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待ち伏せ

「今日、学校を休んでも良いのよ?」

登校準備をする海里に母親は言う。

「ううん、行く。いつもの日常を過ごさないと。」

そう言いながら靴を履き、玄関の土間に立つ。海里は微笑んで、振り返った。

「行ってきます。」

扉を開けると朝日が目に眩しく、景色が一瞬白く染まった。手で日陰を作り、空を見上げる。朝を迎えた喜びを鳥たちが歌っていた。

駅前の通学路で小学生が集団登校の列を成し、まだ眠そうなサラリーマンがあくびをかみ殺しつつ通勤している。海里が乗り込んだ電車は時生が住む町の最寄り駅へと向かう車両だった。電車は線路に導かれて、時々揺れながら人々を目的地へと運んでいく。

気の抜けたような音と供に電車の扉が開く。住宅街に位置する駅に降車する乗客は少なく、海里は身軽にホームへと降り立った。もう勝手知ったる時生が済むアパート、かぜよみ荘への道を辿る。進んでいく先は段々と賑やかになっていくようだった。パトカーと警察官、野次馬がかぜよみ荘を囲んでいるのが見えた。時生の上の部屋の扉付近にはブルーシートが貼られ、鑑識官とも思える人たちが忙しそうに行き交っている。

海咲さんと上田さんは、あそこで死んだのか。彼らは一体、どんな最期を迎えたのだろう。

現実感がまだ涌かなかった。

野次馬に交わることもはばかれて、海里はじっと電柱の影に隠れるように見守った。案じていたのは、時生のことだった。彼は今、何を思っているのだろうか。

両親に時生に会うことを禁じられたものの、海里はもう一度会いたかった。詰る気も、怒る気もない。ただ、時生の口から海咲と喜一の最期を語って欲しいと思った。

「時生…、さすがにあの渦中にはいない…よね。」

今、かぜよみ荘に何食わぬ顔をして住んでいるとは思えない。保護者である叔父のところに帰っている、と思った方が自然だ。海里はふとため息を吐く。時生のメールアドレスと電話番号は両親の目の前で携帯から消去してしまったので、連絡のしようがない。きっと一度はかぜよみ荘に戻ってくることを信じて、海里は待ち伏せを始めるのだった。午前が過ぎ、正午になっても時生は現れない。もしかしたら学校にいるかも、という考えもよぎったが、動いたことで入れ違いになるのも避けたかった。ここで待つと決めたからには、動かない方が良い気がした。午後二時の一番暑い時間帯、じりじりと厳しい残暑が肌を焼く。いつもなら日焼けを嫌がって早々に建物に避難するが、今日はどんなことがあっても我慢しようと思った。

海里は俯いて足下を見つめていた。蟻がせっせと餌を集め、巣へ運んでいく。その餌の中には何かわからない虫の翅があった。デジャブのような光景を見て、海里はワンピースのポケットを探る。取り出したのは時生が作ってくれた樹脂封入標本だった。手のひらで転がすように眺める。蝶々の翅のきらめきは失われたが、形はきれいに残っている。もっと丁寧に作れば良かった、と言った理由の僅かな傷を中指の腹でなぞった。つるりとした樹脂の表面に刻まれた傷に何故か愛着がわいた。それは仲間意識にも似た感情だった。

野次馬の顔ぶれが次々と変わっていく中、海里は忍耐強く待った。時が過ぎ、日も暮れていく。日中、ずっと晒されていた肌は赤くなりヒリヒリと痛んだ。海里の白い肌は日焼けする代わりに、爛れるように熱を持つのだった。

もうすぐ門限の時間を逆算して、家に帰らなければならない時間だ。今回の件を以て、父親はひどく神経質になってしまっているので早く帰宅して安心させてやりたかった。海里は名残を惜しんで振り返りつつも、その場から離れる。電車に乗り込み、帰路につく。帰宅する人々の波に流されながら、駅の改札を出ると父親が手を振っていることに気が付いた。

