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猫の埋葬

高校までは徒歩と電車で通学していた。毎朝毎朝、人を目的地まで工場勤務のように運ぶ電車の込み具合には嫌になる。海里はかさばる服装でもあるために、迷惑がられることも多かった。ようやく吐き出されるように下車する頃にはすでにくたくたに疲れていた。ICカードの定期券を改札にかざして駅構内を出ると、不意に声をかけられた。

「おはよう。」

驚きにひゅっと息を呑んで振り返ると、そこには時生は立っていた。

「八尾先輩。…おはよう、ございます。」

小さな声で挨拶を返すと、時生は、うん、と頷いて海里の隣を歩き出す。

「温かい日和だね。」

時生の言葉に、海里も釣られるように空を仰ぎ見た。蒼穹の端に月が居残っていたが、雲が見当たらない見事な晴天だった。

「開口一番が天気の話って、つまらないですね。」

「あまり突っ込んだことをいきなり聞いても、一ノ瀬さん、嫌でしょ。」

何か間違いでも?と時生は首を傾げるように、海里を見つめた。自分を見透かされているようで何だか悔しくて、時生の顎の先をくっと掴んで前に向けた。その反応に時生は声を出して笑う。

「何が可笑しいんですか…って、なんで私たちは一緒に登校してるんです?」

「同じ学校だからじゃない?」

朗らかに笑うこの先輩が、私は苦手だ。

高校に近付くにつれ、生徒が増えてきた。友人同士で歩く生徒からは、華やかな笑い声が聞こえてくる。積極的に朝の挨拶を交わすのは校門に立つ教員だ。

「お。おはよう、八尾。珍しい組み合わせだな。」

今日の当番は小林教諭で、時生と海里が連れ立って歩く姿をいち早く見つけた。

「駅で偶然一緒になったんですよ。」

「そうか、そうか。一ノ瀬もおはよう。」

小林教諭の挨拶に無言で返す海里をフォローしようと時生は試みる。

「一ノ瀬さん、シャイなんですよ。」

「決めつけないでください。挨拶ぐらいできます。」

「じゃあ、どうぞ」と時生に促されて、海里は渋々ながら小林教諭に「おはようございます」と小さな声で挨拶を返すのだった。一連の流れを見守っていた小林教諭は感心したように頷く。

「一ノ瀬の声、初めて聞いた気がするな。八尾は人の扱い方がうまいなあ。」

ははは、と大声で笑い、小林教諭はようやっと二人を解放するのだった。海里は一気に疲れたようで、肺を空っぽにするかのように深く溜息を吐いた。昇降口で上ばきに履き替えるために別れようとすると、海里は「それじゃ」と小さく頭を下げて踵を返してしまう。

「ちょ、ちょい待って。どこ行くの。」

時生が慌てて、海里を呼び止める。腕時計を見れば、あと数分もすれホームルームが始まる時刻だった。周りにいた生徒たち校舎の中に納まっていき、もう数えるほどしか見当たらない。

「どこって…、いいところですよ?」

海里は挑発的に目を細めてニヤリと笑う。

「八尾先輩は教室に向かわれてはいかがですか。遅刻になりますよ。」

「それは一ノ瀬さんも同じ条件でしょ。」

時生の困った声色を聞き、海里は満足気にそのささやかな胸を張った。

「私はいいんですー。」

「何、その謎の理屈…。でも、それなら俺も行く。」

海里が言う、自分はいい、の間に「どうでも」が付く気がして時生は放っておけなかった。

「先生に見つかったら怒られますけど、それでもですか?」

「そんなの承知の上だよ。」

海里は悩むように腕を組み、しばらく考え込むようだった。いいところに時生を連れて行くべきか否か、天秤にかけているのだろう。

「八尾先輩だとどうしてもついてきそうなので、譲歩します。」

どうやら連れて行く方向に傾いたらしい。

「段々、僕に慣れてきたね。」

「笑えない冗談は嫌いです。」

そう言って小鹿のような足取りで先を駆けていく海里を見失わないために、時生も後を追うのだった。

桜の花びらが浮かぶ高校のプールの脇道を抜けて、更衣室のある棟の裏に辿り着く。フェンスと木々のトンネルを通り、開けた場所に行きついた。そこには野良猫の集会場が存在した。

