをさっと渡して地上に戻ろうと決心する。ドアノブに手をかけて、思い切って開いた。

「こんにちは。」

「あ、時生くんじゃん。ちょっと待ってね、海里―…、」

一番に気付いたのは海咲だった。海咲は当然のように海里を呼ぼうとして、慌てて時生は止めた。

「呼ばなくていいです。集中しているみたいだから。」

「そ?」

首を傾げる海咲は英国のメイドの衣装を着ていた。白のレースのキャップ、白いエプロン。黒いワンピースが清楚な印象を受ける。

「これ、差し入れです。良かったら。」

「うわー、ありがとう!このメイドが確かに受け取りましたわ。」

ワンピースの裾をちょこっと摘まんで恭しく海咲はお辞儀をした。

「海咲さん、本当のメイドさんみたいですね。本物を見たことはないけれど。」

「ふっふっふ。たくさんメイド喫茶に行って研究したのだー。」

その行動は参考になるのかわからなかったが、このメイドらしい所作から成功しているのだろう。

「八尾先輩?」

海咲と話している間にダンスの確認を終えたらしき海里に、結局気付かれてしまった。時生は申し訳なさそうに笑いながら、海里と向き合う。

「こんにちは、一ノ瀬さん。緊張してる?」

「してます。」

てっきり気が強い海里のことだから、「平気です」という言葉が返ってくるものだと思っていたから時生は拍子抜けしてしまう。

「あ…、そっか。そうだよね。これ、差し入れ。」

時生は袋の中から海里がいつも好んで飲む紅茶飲料を取り出した。受け取って、海里はじっとそのペットボトルを見た。

「…何か、八尾先輩の顔を見たら気が抜けました。」

そういうと海里は、ふー、と大きく深呼吸を一つした。閉じた目蓋をゆっくりと開けて、時生を見る。海里の瞳に映る自分自身と目を合わせながら、時生は次の言葉を待った。「今日、私をしっかり見ていてくださいね。」

主役の私を、と言うよりも、失敗しないように見守っていて、と時生は感じ取る。

「うん。わかった。」

時生が力強く頷いたのを見て、海里は満足したようだった。「じゃあ、開場するまで外で時間を潰してるね。」

時生が踵を返そうとして、つん、と服の裾を引っ張られる。「!」

「ここにいればいいじゃないですか。」

思いがけない海里の言葉に、時生は目を丸くした。何を言えばいいかわからずに戸惑っていると、海咲が海里の肩からぴょこんと顔を出して援護射撃をしてくる。

「そうだよー。海里ちゃんの話し相手になってあげてよ。」

「邪魔では、」

時生が遠慮する間もなく、海里がメイクスタッフに呼ばれてしまう。海里は時生の手首を掴んで、化粧台の方へと誘った。そして時生に化粧台の斜め後方にいるように命ずる。

「意外と強引だな…。」

「何か言いました?」

鏡越しに海里に小さく睨まれる。でも今はそれが海里の照れ隠しだと言うことを知っていた。時生は、苦笑しながら用意されたパイプ椅子に座った。その間にも海里は前髪をまとめられて、肌を化粧水で整えていく。化粧下地、ファンデショーンを肌に乗せていくとより一層、無機質な人形味が増した。

「チーク入れる?」

「踊ってると血色がよくなるから、控え目にしてください。」

メイクスタッフと相談しつつ、化粧がどんどん完成されて行った。アイメイクで目元は潤み、肌は滑らかな大理石のように輝き、唇の中心にオーバー気味にコーラル系のリップを乗せた海里は少女らしさと大人っぽさを兼ね備えた不思議な魅力を放っていた。

