永遠の別れ
―…別れよう。
喜一の言葉が海咲の心を切りつける。あまりの早業に一瞬切られたことに気が付かず、海咲は混乱した。
「…え?何、」
「ごめん、海咲。」
海咲が仰ぐように見ると、喜一は頭を下げていた。その肩は震えて、耐えるように拳をぎゅっと握りしめている。
「俺、他に好きな人がいる。だからこのまま、海咲と付き合えない。」
この人は何を言っているのだろうと思う。海咲はまるで客観的に喜一を見つめていた。その間も、喜一は何度もごめんと繰り返す。幾度目かの謝罪の言葉に、やっと海咲は彼が犯した過ちを知った。
「好きな人って、ちょっと待って…え?誰…、」
私はきーくんが好き。そして、きーくんも私のことを愛してくれる。
「一ノ瀬海里ちゃんを、好きになった。」
きっかけは『青い靴』の公演だった。海里の躍る足元、流れる手先。艶やかな目線が記憶にこびり付いたという。妹のように接するようになると、たまに見せる笑顔にとてつもなく惹かれた。そしてあの日。海里の涙を見て守りたいと思い、自らの感情が恋だと知った。
「…ごめん。」
海咲の真っ白になる思考回路が黒くなるその前に、感情が弾けた。
「包丁で刺したんですか。」
時生の言葉に海咲は小さく頷いた。その動作を確認して立ち上がる時生の腕に、海咲は縋る。
「ま、待って…、どこへ、いくの?」
「上田さんの部屋です。まだ、生きているかもしれない。」
海咲は大きく首を横に振った。いつも綺麗に整えられている髪の毛が乱れていく様は哀れを通り越して、悲惨に思えた。
「そんなことない!生きてる、なんて…だって、」
「だって?」
かちかちと親指の爪を噛み、海咲は自らを落ち着かせようとしている。
「だって、刺したのは一度じゃない…っ!」
彼女に飛び散った血飛沫を見ると、放った言葉の意味が知れた。海咲は喜一が死ぬまで包丁を用い、刺し続けたのだ。
時生は酷く冷静だった。ふむ、と頷いて、海咲の肩をそっと抱く。
「じゃあ尚更、様子を見てこないと。海咲さんはここにいてください。僕一人で、行ってきますから。」
そう言って突き放そうとすると、海咲は時生の手を握った。
「だめ!一人にしないで…。どうしても行くなら、私も行く!」
「…わかりました。」
怯える海咲の手を引いて、時生は玄関を出た。階段を上って行く間に会話はなく、喜一の部屋に近づく度に重苦しい死の空気がねっとりとした粘度を以て、足もとから這い出てくる気がした。喜一の部屋の玄関は僅かに開いている。生きている人間が存在する気配はない。時生は躊躇なく扉を開き、土足のまま部屋に入ると小さいキッチンで俯せに倒れる喜一を発見した。
床には血が擦れるような痕があり、喜一が這って逃げようとしていたことを察することができる。伸ばされた手の先には喜一自身のスマートホンがあった。
「…。」
時生は喜一の身体を仰向けにすると首元から脈拍と、口から呼気の有無を確認する。どちらも皆無ながら、まだほんのりと温かい。
「死んでいますね。」
喜一の腹部に傷痕が窺え、腹の傷口を押さえるようにして倒れたのだろう。その後を追った海咲は、背中から幾度も包丁を突き立てたらしい。血は床に多量、壁に少量散っていた。喜一は苦悶の表情を浮かべ、頬には涙の痕があった。即死できずに苦しんだようだ。
「きーくん…、きーくん…っ。」
海咲は膝をついて崩れ落ちる。肩が震えていた。
「海咲さん、どうしますか。自首するなら、警察まで付き添いますけど。」
「…っ、…!」
時生の言葉に海咲は首を横に振る。涙の雫が飛び散った。
「…私も、死ぬ…。」
