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彼女の名前

少女の名前が一ノ瀬海里だということを知ったのは、入学式からおよそ一か月後のことだった。海里はその私服のファッションセンスと共にサボり癖が有名になり、職員室前の掲示板によくその名を刻まれていた。

放課後、部活に赴く生徒または帰路に就く生徒で職員室の前の廊下は人の行き来が激しい。時生は掲示板に貼る部員募集のポスターの許可を得るために、職員室に訪れた。

「おう。どうした、八尾。」

生徒会顧問の小林教諭が時生に気が付いて、声を掛ける。時生はスムーズに目当ての教諭を見つけられ、人知れず息を吐いた。

「先生、このポスターにハンコを頂きたいんですけど。」

「どれ。ちょっと待ってな。」

小林教諭はポスターの内容を確認し、快く判を押してくれた。

「写真部、どうだ。人は集まりそうか?」

「どうですかねー…。」

ちょっとした雑談に苦笑を交え、対応する。それよりも時生の視線は職員室の隅の人物に注がれていた。そこには生活指導の教諭から注意を受ける海里の姿があった。時生の視線を追って、ああ、と小林教諭は頷くように声を漏らす。「一ノ瀬さん、目立つよねー。その割には、授業中に徘徊しちゃうから困るよ。」

どうせなら目立たぬようにサボればいいのにね、と小林教諭は豪快に笑った。時生も愛想笑いを浮かべながら、海里から目が離せなかった。海里は叱責を受けているにも関わらず、何も聞いていないようだった。手を後ろで組んで、伏し目がちに顔を下げているがその瞳は何の目色も滲んでいない。やがて、これからは気を付けるように、と言葉を結び海里は解放されたようだ。

「…。」

ふっと顔を上げた海里と目が合う。吸い込まれそうな黒い瞳が時生の姿を映した。彼女は束の間、じっと時生を見るとつんと視線を逸らしてしまう。まるで気位の高い黒猫のようだと時生は思った。

「あらら。振られちゃったなー。」

その様子を見守っていた小林教諭の言葉を適当にかわしながら、時生自身は海里の足取りを見送った。

写真部の部室に戻った時生はカメラのフィルムを現像するために暗室を作る。諸々の手順を踏み、印画紙を現像液に一分ほど浸し、さらに定着液に浸した。ほっと一息をついて、電気の灯りをつけた。出来上がった写真は現代の筈なのに、数十年前に撮影されたかのような不思議な雰囲気の作品になった。光漏れを起こしているのだろう、少しだけ紅く変色してしまっている個所がある。最近ではあえて光漏れ風に撮影するスマートホンのアプリもあったりするので、個人的にも全く問題がなかった。

写真にはこの間撮影した桜に花々が写っていた。時生は一枚一枚を恋人の髪の毛を撫でるような優しい手付きで確認していく。そしてある一枚の写真でふと手が止まった。そこには、桜の樹木に口付ける海里の姿があった。柔らかい光を纏った横顔の表情は砂糖菓子のように甘く、黒い髪の毛の毛先をアンバーブラウンに染めていた。

綺麗だと思う。浮世離れした彼女の美しさはガラスの箱に閉じ込めて鑑賞したくなる、そういう類のものだった。

写真をファイルに挟んで、年代別に収めたアルバムの最新の位置に並べる。時生は帰り支度を整えて、部室を出た。グラウンドでは野球部が練習する声が響き、校舎の奥からは吹奏楽部の音楽が聞える。夜には早く、昼にしては遅い微妙な時間帯。階段を下って行く途中の踊り場の窓から覗く空はカクテルのようにとろりとした色をしていて、アクセントに一番星が彩られていた。

「ん?」

視線を下げて見える階下の景色には、中庭のベンチがあった。そこに黒く、ふわふわのレースが揺れるワンピースの海里がいた。微動だにせず、俯いている姿は泣いているように見えた。いつもなら他人事と決め込み、関わらぬように早々に立ち去るのだが何故だろうか。今日に限って、心がざわついた。時生は駆けだす。最後の三段を一気に飛び降りて、中庭に出ることができる渡り廊下まで走った。その間も海里はじっとベンチに座っていた。時生は乱れた息を整えつつ、驚かせないようにゆっくりとした足取りで海里の元へと辿る。

「あ、の。」

話しかけようとして気が付いた。海里は俯いて泣いているのではなく、首を傾げるように眠っていた。

「…なんだ。」

ほっと安心して息を吐く。時生は海里を起こさぬように、彼女の隣にそっと腰掛けた。そして膝に頬杖をついて、海里の横顔を見る。あどけない幼さを含んだ眼もとに、ぽってりとして色っぽい唇が共存する一般的に可愛らしいと言われるだろう容姿だった。このままずっと眺めていたかったが、まだ春先とはいえ夕刻は冷える。起こしたほうが良いだろうなと判断し、時生は海里の肩にゆっくりと触れた。「一ノ瀬さん?起きてー…、」

肩の細さに驚きながら、控え目に声をかけてみる。肩を揺らしたその反動で、海里の膝に乗っていた冊子がするりと落ちてしまった。慌てて拾いあげると、その冊子の表紙が目に入った。

「これは…、台本?」

物語のタイトルと共に、小さく劇団星ノ尾と印字されていた。そしてたくさんの付箋が張られていた。

「…ん…、」

小さな声が、海里の唇から洩れる。そして重たげに瞼が開いた。ぼんやりと時生を見つめて、不思議そうに首を横に傾げる。やんごとなき幼子のような仕草に、時生の心臓の鼓動が一度大きく脈打つ。それを無視して、何事もなかった風を装う。

「あ。一ノ瀬さん、起きた?」

「…?…!」

海里の揺らぐ瞳に、警戒の目色が滲んだ。すっくと勢いよくベンチから立ち上がり、海里はその場から駆け出してしまった。その素早い反応にどうすることもできず、時生は後ろ姿を見送った。

「って、あれ!?ねえ、これ―…!!」

時生が自らの手に残された台本に気が付いて、慌てて声をかけるも海里は振り向くことせず姿は見えなくなっていた。時生は、あちゃー、と呟いて手を額に当て空を仰ぐ。

「どーすんだよ、この台本…。」

仕方なく時生は台本を折らないように丁寧に鞄に仕舞う。今日は金曜日。月曜日に返すということで間に合うだろうかと危惧しつつ、持ち帰ることにした。

夜の帳が降りて、時生はアパートの自らの部屋でベッドに寝転んでいた。その手にはスマートホンが握られ、時生はSNSを眺めていた。流れていく情報の中に劇団に所属する青年の投稿があった。写真も添えられていて、たくさんの付箋やメモ書きがしてある台本が写されている。時生は海里のことを思い出し、何気なくメッセージを送って見ることにした。

『役者さんにとって、台本はどのぐらい大切なものですか?』

青年はメッセージを受ける着信をオンにしていたのだろう。返信はすぐに送られてくる。

『なければ何も始まらない。台本は役者の核です。』

「…。」

返信のメッセージを噛み締めるように見て、時生はベッドから起き上がった。学習机の上に置いた海里の台本を手に取る。その台本は読み込まれ、ページの淵はペラペラに薄くなり、書き込みがたくさんされている。きっとこれは海里にとって、とても大事な物だろう。

再び、スマートホンを取り出して今度は検索エンジンを引っ張り出した。そして「劇団星ノ尾」を入力した。


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