「おかえり、海里。」

「ただいま…って、どうしたの?」

首を傾げつつ、海里は父親の元へと駆け寄る。

「ん…、たまには迎えに行こうかなと思ってな。」

恥ずかしそうに父親は笑い、頬を人差し指で掻く。海里は父親の心情を察して、下ろされた手をそっと握った。

「お父さん、ありがとう。帰ろっか。」

父親は驚いているようだったが、すぐに嬉しそうに海里に連れられるままに歩き出す。

手を繋いで歩くのは何年ぶりだろうと思う。今思えば、幼い頃はよく手を引いてもらっていた。

「…海里。」

ありふれた会話が途切れて、父親が呟く。

「何?」

「昔、お前は双子で生まれてくるはずだったと話したことがあっただろ。」

海里は頷く。

「生まれてきてくれたのが、海里で…本当によかった。そして、こうも思うんだ。」

言葉を句切り、父親は空を見上げた。今日は雲が厚く朧月夜だった。やわらかな月光が、周囲を包んでいた。

「…亡くなったのが、海里でなくてよかった。」

「!」

海里は父親の横顔を見上げた。唇の端が震えているのがわかる。その言葉の意味が、二重の意味を含んでいることが理解できた。父親は双子の片割れでも、海咲と喜一のカップルでもなく、何よりも誰よりも海里を選んでくれたのだ。仄暗い罪悪感と供に、途方もない多幸感が海里の胸に満ちる。父親は握っていた手の力をぎゅっと強くする。

「伝えるのが遅くなってごめんな。」


次の日も海里は高校には行かず、かぜよみ荘の前に来ていた。野次馬は幾分か少なくなり、パトカーもいなかった。だが、二人分の死の重みは拭えないほどの空気の澱みとなって周囲を穢していた。海里はその空気に身を浸しながら、星ノ尾の練習スタジオでのことを思い出していた。

昨夜、正式に星ノ尾の劇団員に海咲の死が伝えられた。困惑の視線、すすり泣く声。驚愕の息づかいがその場に満ちた。

『海咲さんが彼氏を殺めたんだって。』

『ちょっと、やだ…。劇団にクレームきたらどうすんのよ。本人は自殺したんでしょ。』

不安に駆られ、死人を悪く言う者もいた。

人が二人亡くなっているのだから、悲しめば良いのに。供に演劇の道を歩んできた仲間に責められ、詰られる海咲が不憫でならなかった。

劇団は一週間、喪に服すことになりその期間は稽古も休みになった。『KINGFISCHER GIRL』の劇も続投か、降板かも知れない中途半端な状況だった。

「ー…、」

海里は歌をうたう。

「ささやき、繰り返し、響く私の星…。」

それはカワセミの少女の歌。

「心だけでも、想いだけでも傍に行けたら良いのに。」

海咲が歌うはずだったもの。

「…ポラリス。私に何を示す。」

細く、高い音程の歌詞たちに声がかすれてしまう。成長期の海里の喉には負担が掛かった。だが、海咲は。海咲なら、歌い上げることができたのに。

見守っていて、と願うにはまだ早くて、心の整理が付かない。だからせめて、まずは手を振ることから始めようと思う。私が手を振った際に起こった風が追い風になり、海咲と喜一の魂が緩やかに天に昇っていけば、それでいい。

海里は空を見上げてみる。十月の空は晩夏を宿して、未だに入道雲を描いていた。


待ち伏せも三日目となると、さすがに高校から無断欠席の連絡が行くだろうか。時生との面会を禁じられている身分ゆえに、その状況は避けたいところだ。そろそろ高校に行かなければ、と思う。今まであんなに嫌っていたのに、登校を隠れ蓑にしている自分の調子良さに若干呆れるが背に腹は代えられない。

私は、時生に会いたい。

ただその一心だった。

貴重な水分であるペットボトルのミルクティーを大事に飲みつつ、その温くなってしまったがためのもたれるような甘さに眉をひそめた。素直にミネラルウォーター、せめて無糖のお茶類にすればこんな不快感は味わわなくてよかったのにと一瞬思ったが、少しでも時生を感じたかったからこのチョイスにしたのだと考え直す。

「時生のばーか、ばーか。」

適当にリズムを付けて、繰り返していると散歩中の犬が不思議そうに見つめてきた。

犬は嫌いだ。幼い頃に、追っかけ回されたことがある。犬は無邪気に遊んで欲しかっただけなのかも知れないが、自分よりも体長のある獣が迫ってくるのは唯々恐ろしかった。

ざり、と一歩、後ずさろうとした刹那、頭上から優しい声色が降ってきた。

「大丈夫?海里。」

自らを案じるその柔らかい言葉に、時が一瞬止まった気がした。ゆっくりと振り返る。

そこに、時生が立っていた。


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