幽霊のようにゆらりと立ち上がると、海咲は部屋の隅には放ってあった凶器であろう血に濡れたままの包丁を手に取った。
「…そうですか。残念です。」
時生は溜息を吐く。
「…止めないの?」
「止めてほしいですか?」
海咲は可笑しそうに笑った。
「ううん。ねえ、時生くん。」
「なんでしょう。」
時生は小首を傾げる。
「私が死ぬまで、傍にいてくれない?」
途中で怖くなって逃げないように、と海咲は呟いた。
「いいですよ。」
二人は喜一の部屋に備え付けられている小さな浴室へと移動した。冷たいタイルの床に座り、海咲は包丁で左手首を切る。切っ先は震え、幾度か切りつけると静脈を傷付けたのか一瞬噴水のように血液が吹いた。海咲が拳を作って力を籠めると、圧が掛かったのか血液が再び勢いよく溢れ出る。
「痛いですか?」
脂汗が額に滲む海咲に時生は訊く。
「うん…。すごく、痛い。でも、頑張らないとね。」
傷口が乾かないように、水が張った浴槽に手首を浸した。手首から滲んだ血液は絵の具のような粘度を持って、揺らぐように水を紅く染めていく。比重から血液は水底に溜まるようだった。
「時生くん…私が死んだら、海里ちゃん…泣くと思う?」
「確実に泣くでしょうね。」
浴槽にもたれ掛かりながら、海咲は、ふふ、と笑う。笑った後に遠くを見つめるように目を細めた。
「悔しい…、悔しい。悔しい…っ。海里ちゃんなんて、いなければよかったのに。」
呪いを吐きながら、海咲は泣いた。
「時生くん…?」
隣にいる時生を見て、海咲は怪訝そうに眉根を寄せる。
「何故、笑ってるの。」
時生は唇を弧のように引いて、笑っていた。その表情を見て、海咲はその場で嘔吐する、胃酸と臭気にけほけほと海咲はむせた後に、いよいよ狂ったように笑いだした。
「何だ。壊れていたのは、私だけじゃなかったんだ。」
ひとしきり笑うと、二人はまるで仲の良い姉弟のようにぽつぽつと語り合う。
「海咲さん、出血多量による死因には二つの種類があるらしいですよ。」
「そうなんだ。私は何に、なるの…?」
時生はスマートホンの画面を見ながら答える。
「首のような太い血管を切って、短時間で死ぬ場合は失血死。海咲さんのように長時間で死ぬ場合は、出血性ショック死が多いそうです。」
「そっかあ…、首を切る選択肢もあったね…。ごめん、時間が掛かっちゃって。」
その様子を想像した時生は、ゆるりと首を横に振った。
「いえ、その場合だと掃除が大変そうなので。…海咲さん?寒いですか。」
時間が経つにつれて海咲の顔色は白くなっていき、身体が小刻みに震え始めた。
「う…ん。少し、ね…。」
瞼を重そうに持ち上げると、海咲は涙を零した。
「視界が、チカチカす…る…。あれ、よくみえないな…。」
そう言うと、海咲は瞳を閉じた。
「海咲さん。」
「…。」
時生がそっと肩に触れて、揺すって覚醒を促すも反応はない。どうやら意識を失ったようだ。
「お疲れさま。」
海咲の髪の毛を撫で、時生は立ち上がる。このまま放っておけば、海咲は死ぬだろう。居間では喜一が死んでいる。時生は喜一のスマートホンをハンカチで包みながら手に取った。操作して指紋認証の設定を引っ張り出す。硬直が始まる前に喜一の掌を開いて、指の一本一本を認証させてロックを開いた。そしてアドレス帳を表示させて海里のメールアドレスと共に、メールのやり取りを消去する。これでいい。
ボトムスのポケットから今度は自分のスマートホンを取り出して、時生は海里に電話を掛けた。しばらくの着信音の後に、海里が電話に出た。
『もしもし、時生…?』
「海里。今から会えない?」