「ここがいいところ?」

「いいでしょ。ねえー?」

時生の問いに、海里は猫を抱き上げながら答える。猫たちも海里の来訪に慣れているのか、彼女の周りを纏わりついて離れない。華美なゴスロリのワンピースの裾が土ぼこりに汚れるのも構わずに、彼女は膝を抱えて座り猫たちを木の枝であやした。

「にゃーにゃー。」

海里は自然な笑みを浮かべながらキジトラ猫、黒猫、三毛猫などの様々な毛色の猫と戯れる。時生は、ふうん、と感心したように呟きながら丸く広がったスカートを踏まないように注意しながら海里の隣に座った。柔らかい雰囲気の海里の横顔を盗み見ているつもりが、バレバレだったらしく時生は脇腹を小突かれた。

「恥ずかしいので、止めてください。」

舞台に立てば注目を集めるだろうにと思い、時生は不思議そうに首を傾げて見せる。

「恥ずかしいの?」

「そんなに熱心に見られると、普通は嫌だと思われるんじゃないですか。」

よく見ると海里の耳の先が朱に染まっていた。

「一ノ瀬さんの貴重なデレだと思って。」

「…何を言いだすんです?」

海里は呆れたと言い目を細めて、時生を睨む。

「いや、真面目な話。ツンデレかと思っていたら、デレが少なすぎるなって。」

「そもそも八尾先輩相手に、デレた記憶はありませんが。」

時生は目を丸くする。

「今、笑ってたじゃん。」

「それは、猫に対してですー。八尾先輩に、ではありませんー。」

ね?と海里は猫と目を合わせて、鼻と鼻の先をちょんと触れ合わせた。猫は甲高く鳴き、小さな前足の肉球で海里の頬をむにと揉んだ。

「僕は猫に負けたのか…。」

「勝てるとでも?」

ふふん、と笑い、海里は再び抱っこした猫を時生の胸に押し付けた。猫は時生に抱かれて所在無さげに動いていたが、腕の中でベストポジションを見つけて大人しくなった。

「悔しかったら、にゃあって言ってくださいよ。」

「にゃあ。」

別に恥ずかしくも、屈辱でも何でもないので時生は即答して見せる。

「…。」

「今、舌打ちしたな!?言えって言ったの、そっちなのに!」

時生がすかさず抗議を入れると、海里は大袈裟に耳を庇う真似をした。

「あー、もー。大声を出さないでください。猫が驚くでしょ。」

実際、時生に抱かれた猫は胸を蹴り地面に着地して、とことこと離れて行ってしまう。それからは反省して二人、無言で猫に接した。遠くで、本鈴のチャイムが鳴る音が響く。穏やかな春の光は柔らかく肌を温めて、若干ながら汗を覚えるほどだった。

「…そういえば。」

ぽとんとインクを落としたかのように口を開いたのは、珍しく海里だった。

「台本の書き込み。ガンバレってあれ、八尾先輩ですよね。」

「…ああ!うん、僕だね。」

一瞬、何のことかわからずに首を傾げかけて、思い出す。笑顔の演技指導の果てに?マークが浮かんでいたこと。その記号が震えて濡れる、戸惑う海里の心のように思えたこと。だからだろうか、励ましたくなった。

「一応、消せるようにシャーペンにしたんだけど。」

「そういう問題じゃないんです。気が散るので、今後は一切やめてください。」

その時、海里がどんな表情をしているのか気になってしまった。ちらりと時生が隣を盗み見ると、海里はぎゅうっと目を瞑って何かに耐えるように唇を結んでいた。その意味が知れずに、時生はそっと目を逸らした。