「海里さんは化粧映えする顔立ちをしてるから、メイクしていて楽しいよ。」

出来上がり、とメイクスタッフが海里の胸元からケープを外した。海里は立ち上がり、くるりとターンをするように時生を直に見る。

「どうです?」

「いや…、驚いてる。印象変わるもんだなあ。」

時生はパチパチと拍手をする。本当に、一つのショーを見ているような気分だった。

「あれ?海里さん、忘れ物だよ。」

メイクスタッフが化粧道具を片付けながら、海里に声を掛けた。

「あ。」

海里は慌てて振り返って忘れ物を手に収める。

「大事な物なんでしょう?ずっと握りしめていたから、温かかったよ。」

メイクスタッフがくすくすと笑って指摘した。時生は何だろうと思い、ふと海里の手の中を覗き込んだ。そこには時生が贈った蝶々の樹脂封入標本があった。

「…何を笑ってるんですか。」

時生が声もなく笑っていることに気が付いた海里が、恥ずかしそうにその手を背後に隠した。

「いや?光栄だな、と思って。」

以後もクククと鳩のように時生は笑っていた。

やがて開場の時間が近づき、時生はいよいよスタジオを退室することにした。

「じゃあ。一ノ瀬さん、楽しんで。」

時生の言葉に海里は神妙な面持ちで頷く。どうやら緊張も高まってきているようだ。

「一ノ瀬さんが見えたら、掌で蝶を作るね。」

両の掌を重ねて影絵を作るようにして、時生は蝶々を作って見せる。その即席に作られた蝶々を見て海里は、ふと口元に手を当て微かに笑ってくれた。

「他の観客の迷惑にならないようにしてくださいよ?」

「了解。」

別れる間際、二人は左手で握手を交わすのだった。

やがて劇場が開かれて、時生はチケットに記載されていた席を探し当てる。劇場内は半円形になっており階段状に席が配置されている。その中心にあるのが舞台だ。比較的に前より、斜め右から舞台を眺められる席だった。席に座り、パンフレットを眺めていると隣に人が座る気配がした。

「こんにちは。」

「! 上田さん。」

驚いて顔を上げると、そこには喜一がいた。彼もまた、劇団員の海咲に誘われて訪れたのだろう。

「星ノ尾の劇は初めて?」

穏やかに微笑みながら、喜一は話しかけてくる。時生はパンフレットを閉じて膝の上に乗せた。

「と言うか、演劇をちゃんと見るのが初です。」

「そっか。実は俺も海咲経由で演劇をしっかり見るようになったんだ。」

照れくさそうに頬をかき、喜一は笑窪を刻んで更に笑う。

喜一と海咲は大学の同期で、彼女のセリフ合わせの練習に付き合ったことがきっかけらしい。その頃の演目でカップルを演じることになった海咲が、セリフで喜一に愛を囁くうちに本当に好きになったという。

しばらく談笑を交わしていると、劇場内の明かりが消えて薄暗くなる。そして開演に先駆けての諸々の注意がアナウンスされ、ブザーが鳴り響いた。時生と喜一は口を噤み、それぞれ舞台に視線を注いだ。

薄いカーテンを引いたような闇の中スポットライトを浴びたのは、メイド役の海咲だった。

メイド視点、お屋敷で語り継がれるお話の劇の始まりだった。

海咲は恭しく礼をして、静かな凪いだ口調で語りだす。口上は滑らかで、しんとした舞台で彼女の声は深く沁み渡るように響く。それはまるで耳元で直接、囁かれているようだった。


お屋敷には一組の夫婦が住んでいた。幼な妻だった夫人はその年齢にふさわしい小悪魔な要素を含んだ性格をしていた。夫がいる身ながら、夜な夜な仮面舞踏会に赴いて一夜の相手を探すと言う。真冬、しんしんと雪が降る寒い夜のことだった。彼女の夫が流行り病で床に臥せり、命が風前の灯にさらされた頃。夫人は舞踏会にて好い人と踊りを交わしていた。そして、夫の命が欠き消えた瞬間から彼女の踊りは止むことの無い呪いにかけられたのだ。夫人は踊り狂う瞬間、青い靴を履いていた。


「―…青は、生まれてきた意味を問う色。彼女は思い出すことができたのでしょうか。」

メイドがゆっくりとした足取りで舞台を去る。代わりに訪れたのは、海里だった。緊張している。

「…。」

時生は舞台上の海里に向かって、蝶々を作った。ひらひらとした動きはイレギュラーに観客の中から目立ち、海里と目が合う。その瞬間から、海里の演技が生き始めた。

「それは?」

小さな声で、隣の喜一に問われる。

「すみません…。ちょっとしたおまじないです。」

手を下げて席に座り直す時生を不思議に思って首を傾げながらも、喜一もまた視線を舞台に向けた。


「君の肌には、清らかな青がよく似合うね。」

場面は舞踏会の片隅。夫役の男性が、夫人役を演じる海里の白い手を取ってその指先に口づける。

「ありがとう。私もこの青が大好きなの。」

青く美しいドレスに身を包んだ海里は甘く微笑み、自ら男性を踊りに誘う。二人はゆったりとした足つきで、ステップを踏み舞踏会の華となった。

白い月光ののようなスポットライトを浴びて男性は結婚を申し込み、海里は満面の笑みを浮かべる。それは、時生が「ガンバレ」と書き込んだシーンだった。どうやら言霊は生きたようだ。

