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零れた言葉

劇団星ノ尾のスタジオの更衣室で、海里は練習着に着替えていた。てっきりすでに来ているものと思っていた海咲の姿はなく太陽のような明るさを持つ彼女の不在は、何だか寂しい。

「お疲れ、一ノ瀬さん。いよいよ今日から本格的な稽古になるね。」

海里の隣のロッカーを使う演劇仲間が、シャツを脱ぎながら話しかけてくる。

「お疲れ様です。そうですね、楽しみです。」

長い髪の毛をポニーテールに結いながら、海里は頷いた。

「一ノ瀬さんと斉藤さん、良いコンビだから劇もどうなるか楽しみだわ。」

主役を逃したものの、海里は海里でカラスの青年の役を射止めている。

「ありがとうございます。…良い劇にしましょうね。」

はにかみながら準備を終えて、海里は更衣室を出る。稽古が始まるまでに準備運動のストレッチを済ませておこうと思う。

やがて稽古の集合時刻が過ぎ、団長や演技指導の先生が劇団員の前に訪れた。だが、海咲はまだこの場にいない。海里は時計を気にしながら、海咲を待った。

「…おや、斉藤さんは?」

団長が気付き、劇団員に所在を尋ねた。

「まだ来ていません。」

「あんなに張り切っていたのに…どうしたんだろ。」

主役の海咲がいないことに、周囲がざわつき始める。

「海里、何か知っているか?」

海里の父親の団長が、娘と仲が良いという理由で問う。だけれど海里も知る由もなく、首を横に振った。

「そうか。まあ、今のところは様子を見て、欠席の連絡も無いようだったらこちらから連絡してみよう。…じゃあ先にカラスの青年が、すずめの老女の捜し物を手伝うシーンから読み合わせをしていこうか。」

はい、と劇団員の声が揃うが、ひそひそと囁く声は止まなかった。

「海咲ちゃん、祝杯でもあげて二日酔いなんじゃない?」

「ああー…、初めての主役で浮き足立ってたからねえ。」

海咲はカワセミの少女の役を神聖視すらしていた。そんなことはあり得ない、と海里は声を張りたかった。

確かに海咲は誰よりも貪欲にこの役を得たがっていた。それが叶い、浮き足立つのは当然のことだ。だが、その目的を果たしただけで満足し、稽古をおろそかにする愚弄を犯すようなことは絶対にしない。

「あの、それは、」

海里が声を上げようとした刹那、団長の声が重なった。

「海里。カラスの青年役のお前がいないと始まらないんだが。」

「…すみません。」

今、場の調和を乱すのは良くないと、団長は判断したのだろう。主役の海咲のことで空気が悪くなれば、当人が現れた場合に気まずさは増すはずだ。

海里は無理矢理気持ちを切り替えて、役者の円陣に加わり台本を開くのだった。

結果として、今日の稽古に海咲は現れなかった。団長は首を傾げつつ、劇場の電話で海咲に連絡を取ろうとする姿が見えた。だが、彼女のスマートホンに通じるものの通話に出ることはなかったという。

「海里も斉藤さんに、メールをしてみてくれないか?」

心配する団長にそう頼まれて、海里は頷くのだった。

事務の仕事が残っているという団長を残して、海里は一人で家路につく。その帰り道、海里は自らの携帯電話を取りだしてメールの制作画面を開いていた。

『こんばんは、海里です。今日はどうしましたか?皆、心配しています。』

文章を制作して、送信する。そしてもう一通、今度は喜一宛にメールを打った。

『上田さん、こんばんは。あの、海咲さんを知りませんか?今日の稽古に来なかったので。何か知っていたら、連絡ください。』

そういえば一日に一通は来る喜一からのメールも今日は来なかったな、と海里は思う。

一人の夜の道がいつの間にか孤独を囁く、僅かな恐怖を孕んでいた。前までは一人でいることが当たり前で、夜の闇も怖くなかったのに。きっと時生を初めとして、心を許す人間が増えたのだ。これは恐らく良い変化なのだろうと言うことは、理解できた。だがこの恐怖が続くことで自分が弱くなったらどうしようとも思う。