その内、押し寄せる感情の波から復活した海里はふと顔を上げる。そして徐に立ち上がった。

「どうしたの。」

「猫の鳴き声が…?」

海里は小首を傾げながら、ごそごそと四つ足で這っていく。

「汚れるよ。」

「黙って。」

いつになく真剣な海里は耳を澄まして、その鳴き声とやらが聞こえる場所を探る。そして茂みの中に潜って行って、動きを止めた。

「一ノ瀬さん?」

不審に思い、時生も腰を浮かして海里のもとへと行く。そして彼女が見つめる先を追った。

「…ああ…。」

時生が思わず、声が漏らす。そこには一匹の子猫が長く伸びた草の上をクッションにするかのように横たわっていた。だが、目元口元の粘膜付近に小さな蟻がたかっていた。子猫は絶命している。幼いころ特有の高い声で鳴いて兄弟と思しき子猫が、死骸から離れようとしない。

「…。」

海里は手を伸ばして亡くなっている子猫の身体を抱き上げる。優しく、死んでいても尚痛くないように群がった蟻を掌で払いのけた。時生は言う。

「…子猫の頃は、突然死も珍しくないから。」

だから仕方がないよ、とは続けられなかった。慰めにもならないとも気付いていた。泣いているのかなと思ったが、海里は意外にも笑っていた。優しく聖母マリアの像が浮かべるような笑みだった。

「…お疲れさま。」

海里は死後硬直が始まりかけて強張った手足を、母猫が毛づくろいをしてやるように丁寧に毛並みを撫でる。時生は何を言えばいいのかわからない代わりに、海里が抱く死骸に手を伸ばして彼女がしたように撫でた。しっとりとして、柔らかな毛の感触が指の腹に残る。生き残った猫たちが不思議そうに、二人を見上げていた。

きょろきょろと海里は何かを探すように、周囲を見渡す。そして一等温かい太陽の光が差す場所を見つけると死骸をそっと草のクッションの上に一旦寝かせて、自分は素手のまま地面を掘りだした。土葬するための場所を探していたのかと知り、時生も海里の手と重ねるように一緒に地面の土を掘り起こす。

「汚れますよ。」

海里が言う。手伝わなくても、構わないと。

「いいんだ。一緒にやらせて。」

爪と指の間に土が挟まるのもいとわずに、時生と海里は子猫のための小さな墓穴を作った。身体の小さな仔猫だったので数分とかからずに、墓はできた。草を敷き詰めて摘んだ野の花を添えて、子猫を寝かせる。最後に一度だけ海里は撫で、時生が柔らかい毛布で包むように土をかけた。

ささやかな葬式が終わる。

「…一ノ瀬さんは生き物の死体が怖くないんだね。」

先ほどの海里は死に対して敬意すら感じるほどに、自然に抱き上げていた。それは泣いている赤子をあやすために抱くのと同じ感情にすら似ていた。

「死体、って怖い、ですか?」

時生の言葉に海里は驚きを交えて、問いで返す。

「普通は、恐怖とか嫌悪感を感じるんじゃないかな。」

苦笑しながら時生が意見を述べると、海里はどこか呆けたように「そうですか」と呟いた。しばらくの沈黙の帳が降り、風と一緒にどこからか蝶々が飛んできた。思わず瞳の先が奪われて、二人の視線が交わった。