暗転、舞台はお屋敷の部屋に変わる。二人はカウチに座り、会話を交わす。BGMに小鳥の鳴き声が囀っている。

「私たちに子どもが生まれたら、あなた譲りの優しい目色が良いわ。」

海里は男性の頬を両の手のひらで柔らかく包み、瞳を覗き込んだ。男性は海里の手に自らの手を重ねて、囁く。

「君譲りの、その漆黒の髪の毛が引き継がれたらどんなにいいだろう。きっととても可愛らしい子に育つよ。」

仲睦まじい年の差が離れた夫婦は互いに見つめ合い、慈しみ、微笑んだ。

夫の仕事は貿易商。船に乗れば、月をまたいで帰ってこないこともしばしば。夫のいない間、夫人は寂しさを紛らわすように夜な夜な美しい銀製の仮面を身に付けて、舞踏会を踊り歩いた。

「ねえ。私、人のものだけれど、それでも愛してくださる?」

毒気を含むほどに美しさが増していく声色。代わる代わる愛人を変えながら、海里は更に中毒性を帯びた仮初めの愛に溺れていく。

真冬の夜をチラチラと舞うような光で降る雪を表現していた。流れるように行き交う人々の影に、海里は小さく舞台の中央を駆け回る。彼女の回想のように、夫である男性の声が響き渡る。こん、こん、と咳き込み、夫人の名前を呼んでいた。海里はその声をかき消すように首を横に振った。タクシー代わりの馬車を呼び止めて、仮面舞踏会に向かって乗り込む。

劇は進み、夫人が呪いにかかる瞬間。彼女が華麗にステップを踏み始めた。コマドリのようにとことこと駆けたかと思うと、足の裏にばねが付いているかのように跳んだ。手の指先の表情からは星屑の光が生まれるような錯覚を得る。時生が覗き見た台本からは、この踊りは劇が終わるまでのあと四十分続くのだ。

「見てごらん。あれが、呪われた女だ。」

「旦那を裏切った女の末路でしょう。自業自得だわ。」

町の人々が、踊りを止めることのできない海里を罵った。その声は徐々に増えていき、やがて雑音となる。

海里の踊りは狂気を以て激しさが増していく。彼女の額からは真珠のような汗が散って、青い靴が磨り減る音が響き渡る。音楽も徐々にリズムが崩れていった。

その迫力に観客の緊張感は増していき、皆が息を呑んだ。

「…頑張れ。」

時生は海里の迫真の演技と踊りに、神に祈るように合わせた掌で口元を覆い隠す。隣の喜一も何か考え込むように目を細めて、夫人の最期を見守っている。やがて高い最後の一音がはじけ飛ぶように途切れた。

「…神、さま。」

ステップを刻む足音がいつの間にか止んでいた。海里が息も切れ切れに、天を仰ぐ。

「あの人の、もとへ…連れて行って…くださ、い。」

その時の表情は、弾けるような笑顔だった。それは結婚を申し込まれた時の笑みに酷似していた。笑顔の中に涙に濡れた瞳が燦然と輝いていた。そして糸が切れたように、彼女は崩れ落ちる。しんと静寂が舞台を、劇場を包んだ。ゆっくりとゆっくりと緞帳が降りて来て、舞台の幕は閉じる。その刹那、緊張から解き放たれた観客から弾かれたように拍手が起きた。いつまでも止むことの無い、長々とした喝采だった。

「主役の子、すごかったね。」

「迫力に吞まれたわ。」

帰り支度をした観客たちが感想を言い合いながら、席を立っていく。時生は呆然と気が抜けたようにそこに座ったままだった。喜一が中々立ち上がることのない時生を心配して、声をかける。

「八尾くん?大丈夫、」

「…あれは、」

時生は熱に浮かされたようにぽつりと呟いた。

「本当に、一ノ瀬さんだったのかな。」

普段の海里を知る時生には、信じられないようなものを見た心地だった。踊り狂い、こと切れたのは誰だったのか、わからなくなる。誰よりも台本を読み込み、演技を高めるために努力を惜しまなかった海里。役者に対する彼女の本気度が痛いほど伝わってきた。

「どうする?俺はこの後、海咲と合流するけど。」

一緒に行く?との喜一の提案を、時生はゆるゆると首を横に振って断った。

「今日は…、このまま帰ります。」

それだけ言うと、時生はゆっくりと立ち上がった。今、海里に会っても何を話せばいいかわからなかった。


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