「…それも、いいか。」

恐怖の闇を祓う月明かりが道を照らしていた。月は確かに存在する。その月は、時生だ。彼を思うだけで、私は強くなれる。


二日が経ち、時生は検査入院を終えた。病院を出ると、外のロータリーで待っていた海里が気付いて駆け寄ってくる。「時生、退院おめでとう。」

そう言って、海里は時生の荷物が入ったボストンバッグを受け取ろうとする。

「ありがとう…って、彼女に荷物を持たさせる彼氏ってどうなんだろう。」

うーん、と時生は首を傾げた。

「いーの!今日は、退院祝いだから。」

海里は引ったくるようにして、時生の手からボストンバッグを奪い取った。着替えや洗面用具だけなので、女子でも持っていて負担は少ない。が、男子としては考えようだった。

「海里、やっぱり自分で、」

持つ、と言おうとするも、海里が父親の姿を見つけてさっさと駆けていってしまう。

「お父さーん。時生、来たよ。」

愛娘に話しかけられて、煙草を吸っていた父親が嬉しそうに顔を上げた。

「おお、来たか。八尾くん、久しぶりだね。」

「お久しぶりです。わざわざ車を出してもらって、すみません。助かります。」

今日、病院からの迎えの車を、海里の父親が買ってでてくれたのだった。

「いいよ、いいよ。気にしないでくれ。さあ、乗って。」

海里は父親の喫煙に文句を言いながら、すでに助手席に乗り込んでいる。

「海里、八尾くんの荷物なんだからもっと丁寧に扱いなさい。」

時生のボストンバッグを勢いよく自身の膝の上に置く海里を、父親がたしなめた。

「あ、大丈夫です。そんなたいした物は入っていないので。それよりすみません、お嬢さんに荷物を持たせてしまって。」

時生は頭を掻きながら、後部座席に乗った。

「悪いね、がさつな娘で。荷物も無理矢理、八尾くんから取ったんだろう?」

苦笑しながら、父親は運転席に乗り込む。海里は唇をとがらせた。

「だって、病み上がりなんだよ?荷物持つぐらい、普通でしょ。」

「いやー、彼氏としては良い格好つけたいところだろう。ねえ、八尾くん。」

さすがに同性でもある海里の父親は、時生の心持ちを敏感に察してくれる。まあ、と時生が困ったように笑うと、海里が憤慨したように振り返った。

「迷惑だったの?」

「ありがたかったです。はい。」

時生が頭を下げると海里は、よろしい、と満足そうに笑い、前を向いた。

「もう尻に敷かれてるようだねえ。」

その様子を、父親が微笑ましく見守っていた。

しばらく車内は和やかな雰囲気を保ち、道路を走っていた。だがその内に、時生はこの時間帯は海里がいつも稽古の時間に費やしていたことを思い出した。

「ところで、今日の劇のレッスンはどうしたんですか?」

わざわざ休ませてしまったのかと思い、時生は問う。

「…それがね、主役を演じる海咲さんと連絡が付かないの。」

海里が心配そうに瞳を伏せながら、答える。

「さすがに主役がいないと、練習もできなくてね。代役を立てていたんだが、それも限界があって。」

どうしたものかなと呟きながら、父親が首を傾げた。

「劇団員にも無理を強いることも難しい。これからも連絡が付かない様子が続くようなら、最悪は主役を降りてもらうしかないな。」

「でも、お父さん。…海咲さんはすごく頑張っていたんだよ。練習に来られないのはきっと、何か理由があるはず。」

落ち着かない様子で手を揉みながら、海里は海咲の身を案じていた。

「たった三日。されど、三日。役者は一日もあれば、爆発的に成長することがある。海里にも身に覚えがあるんじゃないか。…稽古にあてる一日をおろそかにするのはいただけない。」

「…。」

父親の言うことが理解できるのだろう。海里は唇を噛み、俯いた。

「海咲さんなら、」

車窓から流れる景色を眺めながら、時生の口からするりと言葉が零れる。

「アパートの上階で死んでますよ。」


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