「標本ってもうできたんですか?」

「ん?ああ、蝶々の?まだだよ。死骸の乾燥に、2~3週間かかるから。」

樹脂封入標本について海里が記憶にとどめていたことに驚きを覚えつつ、簡単に時生は標本完成までの工程を説明した。

「…それで、完成まで一か月ぐらいかな。」

「結構、時間が必要なんですね。」

海里の幾分かがっかりした様子にも聞こえた声色に、時生は首を傾げてみた。

「もしかして、楽しみにしてた?」

「はい。」

まさかと思いつつも、海里に即答されて時生の胸に嬉しさの色が滲む。今までこの趣味を理解されたこともなければ、興味を持たれたこともなかった。

「八尾先輩こそ、死体怖くないんですか?」

「怖く、ないね。」

時生の肯定を得て、海里は満足そうに頷いた。

「私は…死体を愛おしく思うんです。死体には生きてきたすべてが刻まれていて、とても…愛おしい。」

生を駆け抜けてきた体がまるで、語りかけてくるようなのだと海里は言う。

「私が中学二年生のときに祖母が亡くなったのですが、私、泣けなかったんです。」

亡骸となった祖母の肌は不思議な冷たさだったと、海里はまるで恋人を思い出すようにうっとりとした目つきを見せた。

海里自身をとてもかわいがってくれたらしい。高齢だった海里の祖母は誤嚥性肺炎を患って亡くなった。入院していた病院で祖母の亡骸と面会をして、そっと彼女の細く深いしわが刻まれた頬に触れた。無機質な冷たさではなく、かといって命の温かさがあるわけでもない。透明なリボンをするりと解いたような海辺の砂のような感触と、宝石の中で唯一体温を感じさせる真珠のような冷たさだった。

「故人の思い出はもちろん頭によぎりました。でも…、私。その時、その場にいた祖母がとても可愛らしい子どものように思えて、微笑ましかった。」

海里は瞳を伏せて、ふ、と吐息を漏らす。そして瞼を重そうに持ち上げて、ゆらりと時生を見た。

「八尾先輩は何故、死体が怖くないんですか。」

「僕は、そうだな…。」

自らの原点を辿る旅に出る。考え、脳裏に浮かぶ幼い時生は水分の多い空気に包まれているようによく見えなかった。「一ノ瀬さんみたいな明確な記憶があるわけではないんだけど。僕の両親は亡くなっていて、その、ちょっと重い話になるんだけどいいかな。」

どうぞ、と海里が頷いたのを見て時生は言葉を紡ぎ出した。

「両親は生まれたばかりの僕を一人残して心中したらしいんだ。アパートの一室で二人が死んでいるところに、一人泣いていたのが僕。」

「…一緒に逝きたかった?」

海里に好奇心の色はなく、ただ純粋な疑問だろう。おかげで随分と話しやすい。時生は少し考えて首を横に振った。

「そうでもないな。今、死にたいほど恋しいわけでもないし。だけど、思い出すことがあるんだよね。」

黒い繭のような空間にゆらゆらと蜃気楼のように揺れる二つの人影。それは首をつって亡くなっていたという両親の最期の姿だと思う。

「それは、曖昧な僕の両親の記憶。きっと死体なんだけど、一番古い家族団らんの思い出だ。」

死体。すなわち、両親。両親は幼い時生から、死体への恐怖心を奪っていった。

「今は後見人の叔父に支えられて、生活してるよ。高校に進学してからは気楽な一人暮らしまで許してくれている。」

はは、と時生が笑って見せても、海里はつられて笑うことはなかった。

「そうでしたか。私はてっきり、薬指を切断したから、などと陳腐な物語の延長線上を披露してくれるのかと思いました。」

「陳腐だと思っていたのか。」

毒づいて気分を良くしたのか、海里がようやく笑う。

「八尾先輩の思い出話、興味深かったです。ありがとうございました。」

「お粗末さまでした。」

互いに頭を下げ合うという何だかおかしな展開に陥った。その会話の最中に過ぎ去った時間を授業の終了を告げるチャイムで知る。

「どうする?」

「何がですか。」

次の授業、と時生が告げると海里は首を横に振って見せた。「これからがサボり本番ですよ。」

ふふふ、と何かにケンカを売っているかのように海里は不敵に笑う。

「いや、本領発揮されてもな…。」

時生は立ち上がり、衣服についた土ぼこりをぱたぱたと掌で払った。頭の中では時間割が浮かんでいる。

「僕はそろそろ行くよ。一ノ瀬さんもたまには授業に出なね。」

「やーいやーい。真面目ー。」

バカにしているんだか、褒めているんだかよくわからない煽りを受けながらその場を後にする。時生の背中が見えなくなる刹那、海里の声が僅かに聞こえた。

「この場所を他の人にばらしたら、怒りますからね。」

了解、と左手を上げて見せ、今度こそ本当に時生は校舎に向かって歩いて行った。


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